戦国期の三河牧野氏
【年表】

2001年04月15日作成
2009/11/07更新
2010/03/20永禄年間追加
2017/01/18記事追加

★戦国牧野氏をめぐる問題★
★三河に興りし牧野一族展にて思うこと★

【三河武士がゆく】

 


◆はじめに
 
わたしにとって牧野氏と言えば、吉田城を築城した牧野古白が真っ先に、また幕末が好きなことから、北越戦争=河井継之助=長岡牧野氏が思い浮かびます。牧野一族は、江戸時代に大名や旗本として発展し、転封により各地に広がりました。そして、越後長岡、越後三根山、信濃小諸、常陸笠間、丹後田辺などで明治維新を迎えました。戦国時代の牧野氏は、三河の東部、現在の愛知県豊川市を本拠として、豊川(とよがわ)右岸に勢力拡大をはかり、田原の戸田氏などと戦いました。また、三河に進出してきた駿河の今川氏の勢力下に入り、西三河の松平氏とも激しい抗争を繰り返して、多くの犠牲を出しましたが、最終的には、徳川家康に従うことになり、近世大名として成長していきます。
 


◆【戦国牧野氏年表】

 


 
◆三河の牧野氏は、『平家物語』の屋島の戦いに登場する讃岐の阿波民部重能の嫡男、田内左衛門尉教能の後胤といわれるが、不明な点も多い。★戦国牧野氏をめぐる問題★
 
承久三年
(1221)
◆承久の乱の軍功により、東三河に牛久保・中条(豊川市)などの領地を得たといわれる。
文保二年
(1318)
◆牧野氏の先祖が讃岐国へ左遷されたといわれる。
 
応永のころ
 
◆応永(1394〜1427)のころ、牧野(豊川市)へ移り牧野城を築いたとされる。
 寛正六年
(1465)
◆「今川記」に、牧野出羽守
 
応仁元年
(1467)
◆応仁の乱おこる。文明9年(1477)まで。※応仁・文明の乱
 
文明八年
(1476)



 
◆四月、今川義忠年が遠江国で討死。龍王丸(後の氏親)は幼少(6歳)であり、後継者争いがおこった。伊勢新九郎(後の北条早雲)が介入し、後、竜王丸が家督を継ぐことになる。

◆知多郡の戸田宗光が渥美郡大津城に移る。
 
文明九年
(1477)
◆牧野氏が従っていた、一色城(豊川)主の一色時家が、家臣の波多野全慶に討たれる。
文明十二年
(1480)
 
◆戸田宗光、田原城を築く。(文明十三年説有り)

 
長享元年
(1487)
◆今川氏親が家督を継ぐ。
 
明応二年
(1493)

 
◆牧野成時が(古白)、波多野全慶を討つ。

◆成時が、瀬木城(豊川市)を築く。
 
明応7年
(1498)
 
◆6月11日、25日大地震。25日の地震で豊川(吉田川)の流れ変わるという。『参河国聞書』
 
明応九年
(1500)



 
★異説★
◆笠間稲荷神社所蔵の絵図によれば、
明応5年(1496年)今川氏親の命により、
明応9年に今橋城完成

   
 
文亀年中
(1501−1503)


 
◆今川義元(※氏親の誤り)が牛久保六騎地侍十七人衆に今橋築城を命じ、牧野氏を奉行とする『牛窪記』
         
文亀=明応10年2月29日(1501年3月18日)改元、
文亀4年2月30日(1504年3月16日)永正に改元。
 
明応〜?

 
◆古白、今川氏親により馬見塚村辺に築城のた縄張りを命じられる『牛窪密談記』
 ※『牛久保密談記』には「四月八日」とあるのみ。
 
永正二年
(1505)





 
◆成時が、今川氏親の命により、今橋城(豊橋市)を築く(完成)。

          
              
※吉田城本丸復興櫓(昭和29年復興)
バックは豊橋市庁舎、手前に流れるのが豊川。★吉田城の地図(ヤフー地図情報)
 
永正三年
(1506)









































 
◆今橋城が、今川氏親と戸田氏(田原町)に攻められ成時、討死。

※8月26日、今橋城に押し寄せる『藩翰譜』

※9月21日付(年不明)の伊勢宗瑞(北条早雲)の書状に、19日(9月か?)に端城を落とし今橋城を攻撃中とある。※小笠原宛

※11月3日、古白切腹『藩翰譜』

※11月3日松平長親攻撃説を採りながら、宗長の「倭字記」(仮名書きの分)を根拠に今川氏親攻撃説も載せる。『本朝通鑑』

※11月3日、牧野古白一族六七十人討死。
宗長が牧野古白一周忌にあたり、追悼のために経文連歌を詠む。

※永正3年(月日は記さず)今川氏親が、吉田を攻め古伯切腹。『当代記』

松平長親の時、北条早雲が西三河に侵攻したが、その時の今川勢の中に、牛久保の牧野氏は見えるが、吉田の牧野氏は見えない。ただ、「吉田衆」とあるのみ。『三河物語』


★9月19日に本丸に迫っておきながら、落城が11月3日というのは、余程牧野勢が頑強に抵抗したのか、開城を説得していたのか?



◆今橋城には、戸田宣成(金七郎)が入る。

◆成時の子の三成(成三)・信成らは知多へ逃れる。
 
★異説★ 古白討死していない

※3月19日伊勢新九郎氏茂今橋城を攻める。古白瀬木に逃れる。後古白疑惑が解けて今橋に復帰『宮島伝記』

※3月19日氏親が今橋城主牧野左衛門成時を攻める。成時は瀬木へ逃れる。5歳の子と共に母は尾州知多郡大野の神谷某にかくまわれる。異に成時切腹とあり『牛窪密談記』


★永正3年11月3日 古白討死が正しいと思われる。

 
永正三年
(1506)









 
★異説★
◆今橋城が、松平長親に攻められ、成時、討死。

※伊勢新九郎三州に発向。古白今川に属す。8月20日矢作川の辺松平長親と戦う。長親吉田攻め(11月3日古白討死)『寛永諸家系図伝』

※伊勢新九郎長氏三河国に発向。今川に属す。9月長親吉田城攻め。11月3日古白討死。男伝左衛門龍拈寺古白墳『寛政重修諸家譜』

★永正3年11月3日 今川氏攻撃による古白討死が正しいと思われる。

 
永正十五年
(1518)



 
◆今川氏親は、今橋城を包囲し、城の明け渡しを迫る。

◆三成(成三)・信成が、戸田氏に奪われていた今橋城の奪還に成功。

◆戸田宣成は、今橋城を明け渡して、大崎城(豊橋市)に移る。
 
大永二年
(1522)
◆信成が、今橋を吉田と改める。
 
大永六年
(1526)


 
◆六月、今川氏親没(54歳)、子の氏輝(14歳)が跡を継ぐ。
若年であり、母の寿桂尼が後ろ盾となるが、氏輝は、病弱であったとされ三河への影響力が弱まった。松平清康の吉田城責めの時も救援がない。

 
享禄二年
(1529)


















享禄二年
(1529)













 
◆牧野信成は、一色城主の氏勝に命じて、牛久保城(豊川市)を築いて、子の保成を城主とする。(※信成と保成の親子関係に疑問あり)

◆牧野保成が永禄六年(1563)に松平元康に討たれるまで、長期にわたり支配が続いた。牛久保の城下町体制は保成の治世で確立されたといってもよい。

◆吉田城が、松平清康に攻められ、信成をはじめとする一族の多くが討死。


※成三(成方)、伝蔵討死『寛政重修諸家譜』(5月28日)
※伝蔵討死『当代記』(5月28日)



※吉田城趾に建つ豊橋市役所から、合戦がおこなわれた下地方面を見る。松平勢の進軍の様子は手に取るように分かっただろう。手前に流れているのが豊川(とよがわ)

◆牧野の残存勢力は、牛久保城に拠る。

◆吉田城には、松平方についた牧野伝兵衛成敏(正岡城)が入る。

※田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009/11/01

◆清康は、田原の戸田氏を従え、東三河を制圧。
 
◆吉田城が、松平清康に攻められ、三成が切腹、他は赦される『宮島伝記』『牛久保密談記』

◆吉田城には、松平方についた戸田宣成、牧野成敏が在番に指し添えられる『牛久保密談記』

◆吉田城には、在番を置く『宮島伝記』
 
◆牧野伝兵衛が松平清康に味方し、戸田金七郎が籠もる吉田城を攻撃、落城後吉田城に入る『岡崎領主古記』
 
享禄三年
(1530)
 
◆牧野信成が吉田城を奪回 『宮島伝記』

 
天文元年
(1532)



















 
◆吉田城が、松平清康に攻められ、信成をはじめとする一族の多くが討死。
『牛窪記』『牛久保密談記』『宮島伝記』

※『宮島伝記』には、酒井左衛門尉、戸田金七郎、牧野伝兵衛尉を置くとある。
  忠勝、康忠、忠親の可能性要確認。
 

享禄二年と天文元年の説】

◇享禄二年説 『寛政重修諸家譜』(5月28日)『当代記』(5月28日)

◇天文元年説 『牛窪記』『牧野家系譜』(田辺牧野家)
 
                  ★田辺(舞鶴)牧野家について

◇享禄二年と天文元年の両方 
 『宮島伝記』(享禄2年11月4日?宇理城主熊谷備中に勝利のあと、天文元年5月28日)
 『牛久保密談記』(享禄2年11月4日、天文元年)

決定的な資料を欠くので、断定できない。

 
天文三年
(1534)
 
◆四月八日 牧野民部丞成勝判物(牛久保八幡宮文書) 

 
天文四年
(1535)






 
◆清康は、織田信秀(尾張)との戦いの中、家臣によって討たれる。「守山崩れ」

◆子の松平広忠(家康の父、10歳)が跡を継ぐが、力弱く、内紛により流浪の身となる。

広忠は、今川氏を頼り、天文五年、遠江国掛塚から、三河に入り吉田・瀬木・形原を経て西尾の室城に入っている。当時吉田城には、牧野成敏がおり、瀬木も牧野氏の勢力が及ぶ範囲。
 
天文五年
(1536)










 
◆三月、今川氏輝没(24歳)、弟の義元が跡を継ぐ。

親族間の争い(花倉の乱:6月)や他国(北条氏など、河東の乱・天文6年)との軋轢により、今川氏の三河への影響力は一時的に弱まる。

※今川氏輝の影響力が小さいうえに、清康が亡くなったことは、清康の軍事力の前に屈服していた東三河の武将たちにとって大きな意味をもっていた。今川義元の東三河支配までとはいえ、松平氏の弱体化と、今川氏の混乱は、一時的に東三河の武将たちの動きを活発化させた。

◆十一月十五日、牧野田兵衛成敏判物(八幡宮文書)
◆十一月十五日、牧野民部丞成勝判物(八幡宮文書)
 
天文六年
(1537)



 
◆戸田宗光(康光)が、大崎にあった戸田宣成に吉田城を攻略させ、牧野成敏を追う。

◆以後、戸田宣光を伊奈の加治城に入れ、小坂井・牛久保の牧野へのおさえとする。

※戸田氏の勢力拡大
 
天文七年
(1538)

 
◆十二月二日 牧野保成裁許状


 
天文九年
(1540)
◆織田信秀の三河侵攻。(信秀死去:天文二十年・1551年)
 
天文十年
(1541)
 
◆戸田宗光は、仁連木城を修築し、戸田宣光をいれ、今川への備えとする。

 
天文十五年
(1546)




















 
◆今川義元、吉田城を攻略し、戸田宣成討死?。

※以後、吉田城代を置く
 
一天文十五丙午年今橋ニ戸田金七郎在城ス
一同年十月駿河勢ト岡崎勢ト今橋へ押寄合戦ス此時
 石川式部酒井将監阿部大蔵等吉田ニ働キ落城ス
  但其次ニ小原肥前守居之
                           「岡崎領主古記」

 
※「天野文書」(『静岡県史料5』)によれば、落城は11月15日という(『新編岡崎市史2』702頁)
※戸田金七郎=戸田宣成
※岡崎勢=松平勢
※今橋は吉田の旧名
※吉田城代 伊東左近将監元実→小原肥前守鎮実(大原とも「牛窪密談記」)
※城代大原肥前守が、東三河の人質を預かる「牛窪密談記」
※「岡崎領主古記」
成立:正保2年(1645年)から寛政10年(1798年)の間
書写年:寛政11年(1799年)転写
愛知芸術文化センター愛知県図書館HPより
 
天文十六年
(1547)






 
◆戸田氏が松平竹千代(後の家康)を奪う。

◆九月、今川氏義元、田原城を攻め、戸田宗光(康光)・堯光討死。田原戸田氏の滅亡。

※以後、田原城代を置く

※今川義元による東三河支配が強化されていく
 
天文十八年
(1549)
 
◆三月六日松平広忠死去 今川氏岡崎城を占拠

 
天文二十二年
(1553)



 
◆五月十三日 御津大恩寺阿弥陀堂棟札
牧野出羽守保成
息伝三郎成元
牧野右馬允成守

 
弘治二年
(1556)


 
◆牧野民部丞今川氏に対し逆心

◆四月二十八日 今川義元が隣松寺に牧野出羽守寄進分の寺領を安堵(花井寺文書)

 
弘治三年
(1557)


 
◆牧野右馬允、今川義元により西尾城を任されたと思われる。

※桶狭間の戦いの後、牛久保に引き揚げたとみられる。

 
永禄三年
(1560)







 
◆五月、桶狭間で今川義元討死

東三河における今川氏の勢力は一気に弱体化し、岡崎に帰った松平元康が勢力拡大をはかる。元康の三河侵攻に対して義元の子の氏真には対抗する力はなかった。

元康へ従う動きをみせる東三河の武将たちのなかで、牧野氏は、最後まで今川に尽そうとする者たちと、力のない今川を見限って一族の存続をはかろうとする者たちの、二つのグループに割れたとみる。戦国期の小領主一族にはよくある話。

 
永禄四年
(1561)

 
永禄五年
(1562)

 
◆この間、今川方として、家康との戦いがつづく。

※稲垣平右衛門、牧野右馬允宛、今川氏真の感状多い
 
永禄六年
(1563)




 
◆保成は、永禄四年(1561)以後、今川方の東三河における最前線で、松平氏との戦いを繰り返したが、、松平元康に攻められて、討死(あるいは自害)した。

◆牧野成定(右馬允)は、牛久保城主となる。

※この年、松平元康→家康
 
永禄七年
(1564)





 
◆家康の吉田城攻め(城主:大原肥前守)

◆仁連木戸田氏が家康に帰属。
5月13日、戸田主殿助宛、「松平家康起請文」:新知給与・本領安堵
5月17日、牧野右馬允宛、「今川氏真感状」:「今度戸田主税助別心。松平蔵人相動」

※6月22日、酒井左衛門尉(忠次)宛「松平家康判物」、東三河「異見可仕候」
 
永禄八年
(1565)

 
◆家康の吉田城攻め継続

◆2月2日 「吉田城中取替兵粮之事」今川氏真感状(牧野右馬允など宛)
 
永禄九年
(1566)













 
◆牧野成定、家康に帰属

5月9日、牧野右馬允宛「松平家康判物」:所領の安堵
5月9日、松平上野守宛「松平家康判物」:所領を「牛窪」に渡すように。

◆10月23日、牛久保城主、牧野成定死去
この時、嫡子新次郎(のちの康成)は、人質として駿河にあった。

◆新次郎と牧野出羽守、遺領争い→新次郎側の勝利

11月「水野信元判物」

■牧野新次郎(康成)が、どうやって牛久保に戻ったのかが、わからない?

※永禄九年末、松平家康→徳川家康
 


 
康成は、家康に従って転戦し、数々の戦功を挙げ、家康の関東入封とともに、上州大胡(群馬県)城主となった。
 


 
★戦国牧野氏のことならココダ!

■越後長岡と東三河
私設電子図書館《新・佐奈川文庫》内  ※リンク切れ(2021/07/11確認)

戦国牧野氏のことが、多くの史料を基に考察されています。刊行された書籍のなかには出典不明の文章が多いなかで、信用できるサイトです。ここ数年もやもやしていた私の疑問が全て解けそうです。必見!(2002年08月13日)

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以前、大島先生が、サイトを縮小整理して、閉鎖していくようなことをおっしゃっておられたと思います(サイト内で)が、残念です。
ご教示、ありがとうございました。感謝しております。

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★牧野氏や家臣団についての研究

■鈴木範一、『三河に於ける牧野氏勢力の消長』、1963年、豊橋図書館、豊川市中央図書館(複写)所蔵

■沢井耐三、「『牧野古伯追悼連歌』考」、『愛知大学綜合郷土研究所紀要』第32輯、1987年

■松下伸、「『牛窪密談記』に見られる牧野氏の出自に関する一考察−牧野氏と石清水八幡宮−」、『三河地域史研究』第13号、1995年

■柴田晴廣、『穂の国幻史考』
 ※第三話 牛窪考

■伊東宏、『山本勘助とその周辺』、PBU出版部、2008年


 


■おもな参考文献
 
『三河国吉田名蹤綜録』
『三河物語』
『豊川市史』
『豊橋市史』
『とよはしの歴史』
『豊川の歴史散歩』
『豊川市の歴史』
『国史上より見たる豊橋地方』
『牛久保の牧野氏年譜』
『三州吉田城の石垣と刻印』
『吉田城太平記』
『新編岡崎市史』
 

★お便りをおまちしております★

引用はご自由にしてください。
何かのお役に立てれば幸いです。
ただし、出典は明らかにしてください。
 
◇牧野氏の系図を調べておりますが、牧野康成以前の系図については、諸説あるため、よくわかりません。
◇情報をお寄せください。お待ちしております。
◇また、間違いなどご指摘くだされば幸いです。
 

三河の歴史
東三河の戦国時代

【三河武士がゆく】