戊辰戦争拾遺
三河武士たちの戊辰戦争
 

【三河の歴史】
第1部三河吉田藩と戊辰戦争

1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍


吉田藩と箱館戦争

『説夢録』
箱館新選組隊士《木下勝蔵》


【三河武士がゆく】
戊辰戦争拾遺
 
第1部 三河吉田藩と戊辰戦争 
 
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩 
 2008年8月2日作成
 2013年7月17日訂正
 
 
(1)鳥羽・伏見の戦い

吉田藩士たちが大坂城京橋門の警備について数日あまりしか経っていない、慶応4年正月3日、鳥羽・伏見方面で旧幕府軍と薩長軍が衝突し戊辰戦争が始まりました。吉田藩隊は京橋門の守備に専念していたためか、戦闘に参加した記録はみあたりません。

吉田藩と警備を交代した大垣藩は戦闘に参加して犠牲者が出ています。松平信古の大坂到着は大幅に遅れました。この到着の時期が予定通りであったり、また戦闘部署が定められる前に到着していたとしたら、吉田藩士たちの命運も変わっていたかもしれません。

旧幕軍の総督は、大河内松平家の親戚筋にあたる大多喜藩主、老中格(大河内)松平正質でした。さらに、正質は吉田藩主松平信古の実弟(★実父は鯖江藩主間部)であったことからも、信古が西上した理由の一端がうかがえるかもしれません。戦後、正質は戦争の責任を問われることになりますが、信古は正質の減刑の為に尽力することになります。

※役宅不明

 
(2)徳川慶喜の大坂城退去(後門からの脱出?)

戦闘の行方に関しては大方の旧幕軍の将士がそうであったように、吉田藩士たちも楽観的に考えていたのではないでしょうか。しかし、事態は思わぬ方向に急展開していくことになります。兵力に勝り、有利であると思われていた旧幕軍が各方面で敗れると、大坂城にあった前将軍徳川慶喜は正月6日夜(午後10時頃か?)、数人の供を従えたのみで、ひそかに大坂城を抜け出したのでした。この従う者のなかに、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬が含まれていたことは多くの人が知る話です。
                                      
どこかで書こうと思いますが、この大坂城脱出の一行のなかにあった医師?戸塚文海は、後に海軍軍医総監となった戸塚環海(豊橋市出身)の養父です。

昔夢会筆記』によれば、慶喜は大坂城後門から脱出したことになっています。「後門」とはどこの門でしょうか?搦手門と理解したらよろしいのでしょうか?また、桜門を通過したという資料もあります。桜門は本丸大手門ですので、後門にはあたりません。二の丸の門は大手門、京橋門、青屋門、玉造門があります。慶喜が手配してあった船に乗り込んだのが八軒家という場所です。私は実際に歩いたことがないのですが、八軒家に最も近いルートは、桜門から京橋門を通過するルートだと思います。『大阪府史』第7巻(近世編2)では、京橋口から脱出したと書いてありますが、典拠がわかりません。

この時、京橋門の警備にあたっていたのは吉田藩でした。同時代史料ではありませんが、門衛をしていた吉田藩士長谷川新蔵が、後に手記(『過去の夢』)を書いています。手記中、慶喜脱出にあたっての興味深い記述があります。
    
 
(3)藩主松平信古の大坂城退去(慶喜を追って)

徳川慶喜の大坂城脱出は当然トップシークレットであったため、一部の主だった者だけが知っていったことですが、広大な大坂城であるとはいえ徐々に慶喜脱出の情報が伝わっていくのです。身分や役職、人脈によって情報伝達のスピードが違っていました。

当時現職の大坂城代ですら脱出を知らされておらず、慶喜の近臣であった親族によりこれを知らされ、大慌てで本丸に駆けつけてみましたがそこには慶喜の姿はありませんでした。

慶喜退去の情報を吉田藩主松平信古が得たのはいつ頃だったのでしょうか?
『復古記』によれば、大坂城代であった常陸笠間藩主牧野貞直が本丸に駆けつけたときに、城内で信古に遇っていたとあります。その時、信古が偶々城内にあったのか、慶喜脱出を聞きつけて駆けつけてきたのはわかりませんし、その時期もわかりません。

城内で出会ったふたりの藩主は、何が何だか全くわからないわけです。そこでふたりは慶喜に会って真意を確かめるために慶喜の後を追って大坂城を出ることにします。

 
(4)藩主松平信古が吉田にたどりつくまで

この後の結果だけを見ると、吉田藩主と大坂城代のふたりが大坂城を出たという行動は慶喜と同じように家臣を置き去りにして脱出したかのようにとらえられ、特に大坂城代でありながら城と家臣を置き去りにしてしまった牧野貞直に対する風当たりは強いかと思われます。ここで、少しだけ弁護しておきますと、松平信古も、牧野貞直も、天保山沖の軍艦まで行けば慶喜に追いつくことができるだろうと考えていたと思います。しかし、慶喜に追いつくことができそうもないとわかった時点で、城に引き返すべきだったと思います。

また、信古と貞直は吉田藩兵が警護する京橋門を難なく通過して慶喜の後を追いますが、一刻も早く慶喜に追いつきたい一心で二三の家臣だけを伴っていただけなので、一部の家臣以外は主君が城を出たことを知らなかったということになります。この点では、慶喜に随従した諸侯の家臣も同じように主君の行動を知っていた者は少なかったのでしょう。

信古らは天保山に向かう途中で会津藩の神保修理・浅羽忠之助、桑名藩の三宅弥三右衛門(弥惣右衛門)・中島某らと一緒になります。彼らも主君である松平容保・松平定敬を追ってきたのでした。一行が天保山に着いたときには慶喜はすでに海上にあり、もはや追いつけないと悟った信古らは慶喜が立ち寄るであろう紀州をめざし陸路を急ぎますが、途中で進路を伊勢路に変更して伊勢に出ることになります。

桑名と会津藩士とは途中で別れることになります。彼らは主君を追って先を急ぐことになります。しかし、江戸に帰ったふたりの会津藩士には過酷な運命が待ちかまえていました。浅羽忠之助は咎めを受けることとなり、下着にしていた白絹を解き裂いて、襟巻きとして寒さに震える信古に差し上げた神保修理は、東帰の責めを負い切腹をして果てました。

若松城下の戦いのときになりますが、修理の父神保内蔵助(家老)は切腹、修理の妻雪子(井上丘隅の娘)は娘子軍として討死、丘隅は妻と娘と共に自刃して果てています。

伊勢に出た信古と貞直は神社港より船で吉田にたどり着きました。『吉田藩日記』正月12日の項に、殿様八ツ半時頃御船ニ而関屋御門ヨリ御船上リ、内天王御門通、御玄関ヨリ被遊御着城候」とあります。

いっぽう大坂城に残された吉田藩士たちはどうなったのでしょうか。藩士たちが吉田にたどりつく苦難の様子は彼らが残した手記に見られます。

 

【三河の歴史】
第1部三河吉田藩と戊辰戦争

1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍

『説夢録』

【三河武士がゆく】