戊辰戦争拾遺
三河武士たちの戊辰戦争
 

【三河の歴史】
第1部三河吉田藩と戊辰戦争

1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍


吉田藩と箱館戦争

『説夢録』
箱館新選組隊士《木下勝蔵》

【三河武士がゆく】
戊辰戦争拾遺
 
第1部 三河吉田藩と戊辰戦争 
 
3.吉田藩の恭順と従軍
 2009年2月1日作成
 2009年2月3日更新
 
 
(1) 吉田藩の恭順

慶応四年一月十二日に藩主松平信古を迎えた吉田城内では、徳川家(旧幕府)と朝廷(新政府)への対応に苦心することとなります。『国史上より観たる豊橋地方』では、翌十三日に大評議が行われたとされます。松平信古は、大坂城代であった笠間藩主牧野貞直とはかるところもあり、江戸に下ろうとしますが、家老西村次右衛門らがこれを諫めて思いとどまらせ、藩論を恭順にみちびいたとされます。このやりとりがどの時点であったのかはわかりません。

吉田藩の恭順決定や朝廷への対応が遅かったというイメージがあるようですが、藩主帰城の日からすでに、朝廷への働きかけの準備が始まっていました。

吉田藩支配の新居宿本陣当主飯田武兵衛(温徳)は三条実美の知遇を得て、新政府側に多くの知人がいました。父昌秀は本居大平門人、叔父は吉田の国学者羽田野敬雄(平田門)です。

飯田武兵衛のもとに、朝廷への周旋依頼の使者が派遣されたのは一月十二日で、中老倉垣主鈴と共に吉田を立ったのは十四日になります。京都行きの命令がどのレベルで出されたのかはわかりません。

あまりにもの手際の良さに、藩主の許しを得ずに動き出したのかとも疑ってみましたが、飯田武兵衛への働きかけが、藩主の帰城後であり、中老が派遣されていることから、藩主及び重臣(一部か?)合意の上であった可能性はあります。そうであったとしましても、前後の行動を考えますと、信古は渋々了承したのではないかと思われます。

このことを、羽田野敬雄はじめ、当時吉田にあった勤王の歌人小野湖山(はじめ京都行きの予定であった)などは知っていました。小野湖山や羽田野敬雄と関係がある藩の重臣は幾人かおりましたので、考え得るかぎりの民間ルートをを頼りに、朝廷への弁明の道を模索していたのでしょう。

このように、旧幕府軍将兵でごった返す吉田城下・吉田宿の水面下では、早くも朝廷への周旋工作がすすめられていました。

ですから、十三日に大評議がおこなわれたとしましても、藩是は既に決していたのではないでしょうか。しかし、これに賛同しない藩士たちもおりましたので、公に大評議の場を持ったかもしれません。吉田藩が勤王色・佐幕色ともに強くありながら、藩内抗争に発展しなかったのは、国元における迅速な藩是の決定がその要因の一つとしてあげられるように思います。

ほとんどの藩が、勤王か佐幕かを選択しなければならなかった時期には、いくつかの藩に惨劇がみられました。尾張徳川家では、一月二十日から血の粛清、青松葉事件がおき、刈谷藩(土井家)では、二月八日に三家老が斬殺されています。これは三家老が勤王を邪魔していると、みなされたことによる悲劇だそうです(村瀬正章、「幕末・維新期における刈谷藩の動向」、『三河地域史研究』第四号、1986年)。

 
旧幕軍東帰の際の吉田宿の状況をあらわした内容が、『彰義隊戦史』(山崎有信、明治四十三年・1910年)に見えます。後、彰義隊頭取となった渋沢成一郎が敗走をする旧幕兵をまとめて紀州から船に乗り込み、吉田に着する話です。彰義隊を扱ったいくつかの書籍が、『彰義隊戦史』を典拠としているようですが、この吉田関連の内容にはいくつかの疑問点があります。

 
(2) 新政府軍への従軍

一月中旬には、桑名城攻めにあたり、大津まで重役一人を急ぎ遣わすように東海道鎮撫総督から達しがあり、吉田藩兵は四日市・桑名周辺へ出兵しています。

二月十日、尾張徳川家御用達、鳴海宿竹田庄次郎が吉田を訪れ、吉田藩重臣と逢っています。翌日の『吉田藩日記』に、「此度御当家之御儀、尾張大納言様江御頼込ニ相成候一条二付而之事共、次右衛門殿段々被仰渡、一同心得違等無之様相勤可申旨被仰渡候」とあり、前日の竹田庄次郎来訪との関連を感じます。尾張藩は周辺諸藩の勤王誘引の役割を果たしており、三河諸藩はこれに応じています。

吉田藩が正式に勤王を表明するのは一月〜二月と考えられますが、はっきりとした史料はありません。徳川林政史研究所所蔵の尾張藩「勤王誘引書類」中に、「260 覚(三ヶ条御達之趣奉畏候ニ付) 慶応四年辰二月 松平刑部大輔家来 西村次右衛門」とあります。吉田藩が公に勤王を表明する時の経緯をうかがい知ることができるかもしれませんが、内容の詳細がわからないうえに、史料の複写は郵送・電話はできず、複写は閲覧が条件となっておりますので、地方在住者にとっては非常に厳しい状況です。残念ですが仕方がありません。

ただ、名古屋市蓬左文庫の蔵書検索で「勤王誘引」を検索しましたら、8項目ヒットしましたので、内容等を蓬左文庫に問い合わせてみました。ご丁寧に調べていただき、史料中に「大河内刑部大輔」の名がああることをお知らせいただきましたので、機会をみて伺うことにします。

二月十九日ころ東海道先鋒総督府、続いて二月二十五日に大総督府が吉田に逗留し、吉田藩は、二軍に分かれて東海道先鋒総督府と大総督府に従軍して主に輜重の任を負い、江戸へ入りました。

※先鋒総督府と大総督府の吉田通過に関しては、資料により異同があるため、調査中です。

朝廷への周旋の具体的な経緯はわかりませんが、松平信古は大総督府より上京を命じられ、これまで病気を理由に上京の猶予を願い出ていましたが、ようやく三月十一日に発駕、三月十七日に入京を果たしました。

いっぽう、江戸に入った吉田藩兵は、城門の警衛・市中の警邏を命ぜられ、また、親戚である上総大多喜藩主松平正質(大河内氏、間部詮勝の子、松平信古の実弟)の居城大多喜城及びその領地の監守をおこないました。また、三河国にあった大多喜藩の飛地および小牧陣屋の監守もおこない、新政府の一員として忠実に行動していました。

このような、デリケートな時期に、上野彰義隊の事件がおこるのです。

※新政府の命により、慶応四年二月に松平信古は本姓の大河内に改姓しました。詳しい日にちは調査中ですが、「大河内信古家記」(『豊橋市史』史料編二)

二月二十日付の「奉伺覚」には「松平刑部大輔家来」とあり、
二月二十五日の項には「大河内刑部大輔内」とあることから、

この間かもしれません。以後「大河内刑部大輔信古」と表記します。

 

【三河の歴史】
第1部三河吉田藩と戊辰戦争
1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍

『説夢録』

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