戊辰戦争拾遺 三河武士たちの戊辰戦争 |
【三河の歴史】 第1部三河吉田藩と戊辰戦争 参考文献について 1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上) 2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩 3.吉田藩の恭順と従軍 吉田藩と箱館戦争 『説夢録』 箱館新選組隊士《木下勝蔵》 【三河武士がゆく】 戊辰戦争拾遺 |
第1部 三河吉田藩と戊辰戦争 |
★参考文献について |
最初に三河吉田藩の戊辰戦争に関するおもな参考文献をあげておきます。 ■大口喜六、『豊橋史談』、参陽印刷、大正5年 ■大口喜六、『国史上より観たる豊橋地方』、豊橋市史談刊行会、昭和12年 ■「大河内信古家記」(東京大学史料編纂所蔵)、豊橋市役所、『豊橋市史』史料編2、豊橋市役所、昭和36年 ■豊橋市史編集委員会、『豊橋市史』第2巻、豊橋市、昭和50年 ■豊橋市史編集委員会、『吉田藩日記』、豊橋市、昭和55年 『豊橋史談』の増補改訂をしてあらためて編集したものが『国史上より観たる豊橋地方』です。著者の大口喜六は豊橋町長・豊橋市長・衆議院議員を務めた政治家ですが、郷土の歴史に関心をもって市史の編纂のために尽力した人です。 『豊橋史談』編集前の資料集めは、それらをもとにして書かれた『国史上より観たる豊橋地方』は吉田藩関係の資料の多くは昭和20年6月の豊橋空襲で焼けて失われているだけに、 直接戊辰の時代を知る生き残りの藩士や家族が多く生存していましたので、 しりょ『豊橋市史』の戊辰戦争部分は、「大河内信古家記」『国史上』「から(書きかけ) |
1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上) 2008年7月30日作成 |
(1)松平信古の西上 |
慶応3年12月13日、三河国吉田城主松平信古(のぶひさ)は、旧幕府の軍艦翔鶴丸を借り受け、上京を名目として品川沖を出帆しました。この時の翔鶴丸艦長は肥田浜五郎かとも思うのですが、わかりません。 松平信古は、奏者番・寺社奉行を歴任して、前の大坂城代も勤めていました。大坂城代は、幕府の重職で、たとえば、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中のような昇進がおこなわれたように、大坂城代は老中への出世コースのポストでした。大坂城代退任後はその功績を賞され溜間詰格となり、政治の中枢に近い位置にあったと思われます。溜間詰とは大名の格式のひとつで、老中経験者が多く命じられていました。その溜間に老中経験がない信古が命じられるのは、格別の引き立てであったとみられています。 |
(2)松平信古西上の理由 |
松平信古が江戸を離れた12月13日は、京都にあった前将軍徳川慶喜が、二条城から大坂城に引き揚げた日です。 10月の大政奉還後、朝廷は、新しい政治のあり方を考えるために諸大名を京都に集めました。これに、さまざまな理由を付けて、応じなかった大名もいましたが、京都に集まった大名やその家臣たちの間では、大政奉還後の政治の主導権をめぐって熾烈な駆け引きがおこなわれていました。朝廷の求めによる上京とは別の思惑、つまり、やがておこるかもしれない戦いに備えて、旧幕府勢力も倒幕勢力もともに兵力を京都・大坂方面に集めはじめていたのです。 このような動きのなかで、12月9日、倒幕派主導により、王政復古の大号令が発せられました。同日、小御所会議が開かれ、徳川慶喜の辞官・納地が決められ、倒幕派と旧幕府勢力の緊張が一気に高まります。この危険な状況を避けるために慶喜は、12月12日、二条城から退去して翌日大坂城へ入ったのです。 倒幕派の動きに対抗して、旧幕府は軍事的優位を保つため、旧幕兵の増員だけでなく、諸大名にも出兵を呼びかけ、京都や大坂に兵を集めようとしました。これに応じて兵を率いた大名が大坂に集まりつつあり、一触即発の状況となっていったのです。 このような状況下、松平信古が江戸を離れて大坂に向かったのはどうしてでしょうか?この時期、大名が京・大坂をめざす理由は次にあげるようにさまざまなものでした。 @朝廷の命に応じるため。 A旧幕府の呼びかけに応じるため。 B倒幕のため。 12月の段階では、初めから倒幕を決していたBは別として、@とAは相反するものではありませんでした。旧幕府の中枢に近い、譜代大名の多くは旧幕府に義理立てて朝廷の求めに容易く応ぜず、病気を理由に上京を引き延ばすこともありました。 しかし、いつまでも朝廷の求めに応じないわけにはいかず、上京せざるを得ない状況になってくるのですが、朝廷と旧幕府が軍事的な対立をしていたわけではないので、一旦大坂に出て、状況をうかがいながら、京に入ることは、この時点では矛盾した行動ではなかったと思います。 急速に倒幕勢力と旧幕府勢力(佐幕勢力)との緊張が高まり、一触即発の状態になるのは王政復古の大号令から鳥羽・伏見の戦いまでの間だと思います。諸大名がこの段階で旧幕府側の出兵要請に応えて反幕勢力との緊張が高まりつつある、京・大坂へ出向くということは、有事を視野に入れていたものと思われます。 吉田藩の場合は、旧幕府に対して上京のために届けを出していますが、朝廷は諸藩に対してできる限り少人数での上京を求めています。これに対して約100名の藩士が藩主信古に従って大坂をめざし、時期ははっきりとしませんが、さらに、吉田から応援の藩士が大坂に増派されていたようですので、単純に朝廷の命に応じての西上とは考えにくく、京・大坂方面の幕府勢力増強も意味していると思います。急展開を見せる京・大坂の状況に対して難しい対応を迫られていたと思います。 上坂の経緯を著した同時代史料を知りません。当時江戸詰めの藩士(公用人)であった穂積清軒の弟が大正期?に著した「穂積清軒略伝」中に「然ルニ海内ノ風雲愈々急ヲ告ゲ、幕府ハ各藩二命シテ、速ニ兵ヲ率イテ大阪ニ上リ将軍ヲ護衛スヘキ旨ヲ以テシタルモ、所謂国司大名ハ勿論、徳川家ノ臣藩タル譜代大名ニテモ、形勢ヲ観望シテ憤起命ニ応スルモノ甚タ稀レナリ。是ニ於イテ兄ハ君公ニ献言シテ曰ク、徳川氏弐百五十年ノ鴻恩ヲ報スルハ此秋ニ在リ、速ニ御上阪アルヘシ、然ルニ陸行ハ便ナラス、幕府ノ御軍艦一隻ヲ拝借シ之レニ御人数兵器ヲ積ミ込ミ御用発アラバ、三日ニシテ天保山ニ達スヘシ、御軍艦拝借ノ事ハ臣之レカ手続キヲ致サン、且ツ陸路先発シテ予メ京摂間ノ状況ヲ偵察シ以テ御来着ヲ待ツベシト。君公直チニ之ヲ容レ給ヒ、兄ハ其年十月末陸路先発シ、君公ハ十一月初日軍艦ニ搭シテ品川湾ヲ出発サレタルモ」とあるのを知るのみです。 穂積清軒の母方の叔父は箱館千代ヶ岡で討ち死にした中島三郎助であり、清軒は叔父三郎助に負けず劣らずの佐幕派でした。 「穂積清軒略伝」は、『在村の蘭学』(田崎哲郎・名著出版・1985年)で紹介されており、清軒と三郎助の関係も触れられている。 |
(3)遭難 |
当初は数日で大坂に着くと思われていたようですが、思わぬ災難に出くわすことになります。翔鶴丸は12月13日夜から暴風雨に巻き込まれて乗組員の犠牲者を出しながらも、伊豆国井田子浦(静岡県賀茂郡西伊豆町田子井田子)に入港しました。井田子浦でもこの暴風雨のため漁に出た漁民数十人が行方不明になりました。松平信古一行は、民家などへ分宿し、本陣を正法院に置きました。 |
(4) 志摩的矢湾から天保山沖へ |
翔鶴丸は天候の回復を待って井田子浦を出航しましたが途中、志摩国的矢浦に入港しています。入港の理由は、大風、故障など、資料により異なります。 江戸から天保山沖へ辿り着き、大坂に上陸した日についても、資料により異なりますが、大坂にあった板倉伊賀守への届け(「大河内信古家記」『豊橋市史史料編』)によると次のようになります。 12月12日:乗船 12月13日:出帆、大風雨のため豆州井田子に乗戻す 12月20日:夜井田子出帆 12月23日:的矢出帆 12月25日:着坂 |
(5) 大坂上陸と京橋門警備 |
大坂に上陸した吉田藩隊は、当初大坂生魂社(生玉社)に宿営します。生魂社での宿営場所は、南坊・桃李庵・曼陀羅院などがあげられています。松平信古は市中取締を拝命し、吉田藩隊は大坂市中を巡邏しますが、まもなく大坂城京橋口にある京橋門の警備を任命され、生魂社を引き払い大坂城内の役宅に入ります。これが12月29日頃とみられます。 旧幕府軍の「軍配書」によれば、吉田藩は美濃国大垣藩(戸田家)と交代したことになります。12月25日の江戸薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城に伝えられたのが12月28日ですから、その後本格的な臨戦態勢が整えられたと思われます。吉田藩と警備を交代した大垣藩兵500人は前線に赴き、鳥羽・伏見の戦いで戦死者を出しています。 吉田藩では、吉田から応援の藩兵を派遣増派しているようですが、この時期の藩史料を見ていないので、はっきりとした経緯や到着日・人数がわかりません。情勢の急変に対しての増派であるか、あらかじめ予定されていたものであるのかわかりませんが、藩兵の増派が意味するものが、何であるのかを考えると、松平信古の薩長と闘う意志がみえてくるのです。 慶応4年正月3日の開戦は間近に迫っていました。 |
【三河の歴史】 第1部三河吉田藩と戊辰戦争 参考文献について 1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上) 2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩 3.吉田藩の恭順と従軍 『説夢録』 【三河武士がゆく】 |