★戦国牧野氏をめぐる問題★

★戦国牧野氏をめぐる問題★

■康成以前の牧野家の系図
■永正三年(1506)、今橋城を攻略したのは誰なのか?
■享禄二年(1529)、吉田落城について
■永禄六年(1563)、牧野出羽守保成、討死の真相(2002年08月24日)
■牧野出羽守保成、討死の真相(その2) 2009/01/08
■田辺(舞鶴)牧野家について 2017年01月18日
■謎が多い吉田落城
■小諸について 2009/01/26
■牧野新次郎(康成)が、どうやって牛久保に戻ったのかが、わからない?(2021/11/27)
 
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★戦国期の三河牧野氏★
★三河に興りし牧野一族展にて思うこと★

【三河武士がゆく】

 
康成以前の牧野家の系図
 
牧野氏に関わりがある自治体の作成した地方史関係の本を見ても、出典が同じであるにもかかわらず、系図が違っていたり、地元の史料でもかなりの違いが認められる。

 ◎三河へ移る以前のことに関しては、ほとんどわかっていない。
 ◎三河以後でも、とくに、牧野康成(新次郎)以前の系図は不明な点が多い。
 ◎康成以後でも、康成(やすなり、新次郎、右馬允)と康成(やすしげ、惣次郎、讃岐守)を混同しているために、惣次郎の子の信成を新次郎の子と見なして、田辺牧野家は長岡牧野家の分家とされている文献もある。
 
永正三年(1506)、今橋城を攻略したのは誰なのか?
 

 ◎今川説:成時が裏切って松平についたという戸田氏のうったえにより、今川氏親が攻略。
 ◎松平説:松平長親が攻略。

※この件に関する考察あり『新編岡崎市史』要確認!
※今川攻略説が有力も、松平攻略説が存在している説明が不十分だと思う。

 
享禄二年(1529)、吉田落城について
 

 ◎三成・信成ともに、享禄二年討死説。
 ◎三成討ち死にを享禄二年とし、信成討死を天文元年とする説。


 
永禄六年(1563)、牧野出羽守保成、討死の真相(2002年08月24日)
 

 ◎田三家と新次郎家との確執の中で、牛久保城が松平元康の攻撃を受け、保成は討死した。
 ◎死因は鉄砲によるものか自刃か。
 ◎元康方との戦闘による討死なのか、味方の裏切りによるものか。
 ◎戦いとは関係なく、自刃とするものもある。

牧野出羽守保成は、30年以上牛久保城主として、領域を支配していたにもかかわらず、謎の多い人物である。享禄二年に下地合戦で討ち死にした牧野信成の子とするのが定説であるようだが、伝蔵(田三か)を名乗っていない。それだけでは決め手にならないが、庶子なのかもしれない。

また、牧野保成と牧野成種奥平信昌の母方の祖父とされる)を同一人物としたり、牧野貞成を出羽守成種の子とする系譜もある。さらに、保成の子とされる成元を出羽守としている家譜もあれば、山城守としているものもあり、このようなことを考えていると何がなんだか。、わけがわからなくなる。牧野氏の戦国時代の系譜は不明な点が多く、敗れた側の歴史がより詳らかでないのは仕方がない。

保成の死に関しては、真相は闇の中だと思っている。前出のように保成の死因について諸説ある。大きな違いは、戦闘によるものか、戦闘に無関係かという点だ。さらに、問題なのは、敵方(松平勢)に討たれたものか、それとも味方によるものかという点であり、なくなったのは戦闘中の自刃か、鉄砲傷を負って引き揚げてきた後に亡くなったのかという相違もある。

 
1.戦闘中に自刃(『牛窪記』)
2.戦闘中に片坂で鉄砲により負傷、後に死亡(『宮嶋伝記』)
3.戦闘中に片坂で味方(牧野成定・牧野右馬允)の裏切りにより討死(『豊橋史談』『吉田城太平記』に紹介されているが典拠不明であり、『豊橋史談』の著者はこの説を否定)
4.戦闘とは無関係に自刃(『牛窪記』)

 

「新編豊川市史」など、現在も地元においては、密談記、伝記を重視し、牛窪記を軽視ないしは無視する風潮がありますが、当時からの伝統なのかも知れません。

大島信雄氏、《牧野保成謀殺疑惑》、「越 後 長 岡 と 東 三 河」第168話より

 

上記、大島氏の言葉をお借りしたが、豊川市に限らず、地方公共団体編纂の史書は、執筆者の自論によって構成される部分が大きいことがある。公的機関の発行であるから読者はそれが定説だと思うのは自然なことだ。

異説・異論が存在する場合、差しはさむ余地を残すかどうかは、執筆者・編集者・発行者の腹一つということもある。しかし、地方史に記載された内容が定説になりかねないこともあるので、異説・異論についても完全に無視するのはいかがなものかと思う。取扱かたを慎重にしたらすむ話だと思う。                            

論拠となる史料を検討した上での論議が前提ではあるが、定説の論拠が不完全なときは、異説・異論について一行でもよいから紹介しておくことが読者に対して親切ではないか。

これは、歴史書だけに言えることではなく、歴史小説や影響力のある新聞・雑誌についても同様である。


(2009/01/08加筆)

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味方の裏切り説に関して、ある郷土史家の方に伺ったところ全く否定された。しかし、越後長岡家に関わる出来事をみると、完全に否定できないことがわかる。

平成13年頃長岡市の中央図書館にある互尊文庫を訪れたときに、文書資料室の本山幸一氏にお世話になり、以下の十柱神社の一件をご教示いただいた。

※長岡では今でも牛久保の言葉(東三河弁)が使われているのではないかという。
(◆守られてきた言葉・・・越後長岡の東三河弁)

岡眞須徳氏の「弥彦神社末社『十柱神社』」(『長岡郷土史」第23号)に、「牧野出羽守」に関する記述がある。十柱神社は元「五所宮」と言い、長岡三代藩主牧野忠辰が創建したものだ。明治に入り、「大己貴命」を除く四柱が廃祀となったっために現在は祀られていないが、
・大己貴命
・牧野主水秀成
・牧野出羽守
・神戸赤左衛門
・宮内卿女
の五柱が祀られていたという。

この神社は、怨霊を鎮めるような性格であると位置づけられているようで、長岡牧野家より特別な待遇を受けていた。秀成は忠成の弟で切腹か暗殺されたと云われており、神戸赤左衛門と宮内卿女に関してはよくわかっていない。この「牧野出羽守」は、戒名から判断して、「保成」に間違いないようだ。保成も尋常な死に方ではなかったと考えても無理なことではない。単なる討死ではここまで、特別扱いはされないだろう。

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■牧野出羽守保成、討死の真相(その2) 2009/01/08
 

以前、牛久保城主牧野保成の死について書きました。
[3]についての典拠は不明であると書きましたが、「越 後 長 岡 と 東 三 河」で、大島信雄氏によって典拠が紹介されております。

 
1.戦闘中に自刃 (『牛窪記』)
 
2.戦闘中に片坂で鉄砲により負傷、後に死亡 (『宮嶋伝記』)
 
3.戦闘中に片坂で味方(牧野成定・牧野右馬允)の裏切りにより討死
(「当山御由緒記録」元禄14年、「牛久保 長山記」)
 
4.戦闘とは無関係に自刃 (『牛窪記』)
 

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■田辺(舞鶴)牧野家について 2017年01月18日
 

以前、三河牧野氏について調べておりましたが、ある方から田辺牧野氏についての問い合わせを頂きましたので、以前の記事を参照しながら書いてみます。

牧野氏についての戦国時代の史料は乏しく断片的な事しかわかりません。したがって、同時代の史料や後から書かれた書物との突き合わせも難しく、大学教授、郷土研究家の方々が書いた系図をみてもこれといったものが見当たりません。

しかし、このようななかでも田辺牧野家関係の系譜には、以前から興味がありました。

系譜の存在は、以前豊川市の大島信雄氏より教えていただき知っていましたが見る術が無く、何も手をつけずにいました。系譜は、富士正晴という作家の方が書いた「牧野の殿には大閉口」(『歴史と人物』昭和52年1月号 昭和への証言)のなかで、家臣であった榊原氏の系譜と一緒に部分的に紹介されています。

著者によれば、画家の榊原紫峰の家が、牛久保以来の牧野家(田辺牧野家)の家臣であり、この家に「牧野家系譜」、「榊山系図」が所蔵されていたそうです。なお、系図には「榊山」とありますが、本姓の「榊原」から改姓したようです。

また、『どうなとなれ』 (中公文庫 昭和55年) にも収められているようですが、未見です。

※富士正晴は、『榊原紫峰』(朝日新聞社 1985年)を書いています。

「牧野の殿には大閉口」には、「牧野家系譜」、「榊山系図」も載っているのですが、一部であり、朱書きの書込などは載せていません。原文はもとより、朱書きの内容やその時期にもとても興味がありますが、確認をする術がありません。成立は両書とも文化年中であった可能性がありますが、資料をみていないので何とも言えません。

「牧野家系譜」によれば田辺牧野家の初代は「牧野山城守定成」となっているようです。牧野定成から親成までは、親から子へ家督が相続され、牧野親成の時、寛文8年(1668年)に田辺(今の舞鶴市)に移ってきました。

牧野定成(山城守・八太夫)
→牧野康成(讃岐守・惣次郎・半右衛門)
→牧野信成
→牧野親成

※山城守・八太夫の系統は、「成」を「しげ」と読み、右馬允・民部丞・新次郎の系統は、「成」を「なり」と読むようですので、混同しないように注意しています。

三河の戦国牧野氏の系譜は不明な点が多く、牧野定成の父母についてもわかっておりません。系譜にも「初代牧野定成 母不知相 生国参州年月日相不知」とあるようです。

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謎が多い吉田落城
2008年2月7日
2009年1月8日訂正


私はたまに豊川市の赤塚山公園から牛久保城、吉田城側を見たりすることがある。豊川流域は豊川をはさんで、ほとんど遮蔽物がないといってよい。当時の地形を知っているわけではないので、確実ではないが、寺社や鎮守の森などの他、多少古墳や砦のようなものがあったかもしれない。だが、少し高いところに登れば、流域一帯を見渡すことは容易だ。

牛久保城は豊川右岸の河岸段丘上にある。牛久保城から少し離れているが、カーマホームセンターの2階屋上からは360度見通しがよい。おそらく牛久保城の位置は、伊奈〜国府〜一宮〜吉田(豊橋)の様子をうかがうには絶好の位置であったのかもしれない。

逆に、吉田城から豊川の対岸、牛久保城や国府のあたりを見渡すと、こちらからもよく見える。しかし、国府方面の標高の高くない山々(五井山・宮路山〜赤塚山周辺の山々)の辺で東海道がみえなくなると思う。

※古老のお話しでは、戦前であれば大村(豊橋市)から、小坂井に上がっていく東海道のあたりまでは肉眼で見えたという。

享禄二年、松平清康が軍勢を率いて押し進んでくる様をどのような気持ちで吉田城の牧野一族は眺めていたのか。

吉田城趾から清康の侵攻してきたであろう方向を見据えながら考えることがある。東海道の辺りを進んでくるとしたら周辺の今川方(牧野方)の城からその姿は手にとるようにわかるはずだ。

つまり、今川氏や牧野氏の勢力範囲の中を進んでくるわけだから、すんなり通れるはずがないのだ。

享禄二年当時の勢力分布は以下のようなものだったと思う。

【今川方】
牛久保城:牧野氏
竹本城(新宮城):牧野氏?(旧御津町広石)
茂松城:牧野氏?(旧御津町広石)
上ノ郷城:鵜殿氏
宇利城:熊谷氏
野田城:菅沼氏
仁連木城:戸田氏
田原城:戸田氏
佐脇城:奥平?(旧御津町下佐脇)
萩城:奥平?(旧音羽町)
作手:奥平氏

【松平方】
嵩山:西郷氏
伊奈城:本多氏
正岡城:牧野成敏?※裏切り説有り
五井城:五井松平?
長沢松平
その他現在の蒲郡市の松平勢力

蒲郡市から豊川市にかけて松平氏と今川方の勢力が入り込んでいる状態であり、判然としない。伊奈の本多氏や嵩山の西郷氏がどの時点で松平方となったかもわからないが、松平勢が今川方の城をひとつずつ攻略または調略によって味方に引き入れていったかもしれない。

ただ、吉田と牛久保の牧野一族の出方次第で右に倣えといった感じだったのかもしれない。田原の戸田氏は大きな影響力となったように思うが、動かなかったのではないか。牧野と戸田が手を結ぶということは考えにくい。そうなると、翌年清康によって攻略された宇利城の熊谷氏以外は様子見のような感じがする。

そして、結果として今川の後詰めはなかった。はじめから牧野氏その他の東三河の武将たちから期待されていなかったのかもしれない。松平勢を迎え撃つには、長沢城の辺りを拠点として兵力を集結しするのが守りやすい。しかし、長沢城近辺に兵を入れるだけの力が今川になかったのだとしたら、松平氏との合戦がよくおこなわれたと思われる御油・赤坂・八幡あたりでの防戦も困難だったのかもしれないが、何も抵抗しなかったということは考えにくい。(以前はうなずけると書いたが、やはり疑問だ)

当時の今川氏の当主は、今川氏輝だ。3年前に今川氏親が亡くなり、家督を相続したが、まだ若く、そして病弱であったという話もある。実際に吉田落城の7年後に病死してしまう。母親の寿桂尼が何とか支えていたが、東三河における今川氏の圧力はほとんどなかったのかもしれない。

そうなると、この戦いは、今川氏対松平氏と見るよりも、東三河武将の独立的な動きと見た方がよいのだろうか?よくわからない。

ただ、東三河の武将たちはこの機会をどのように生かすべきかをうかがっていたことは確かだと思う。そうしているうちに、清康というとんでもない武将があらわれて、あれよあれよという間に侵攻してきて、どちらにつくのかを迫られていたという状態ではないのか。

今川の指導のもとに統制のとれた対松平戦がおこなわれたのではない。東三河の武将が連合して松平に当たったのでもない。それぞれの思惑がバラバラであり、ひとつの大きな勢力にまとまっていく雰囲気はなかったのだろう。

今川の後詰無し、味方無し、清康に降る気も無しとなれば、牧野信成吉田城での籠城戦を選択しなかったのも少しはわかるような気もする。

しかし、だとしても、牧野古伯(古白)の籠城戦に見るようにそう簡単に吉田城は落ちないと思う。それなのに、なぜ牧野信成は、あえて一族の命運をかけたような勝負を挑んだのか?豊川を背にして背水の陣を敷き、下地を決戦場にして壊滅的な敗れ方をしたのか?

御油・赤坂・八幡あたりでの防衛戦をした記録がないので、何とも言えないが、

・この地域での防衛戦があって、敗退した。
・すでにこの地域の防御線が崩壊していた。この地域及ひ周辺勢力は清康側についていた。
・とても清康相手に戦うことはできないので、防御側勢力は吉田城まで退いた。

と言うことが考えられる。清康の侵攻が突然で防戦準備が整わなかったとしても、情報は入ってくると思う。素通りは考えられない。

牧野氏といっても、一枚岩ではなく、いくつかに分かれている。当時の牧野信成の勢力は松平清康と五分に争えるほどのものではなく、今川の後詰めも期待できない。戸田とも結ばないとなれば、私なら、降伏して時期を待つ。自信があったとは思われない。

どうしても清康に服するのが嫌だったのだろうか?一族の命運をかけてまでも。

せめて、籠城して徹底抗戦する方法もあるが、後詰めを期待できない。当時を生きていないので何とも言えない。

吉田城から対岸を眺めれば眺めるほどに、謎は深まっていくのだ。


牧野信成敗北の一因に、牧野一族の内部抗争があったという説もある。正岡の牧野成敏が清康に内通したというのだ。成敏は吉田落城後に、吉田城に入っている。正岡は現在の豊川市で、吉田城と牛久保城の中間よりも牛久保寄りにある。

成敏が具体的にどのような動きをしたかわからないが、成敏が裏切ったとしても、いや、そうであるならなおさらのこと、籠城戦にするべきではないのか。牛久保からも一族を集めているようなので籠城のための兵力は充分あったのではないか。

私が少しひっかかっているのは、その牛久保勢の動きである。下地合戦に敗れた後、牛久保勢のおもだった者は牛久保城へ退き、清康に降参したことになっているが、どうやって牛久保までたどり着いたのだろうか。

下地の地形を見ればわかるが、負け戦になれば陸上では逃げ場はない。敗走するのであれば、豊川を渡り牛川に逃れて左岸を溯り、上流で再び豊川を渡って、牛久保城にたどり着く方法がある。実際に牛川や赤岩の方へ逃れた一族の武将もいるようだ。

いずれにしても、信成はじめ主だった武将が討死をするような激戦のなかで、豊川を渡って逃げ延びるのはたやすくはない。しかし、合戦後の牛久保勢を見ると、牛久保城に帰った牧野一族は少なくないように思う。

同族といっても、皆同じ考えとは限らない。吉田・牛久保・その他の地域の牧野一族が一枚岩だったわけではないと思う。とくに吉田と牛久保の関係には少し興味がある。

松平方にも疑問がある。牧野の主力が壊滅状態となったので、松平勢が吉田城に入るのはたやすかったであろう。そうであるならば、清康は追撃戦をして、一挙に牛久保城を落として牧野一族を滅亡させるチャンスはあったはずだ。しかし、それをしなかったのはなぜか?

勝敗は決したので無駄な血は流さないということか。

牧野信成は

自信を持って決戦を挑んだのか?
一か八かの無謀な戦いを挑んだのか?
やけくそになって意地を見せようとしたのか?


下地合戦・吉田落城の謎は尽きない。




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戦国期の三河牧野氏へもどる

 
■小諸について 2009/01/2626

長野県の小諸と松本は私と縁があるようで、郷土史の研究と縁がなかった子どものころから何回か訪れています。

小諸は牧野氏と縁があります。私はなぜか小諸が好きで、行きたくなるとすぐに車に飛び乗り国道をひたすら北へと走り続けました。私の好きな映画、『男はつらいよ』【寅次郎サラダ記念日】の舞台にもなりました。おばあさんが亡くなってしまうあのお話しです。そのようなわけで、子供が生まれてからも、小諸城趾懐古園にある動物園と児童遊園地には数回行きました。鹿を見ながら遊園地へ歩いて行ったのです。しかし、子どもの成長とともに、が乗る遊具がだんだん少なくなり、徐々に興味を示さなくなってきているため、ここ数年は行っていないのが淋しいです。

牧野氏にそんなに興味を持っていたわけではありませんでしたが、ある時、せっかくだからと郷土博物館で、『小諸市史』を購入して、牧野氏の系譜に関するお話しをと思いましたら、その時はあいにく詳しい方がいらっしゃらず、徴古館に行ってみたらと紹介されたので、さっそく行ってみることにしました。係の人に来意を告げると、牧野氏に詳しい人がいるからとおっしゃって、電話をかけていただきました。

私はご好意に甘えました。このように見ず知らずの土地で、かけていただく情けというものは、いつも以上にありがたく感じるものです。

残念ながら、詳しい系譜はないということでした。市史編纂の時の参考資料は長岡のものもあり、長岡のほうなら詳しいものがあるのではないかということでした。


渥美 清 こもろ寅さん会館(山田洋次の世界) 2009/01/26 


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■松本について 

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■牧野新次郎(康成)が、どうやって牛久保に戻ったのかが、わからない?
(2021/11/27)

新聞で、岩瀬崇典氏の歴史小説、『渦巻いて 三河牧野一族の波瀾』(上巻)の発刊を知りました。

著者の岩瀬氏は、牧野氏の寄騎であった岩瀬氏と関係があるのでしょうか?

史料には限界がありますので、隙間を埋めて楽しませていただきたいと思っています。

私が、戦国牧野氏に興味を持ったのは、松野武人氏の『三河戦国伝 吉田城太平記』(1987年)を知ってからです。この書は牧野伝蔵(田三)家をメインとする物語ではありますが、じゅうぶんに私の心を捉えました。このような存在がとても大事なのです。私は、そののち、戦国牧野一族を調べれば調べるほど、わけがわからなくなりましたが。

前置きが長くなりましたが、牧野氏に興味を持ってからの謎のひとつが、駿河にあった新次郎(康成)がどのようにして、牛久保に戻ったのかということです。

どこかで、これに少し言及している文書を見たのですが、その時、自分の記憶力を過信してメモをとらなかったので、忘れてしまいました。年を経るとともに記憶が薄れ、何が書いてあったのかも・・・

今となっては、どうすることもできません。

近年では、山田邦明氏の『戦国時代の東三河 牧野氏と戸田氏』(2014年)を見ましたが、そこには触れていません。もうひとつ、どなたかの、今川氏関係の論文を読みましたが、またもや論考名を忘れました。

桶狭間で、今川義元が討ち死にしてから、西三河に続いて、東三河の領主たちも今川氏から離反して徳川氏に属していきます。この過程で、今川の人質になっていた諸将の妻子の処刑がおこなわれます。

新次郎が牛久保に戻った時期が、牧野氏が家康に帰属する前だとは考えにくいのですが、無事に帰還し得たことから、吉田開城あたりでの、家康方と今川方との取引のなかに、新次郎返還の内容があったのかもしれません(まったくの想像ですが)。また、駿河にあったとされる新次郎は、吉田城内に人質であったとしたならば、より理解しやすくなりますが(史料発見を期待!)。


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★戦国牧野氏のことならココダ!

■越後長岡と東三河
私設電子図書館《新・佐奈川文庫》内  ※リンク切れ(2021/07/11確認)

戦国牧野氏のことが、多くの史料を基に考察されています。孫引きが多いなかで、信用できるサイトです。ここ数年もやもやしていた私の疑問が全て解けそうです。必見!(2002年08月13日)
 

★牧野氏や家臣団についての研究

■鈴木範一『三河に於ける牧野氏勢力の消長』1963年

■沢井耐三「『牧野古伯追悼連歌』考」1987年(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』第32輯所収)

■松下伸「『牛窪密談記』に見られる牧野氏の出自に関する一考察−牧野氏と石清水八幡宮−」1995年(『三河地域史研究』第13号)

■柴田晴廣、『穂の国幻史考』
 ※第三話 牛窪考

■伊東宏『山本勘助とその周辺』PBU出版部、2008年

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★お便りをおまちしております★

引用はご自由にしてください。
何かのお役に立てれば幸いです。
ただし、出典は明らかにしてください。

 
◇牧野氏の系図を調べておりますが、牧野康成以前の系図については、諸説あるため、よくわかりません。
◇長岡牧野氏、三根山牧野氏、田辺牧野氏、笠間牧野氏に関する文献は読んでません。
◇情報をお寄せください。お待ちしております。
◇また、間違いなどご指摘くだされば幸いです。

戦国期の三河牧野氏
【三河武士がゆく】