近世のおはなし

■赤穂事件 2002年12月14日
■赤穂事件の原因(吉良の塩田?)2007/11/11
 

【三河武士がゆく】

 
■赤穂事件 2002年12月14日


元禄15年12月14日といえば、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日ですね。
今年で300年ということですが、吉良につながる人は300年も嫌な思いをしていることでしょう。
吉良上野介という人はそんなに悪い人であったのか?

今の高校生に「忠臣蔵」といってもちんぷんかんぷんで通じないことが多いのですが、「忠臣蔵」を語る人は多くても、「赤穂事件」を語る人は意外と少ないのです。

それはなぜか?

赤穂事件は謎が多すぎるというか、肝心なところが謎だからです。

浅野内匠頭と吉良上野介の不仲の原因がわかっていない。
なぜ、浅野が江戸城内でしかも、勅使接待の大役を果たす日に斬りつけたのかとなるとさっぱりわかっていないとおもいます。

そして、この二人の人間性についても、実はよくわかっていないということです。

不仲の原因とか人間性など、そんなに重要なことではないという人たちもいるようですが、私は全く反対の立場です。歴史がロボットや無機物で作られるのならそれでいいかもしれませんが、生きた人間なしには歴史は語れません。その人間がどのように関わったのかが重要なのであって、周囲に与えた影響だとか歴史的意義などは結果であって、原因なしには考えられないのです。

この二人がいなくては、そして不和にならなければ、12月14日の吉良邸討ち入りは存在しなかったのです。

くどいようですか、この二人の関係はよくわかっていないのです。

ですから、よくわからないことを事実を集めても、空白を推測で埋めなければ物語にはならないわけです。そこでわかりやすく面白くということで、忠臣蔵という物語が事実であるかのように人々の間に伝わってしまったということです。300年も。

空想的な物語によって300年も迷惑を被っている人もいるわけです。


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■赤穂事件の原因(吉良の塩田?)2007/11/11

吉良町の図書館を訪れた際に、郷土資料室の先生から赤穂事件の塩田説についておもしろいおはなしを聞くことができました。

忠臣蔵で、吉良上野介と浅野内匠頭が吉良と赤穂の塩田をめぐり争いになったという説がありますが、そもそも吉良上野介の領地には塩田は無かった(あるいはほとんど無かった)そうです。争いのもととなった原因そのものが存在しないのです。塩田があったのは大多喜大河内氏の領地(吉良領)とのこと。旗本吉良氏の領地と大名大河内氏の領地が混同してしまったのでしょうか。『人生劇場』の尾崎士郎が塩田説を唱えたとかで、通説になってしまったのか。塩田説の理由はどうあれ吉良上野介が悪者になってしまうわけです。

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