◆幕末期の三河地方◆

幕末の渥美半島 2003年02月25日作成
                             
【三河武士がゆく】


 
■外国船の接近と海防 

寛政期(1789〜1800年)以降、イギリス・ロシア・アメリカなどの外国船が日本近海に頻繁に現れ、薪水の補給や通商などを要求し、時には占拠・掠奪をすることさえあった。鎖国政策をとっていた幕府は対応に苦慮し、海防の必要性を痛感するようになり、諸藩に海岸の防備を命じた。

太平洋沿岸に所領をもつ田原藩(三宅氏)は積極的に海防に取り組んだ。藩士は剣術や砲術の修練に励み、太平洋側の所領である赤羽根村・久美原村・和地村には遠見番所と台場(砲台)を築いて備えた。また家老渡辺崋山を中心に蘭学の研究がおこなわれ、西洋流の兵学もとりいれられていった。崋山の死後、高島秋帆に砲術を学んだ村上範致(定平)を中心に軍制改革がすすみ、大砲の鋳造がおこなわれ、嘉永3(1850)年には、西洋流砲術が採用された。さらに開国後の安政4(1857)年、日本で2番目の西洋帆船(順応丸)をも造船して、田原藩は海岸防備の先進藩となった。なお、慶応(1866)2年には英国式の軍制にあらため、明治維新を迎えた。

畠村に陣屋をおく(旧渥美町役場の南)大垣新田藩(戸田氏)は、元治元(1864)年、朝廷の要請により、伊勢神宮警護のため日出村に台場を築いた。
 
■戊辰戦争の影響

慶応3(1867)年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還をしたことにより、朝廷は王政復古の大号令を発して天皇を中心とした新しい政府の樹立をはかった。しかし、翌、明治元(1868)年1月、鳥羽・伏見で天皇を擁した薩摩・長州を中心とする勢力と旧幕府勢力が戦いを始めた(鳥羽・伏見の戦い)ことにより、翌年の5月まで、戦いが続くこととなった。この戦いのことを戊辰戦争という。

緒戦に勝利した薩長軍は新政府軍(官軍)となったため、諸藩は新政府と旧幕府のどちらに従うべきかの選択をせまられることとなった。尾張・三河には徳川御三家の尾張藩(61万9500石)をのぞいて、10万国以下の小藩ばかりであり、諸藩の運命は尾張藩の動向に左右されていた。

その尾張藩は、青松葉事件で佐幕派の藩士を処刑して早々と恭順の姿勢を示し、周辺の大名・旗本に対して恭順をするように勧誘を始めた。これに対して岡崎藩や吉田藩のように一部の藩士が脱藩して旧幕府軍に加わることもあったが、全体としては尾張藩にならって朝廷に恭順することになった。

しかし、小藩といえども徳川恩顧の譜代の藩が多く、藩内では佐幕派と恭順派が対立し、簡単に恭順と決したわけではなかった。
 
■大垣新田藩(戸田氏・1万石)

渥美半島では、鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が、明治元(1868)年1月中旬ころより、日出や堀切に上陸するようになり、畠村の井筒万などで休息や宿泊をしている。

政情の急変と物騒な訪問者によって、大垣新田藩の畠村陣屋や付近の村は緊張感につつまれた。藩主戸田氏良(うじよし)は当時江戸にあったが、本藩である大垣藩はすでに恭順しており、そのすすめもあって恭順を決し、北越や東北へ出兵した。

出兵にあたっては領内の村から軍役夫が徴発され、戦場へ赴いた。藩主や藩士およびその家族は江戸藩邸を引き払い、藩領である畠村や大垣方面に移り住んだ。
 
■旗本清水氏

旗本清水氏は中山、西堀切、高木の3か村を知行し、中山村陣屋(現大字中山字成美)をおいていた。
この中山陣屋にも、尾張藩からの勧誘があり、清水氏は恭順した。

渥美半島には他に旗本本多氏(八王子、村松、馬伏、石神、小塩津村の一部を知行)の八王子村陣屋が置かれていたが、よくわからない。
 
■田原藩(三宅氏・12000石)

田原藩の動向はなかなか定まらなかった。国元の田原では年寄渡辺舜治(崋山の子)らのとりまとめにより恭順と定まったが、藩主三宅康保(やすもち・後やすよし)は江戸にあり、恭順には反対だった。康保は、儒者伊藤鳳山や重臣らの度重なる説得によってようやく恭順を承諾し、明治元年3月8日、田原に着いた。以後、江戸にあった藩主の家族と藩士およびその家族は田原に移り住んだ。康保が上洛して参内したのは翌4月22日のことだった。


【参考文献】
『田原町史』
『渥美町史』

 


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