戊辰戦争拾遺
三河武士たちの戊辰戦争
 


【三河の歴史】
第1部三河吉田藩と戊辰戦争

1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍


吉田藩と箱館戦争

『説夢録』
箱館新選組隊士《木下勝蔵》


【三河武士がゆく】
戊辰戦争拾遺
 
第1部 三河吉田藩と戊辰戦争 
 
箱館新選組隊士《木下勝蔵》

2002年01月27日作成 2009年5月19日更新
 

平成5年7月(1993)、函館山より市街を望み、左手の海岸沿いにあるドックのような構造物を探していました。直前に函館ドック会社の前で写真を撮ったものの、全く箱館戦争当時をイメージできませんでした。当時のおもかげのかけらでも感じ取ることができればと思っていましたが、当然といえば当然のことでした。明治29年に台場は取り壊されて周囲が埋め立てられたのですから、当時のおもかげを残すものは無いのだとあきらめて、箱館山を登ってきました。それでも、無理矢理に当時をイメージしながら弁天台場と思われる方向にカメラをむけて、何回かシャッターを切ったのでした。

明治2年、箱館戦争の最終局面で、新選組は弁天台場に籠城していました。この箱館で編成された新選組は、京都時代の新選組と区別されて箱館新選組と呼ばれることもありますので、便宜上ここでも箱館新選組という言葉を用います。

箱館新選組に《木下勝蔵・木下勝三》(以後木下勝蔵と表記する)という隊士がいたことを知る人は、新選組愛好者でも少ないと思います。そして、吉田藩との関係を知る人は豊橋(旧吉田)ではわずかでしょう。箱館新選組隊士、木下勝蔵は、箱館戦争に関する新選組隊士名簿やその他の史料に見ることができます。

以下、木下勝蔵が登場する資料の一部です。
 
★弁天台場籠城者名簿
(『霊山歴史館紀要』第7号、1994年、平成6年)
「元三州吉田藩当時並士官 松井郷右衛門忰 幼少ヨリ浪人 父役名不分 木下勝三 二十二歳  生国参州 目見以下」
            
 
★松前、箱館并江差近辺探索書之写
(『奥羽蝦夷松前箱館征討日誌』1990年、平成2年
 
「東組一番 木下勝三」
 
★「中島登覚え書」の新選組隊士名簿(写本)
(『別冊歴史読本 新選組組長列伝』2002年、平成14年)
 
「四分隊、木下勝蔵、岡崎ノ人」

「箱館戦争東軍(旧幕軍)人名録」(『新選組研究・下』)に、「岡嵜、木下勝蔵」とあるようですが、見ていません。

木下が岡崎出身であるとしている史料は少ないです。

「五稜郭戦争参加新撰組編成名簿」(『箱館戦争始末記』)に、「第三番隊、木下勝蔵、岡崎の人」とありますが、これは中島の隊士名簿を参考にしたのでしょうか?
 
★戊辰戦争参加義士人名録(写本)
「遊撃隊起終録」(写本) 附録 函館市立図書館蔵
 
「弘前御預ケ人名」として「薬王院」「木下勝三」

※弘前の薬王院は、弁天台場で降伏した新選組隊士が収容された寺院です。
 

その他箱館戦争関係の資料中木下の名を見ることができますが、ここでは省略します。

続いて、上記資料をもとにつくられたとおもわれる現代の刊行物をあげてみます。
 
★『新選組隊士録』 別冊歴史読本 第83号 1998年、平成10年

 

木下勝蔵:三河吉田藩士の松井郷右衛門の子として、嘉永元年に生まれる。戊辰戦争にさいして新選組に入隊するが、それまでの経緯は不明。明治二年一月前後には東組一番の一員として市中警備の任にあたったことが記録され、五月十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容され、東京に送られ芝の最勝院に入り、旧藩に引き渡されて豊橋で禁錮ののち、三年二月に放免された。

※出典記載なし

 
★『新選組大人名事典(上)』 新人物往来社編2001年、平成13年

 

箱館編成新選組、第四分隊所属隊士(最近の研究で第三分隊とするものがあるが第四分隊が正しい)。勝三とも。父は三河吉田藩浪人松井郷右衛門。中島登は三河国岡崎の人とする。新選組入隊の経緯は不明である。明治二年一月時点と推定される、新政府軍側の『蝦夷箱館探索日誌』によれば、東組一番に所属する七名中の一員として箱館市中取締の任務に就いていたとある。五月十五日に守備を受け持つ弁天台場で降伏する。津軽藩お預けののち東京送りとなって、十一月九日に芝山内の最勝院に入る。十九日になって、彰義隊に関与して蝦夷地に逃れた石川證平(忠恕)とともに旧藩へ引き渡され谷中の藩邸に移る。十二月十五日東京を出発し、国元で禁錮生活を続ける。翌三年一月左記の通達を受けて、二月十九日に解放された。

※出典:『蝦夷箱館探索日誌』、その他記載なし

 
★『新撰組全隊士録』古賀茂作・鈴木亨編 講談社 2003年、平成15年
 

木下勝蔵きのしたかつぞう 〔木下勝三〕生没:嘉永元年〜?出身:三河国吉田、入隊時期:箱館戦争期、役職:箱=第四分隊所属隊士 三河吉田藩浪人・松井郷右衛門の子。明治二年に弁天台場で降伏、旧藩へ引き渡される。

※出典記載なし

 
★『新選組事典』 歴史と文学の会編 勉誠出版 2003年、平成15年
 

木下勝蔵(きのしたかつぞう)@山下ともいう。A生没年不詳。B岡崎出身。箱館で三分隊士。弁天台場で降伏し、薬王院に入る。

※参考文献:釣洋一「新撰組隊士事典」『新選組のすべて』新人物往来社、「新撰組隊士消息」『現代視点戦国・幕末の群像 新撰組』旺文社これらを基礎資料とした。さらにその後刊行された新しい資料、壬生狼友の会『新撰組468隊士大名鑑』駿台曜曜社、『新選組組長列伝』新人物往来社、鈴木亨編『新選組事典』などを参考に加筆しまとめた。

 

ここまでわかっているのですから、私が書くことは何もないはずなのですが、以上のデータの裏をとっていきますと、色々と問題が出てきたのです。
 
★木下勝蔵についての疑問
 

1.『説夢録』の著者、石川忠恕との関係

箱館戦争の戦記である、『説夢録』の著者、石川忠恕は、木下勝蔵と共に藩に引き渡された石川證平のことです。石川は文中、箱館まで行動を共にした渡辺左忠についてはふれていますが、勝蔵については全くふれていません。『説夢録』附録の「函舘戦争義士人名録」(木下姓3名有り)にも勝蔵の名を見つけることができません。これは、意図的なものか、石川が勝蔵の存在を知らなかったのか?勝蔵が当時吉田藩とは全く関係がなかったのかということになります。

2.木下勝蔵が箱館に至るまでの経緯は全くわかっておりません。

3.「弁天台場籠城者名簿」について

a.名簿の性格が不明確

b.松井郷右衛門忰が木下姓である理由。

吉田藩士中、木下姓、松井姓は確認できる。

c.父の姓名はわかっていても、「父役名不分」とはどのようなことか。

d.吉田藩藩士中、松井郷右衛門が見あたらない。
もっとも、分限帳はすべての藩士を網羅していない。身分の低い武士や役職に就いていない武士(一部を除く)はのっていない。

また、吉田藩の重臣に「松井郷左衛門興譲」がいるが、「弁天台場籠城者名簿」の内容を信ずるのであれば、別人となる。


 

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第1部三河吉田藩と戊辰戦争
1.戊辰戦争前夜(松平信古の西上)
2.徳川慶喜の大坂城脱出と吉田藩
3.吉田藩の恭順と従軍

『説夢録』
箱館新選組隊士《木下勝蔵》


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