◆戦争と郷土◆

★★★ぼくらの町でも戦争があったことを忘れないで★★★
 

 

■はじめに 2000/9/10
■渥美半島の戦争 2000/9/10
■豊橋編

《学校の先生方へ》
 

 

■はじめに
■国家と国民

明治以降近代国家の樹立を目指したわが国は、徴兵制をしき強固な軍隊の育成につとめ、日清戦争(1894〜95)・日露戦争(1904〜05)の二度にわたる対外戦争を経て、欧米列強の仲間入りをするのである。その後日本は欧米列強にならい、中国大陸への進出の機会をうかがって、韓国併合(1910)をおこない、満州事変(1931〜33)をひきおこして、満州国を建国させた(1932)。これにより、欧米列強との対立が生じ、国際連盟からも脱退して、国際社会の中で孤立していった。さらに日中戦争(1937〜45)をめぐって欧米列強との対立は深刻になり、太平洋戦争(1941〜45)をひきおこすことになった。

1945(昭和20)年8月15日に終戦となったが、戦争のため、多くの国民が「国家の戦争」に動員され、多くの犠牲を払い、悲しい思いをした。戦場へ駆り出された兵士の半数以上は農村の出身者であり少年や少女も含まれていた。また多くの都市が本土空襲によって被害をうけ、戦場の兵士ばかりでなく多くの民間人も貴重な生命や財産を失うこととなった。戦争による犠牲は全国におよび、我々の郷土である三河地方も例外ではなかった。
 
■昭和の戦争   十五年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)

1 日中戦争と国民生活

満州事変がおこり、1937(昭和12)年には、日中戦争がはじまり、日本と中国は全面戦争に突入した。当初、日本軍が戦いを有利にすすめたが、中国軍の徹底抗戦により戦線が拡大し、戦争は長期化していった。
戦線の拡大と戦争の長期化は電力・石炭・石油などの資源を不足させた。政府は戦争を遂行するため 1938(昭和13)年、国家総動員法を制定し、総力戦のため生産力拡大をはかり、軍需優先の物資動員計画をたてた。1939(昭和14)年には労働力確保のため国民徴用令が公布され、一般国民が強制的に軍需産業に動員されるようになり、民需品の輸入や生産は制限された。政府は「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもとに厳しい経済統制をおこない、物資の不足によるインフレーションを抑制するために1939(昭和14)年、価格等統制令を公布して物価調整と増産をはかったが、生活物資の不足は国民生活を圧迫し、1940(昭和15)年以降砂糖・マッチ・木炭・衣料などが切符制となった。食糧生産は労働力や生産資材の不足のために1939(昭和14)年をさかいに低下し、食糧難が深刻になっていた。農村では、1940(昭和15)年から政府が強制的に米を買い上げる供出制が実施され、1941(昭和16)年には米が配給制となった。

2 太平洋戦争と国民生活

日中戦争の長期化は国家経済を悪化させ、国民の生活を苦しめるものとなっていった。そこで政府は事態の打開策として資源の確保をめざし、南方進出を実行した。しかし南方への進出はアメリカ・イギリスとの対立を深刻化させ、日本への石油輸出が禁止されるなどの経済制裁が強化され、ついに1941(昭和16)年12月8日、日本は米・英に宣戦を布告し太平洋戦争がはじまった。

米・英との戦争は国家の存亡をかけた総力戦となり、政府は戦争遂行のため人員や物資の運用をはかった。民需工場は軍需工場へ転用され、学生・生徒・未婚女性は不足した労働力をおぎなうために学徒の勤労動員による学徒勤労報国隊や15歳以上25歳未満の未婚の女子からなる女子挺身隊として軍需工場で働くこととなった。さらに軍需物資の不足をおぎなうため鉄製品・貴金属・寺院の梵鐘までもが供出された。また兵士の不足をおぎなうため、1943(昭和18)年には学徒出陣がおこなわれ大学・高等学校・専門学校の学生・生徒の徴兵猶予を停止して、軍に召集した。その後、兵役法を改正し、兵役年齢を17歳まで引き下げ、1945(昭和20)年には国民義勇兵役法が公布され15〜60歳の男子、17〜40歳の女子を国民義勇戦闘隊に編成した。

しかしこれらの努力にもかかわらず戦局は悪化し、制海・制空権の喪失により、依存していた南方の物資も輸送が困難になり資材が極度に欠乏した。それに加えて1994(昭和19)年末からアメリカ空軍の爆撃機による本土空襲が激化して多くの犠牲者を出し主要都市や工場が破壊され、工業地帯は壊滅的な打撃をうけ工業生産力は急速に低下した。空襲の激化にともない地方へ婦女子の疎開や学童の集団疎開がおこなわれた。また食糧の生産力も低下し、戦局の悪化により東南アジア・台湾・満州・朝鮮からの食糧の輸送もとだえ、米の配給も削減され、食糧不足は一層深刻となった。こうして日本経済と国民生活は崩壊していった。

1945(昭和20)年にはいると日本の敗戦は濃厚となり、3月には硫黄島、6月には沖縄がアメリカ軍に占領された。アメリカ軍は8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下し、8月8日、ソ連が日本に宣戦を布告した。日本の敗戦は決定的となった。ついに政府は8月15日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をし、戦争は終結した。
 

 
■渥美半島の戦争
 
■明治の戦争(日清戦争・日露戦争)

1 日清・日露戦争

日清・日露戦争で、現渥美3町(渥美町・田原町・赤羽根町)の人たちの多くが陸軍第3師団(名古屋)の豊橋歩兵第18連隊に所属して朝鮮半島や中国で戦った。海軍では日露戦争の日本海海戦にも参加し、連合艦隊旗艦三笠で渥美町出身の3名が戦死している。

2 戦没者
 

 

 
杉山村
六連(1)
神戸村
 
田原町
 
野田村
 
赤羽
根村
伊良湖
岬村
福江町
 
泉 村
 

 
西南戦争 1(2)
日清戦争 16
日露戦争 10 32 16(4) 10 18 10 111
その他(3) 1(5)
12 11 40 20 13 25 11 140

※渥美郡尚武会長根来長太編『町村別戦没者名簿』大正11年3月による。

[註]
(1)杉山村大字杉山は昭和30年の市町村合併で豊橋市に合併したため戦没者数から除いた。
(2)『赤羽根町史』によれば、田原坂で戦死となっている。
(3)その他とは台湾出兵・第一次世界大戦のことであるが、赤羽根町と渥美町については不明。
(4)『赤羽根町史』によれば、日露戦争戦没者は19名。
(5)『渥美町戦病死者名簿』によれば、大正年間の戦没者は11名。
 

 
■六階建を知ってるか

1 伊良湖射場(正式名称、陸軍技術研究所伊良湖試験場)

「六階建」は陸軍の伊良湖射場に建てられた気象塔のことである。1901(明治34)年、陸軍は大砲の実射による試験用地として福江町西山地区を候補地に選び、小中山地区の田戸神社前に試験場を建設した。さらに、1905(明治38)年、日露戦争で大砲の性能向上の必要性を痛感させられた陸軍は試砲場を拡大し、研究強化を計るために、西山および伊良湖集落地(現在のガーデンホテル・ゴルフ場付近)・西ノ浜沿い一帯を軍用地として買収した。このため、伊良湖集落全戸(114戸、729人)は、 現在の伊良湖集落地(112戸)と他所(2戸)へ移転することとなった。宮山の伊良湖神社も現在位置に移された。

2 射場の影響

(1) 漁業上の支障:西山海浜のうち地引網漁の地帯を制限、試砲実施の時は西山通過禁止。

(2) 自給燃料の不足:西山は広大な松林地帯で、この松木の下枝・落松葉は地元民の燃料源であった。

(3) 渥美町における最初の国道:福江町大字畠の福江橋〜小中山・同地点〜伊良湖までの区間道路が軍用目的として国道となる。

(4) 弾丸破片の払い下げ:くず鉄は大切な再生資源であり、比較的高価に買い入れされていた。しかしくず鉄拾いをしていると誤って砲弾が爆発することもあった。

(5) 地元民の雇用:約200人の労働者がいたが、通勤距離の短い中山・小中山の住民雇用が多かった。

3 その他の施設

(1) 伊川津地区伊井新田の海軍爆撃場
 昭和18年、海軍爆撃場となり、鈴鹿の海軍航空隊から若い練習生が伊勢湾をこえて飛来し、模擬爆弾の投下訓練が終戦時まで毎日のように続けられた。

(2) 石神地区の野戦病院
戦時中の施設。

 
■みんなが戦っていた 
(戦場の兵士だけが戦っているのではなかった。日本全土が戦場だった。)

1 勤労動員

勤労動員によって男子の多くは名古屋をはじめとする県内の軍需工場へ動員された。残存の男子のなかには豊橋市大崎地区の海軍飛行場・大清水地区の陸軍飛行場で、飛行場建設・高師原演習地の草刈りなどの勤労奉仕をおこなった者もいた。また成章中学の生徒は学徒勤労動員により学徒勤労報国隊として、日本曹達田原工場・小野田セメント田原工場・豊川海軍工廠に動員されている。女子もまた女子挺身隊として豊川海軍工廠へ動員されたり、学徒勤労動員により福江女子実業学校(旧福江高等裁縫女学校)・田原女子実業学校(旧田原高等技芸女学校)の女生徒が豊川海軍工廠へ動員された。田原女子実業学校の生徒は、ほかに日本曹達田原工場・東洋通信機豊橋工場にも動員されている。さらに福江町の渥美航空機工業には福江国民学校高等科の生徒が動員されている。

軍需工場への動員ばかりではなく、労働力が不足していた農家への援農や食糧増産のための空閑地・荒廃地・運動場などの開墾がおこなわれ、多くの生徒が勤労報国隊として勤労奉仕をしている。また田口農林学校(愛知県立田口高等学校の前身)の生徒多数が援農として、各地区の国民学校に約10日間滞在して(福江国民学校には50名)勤労奉仕をしている。

2 動員による戦没者

男子の勤労動員や学徒動員・女子挺身隊によって多くの町民が動員されていたが、おもな動員先の戦没者数は『渥美町戦病死者名簿』・『田原町戦没者慰霊者名簿』(昭和50年田原町仏教会)・『赤羽根町史』所収「戦死病歿者」によると次のようになる。
 
 
 
 
渥美
 
田原
 
赤羽根
 

 




 
 
豊川海軍工廠 15 24 13 52
中島飛行機製作所半田工場
名古屋愛知時計
18 26 13 57

 
■豊川海軍工廠の悲劇

当時、豊川海軍工廠の従業員数は、約50,000名、うち約5、400名が動員学徒であった。工廠は昭和20年8月7日、B29爆撃機124機・P51戦闘機45機の大編隊により、空襲をうけ、死者※約2,500名(うち動員学徒約450名)、負傷者約10,000名の被害をだした。幸いなことに福江女子実業学校の動員学徒と旧田原高等技芸女学校卒業生による女子挺身隊は全員無事であった。しかし成章中学校の動員学徒2名を含む多くの勤労動員者が爆死した。
 
※工廠外において犠牲となった八南国民学校一年生を始め、一般の人々を加えれば3,000人近くいた。(2002年08月12日追加)

『豊川市平和都市宣言「二千五百余名」に異議あり』大島信雄 ★リンク切れ2012/08/08チェック


<福江女子実業学校の教師・生徒の証言>

証言1:引率教師

ますますきびしく困難になってきた戦局のもとに、生徒たちも工員と同じく二直制になりました。早出勤は午前三時五分前起床、五時五分より作業開始、十二時二十五分終了。おそ出勤は十二時五分前起床、二時五分より作業開始、九時四十五分終了。この時間帯の中で私は、朝星夜星をあおぎながら若さにまかせ、勝利を信じ、生徒たちの無事を念じながら寝食を共にしました。粉骨砕身という字の如くに。警戒警報の発令も回数が多くなり、防空壕への避難やバケツリレー式の消火訓練も度々行われました。

証言2:昭和19年4月動員

仕事に行くときは、皆必勝の鉢巻をしめ、かばんを肩にかけ、医薬品の袋を持ち、もんぺを履き、防空頭布を被って出かけました。食糧は、イモの輪切りの炊き込みご飯、干したイモのつる、イナゴのつくだ煮等でした。時々、海軍の技術少尉さんがサツマイモをくれ、それがとてもおいしかったのを覚えています。半年位は、全員「家に帰りたい、家に帰りたい」と言って、月を見ては泣いていました。休日に帰宅するときは、午後三時から暇をくれるのですが、そうすると田原からバスがなくなりますので、歩いて家まで帰りました。

証言3:昭和20年4月動員

この日は、昼食をすませてから仕事に行く日でした。一度警戒警報が鳴りましたけれど、すぐ解除になりましたので、食堂へ行って食事を始めました。すると突然爆弾が落ち始めましたので、布団を被って必死で防空壕に逃げました。「死んだかなあ」と思いました。死にはしませんでしたが、おしりが焼けてとても熱かったことを覚えています。その後、何回も何回も炊き出しをしました。おにぎりをたくさん握ったので、手が真っ赤になりました。

 
■常光寺山(城山)山頂の爆弾跡を知ってるか

1 渥美半島の空襲

戦局の悪化により制海・制空権を失うと、アメリカ軍の爆撃機B29による本土空襲が激しくなり、昭和19年11月以降、渥美半島でも連日のように警戒警報・空襲警報が発令され、爆撃や機銃掃射をうけた。

2 空襲による被害

<渥美町>

(1) 昭和19年11月27日:伊良湖地区爆弾7発、損害家屋2棟。

(2) 昭和20年7月:堀切常光寺山(城山)海軍監視哨爆弾2発、爆弾跡(直径13メートル、深さ5メートル)。

(3) 昭和20年7月25日:小塩津地区爆弾3発。

(4) 昭和20年7月30日:江比間地区、早朝より艦載機来襲爆弾投下・機銃掃射、焼失家屋6棟。

(5) 昭和20年8月1日:中山の漁民1名が知多半島内海沖で艦載機の襲撃をうけ死亡。

<田原町>

(1) 昭和19年11月27日正午過:神戸の丸中製糸、爆弾3発。

(2) 昭和20年7月24日:日本曹達空襲。

(3) 昭和20年8月14日(終戦の前日)午後1時ころ:田原駅を出発した渥美線の電車をアメリカの戦闘機3機が襲撃、機銃掃射により乗員・乗客のうち15名即死(うち成章中学生徒5名)・16名  負傷(うち成章中学生徒5名であるが、1名は重傷で入院後死亡)。

(4) 年月日不明:渥美半島沖1名死亡。

<赤羽根町>

大山の無線電信中継所・池尻の組合・高松国民学校(艦載機の機銃掃射で女児1名死亡)・赤羽根国 民学校などアメリカ軍の艦載機による襲撃で被害をうけた。

 
■渥美半島を襲った大地震

渥美半島の人々を恐怖におとしいれたのは空襲だけではなかった。昭和19年12月7日13時36分ころ熊野灘沖を震源とするマグニチュード8の大地震が東海地方を襲った。東南海地震である。現渥美町の被害は全壊した建物約350棟、死者1名であった。さらに、翌昭和20年1月13日3時38分ころ渥美湾を震源とするマグニチュード7.1の三河地震が発生した。福江町では震度6の烈震、泉村・伊良湖岬村では震度5の強震であった。被害は全壊した建物約50棟、死者1名であった。2度の地震の被害は地盤の弱い福江町が最もひどく2名の犠牲者も福江町であった。

※これらの地震に関する詳しい資料は、戦時中の厳しい情報統制のためにあまり残っていないそうだ。

 
■お寺の釣鐘が消えた(物資の供出)

物資の不足をおぎなうために、学校の鉄柵・鉄鎖・寺院の梵鐘・銅像(二宮金次郎像とか)・貴金属・宝石類・食糧などさまざまな物資の供出が国民に強制された。

・昭和16年9月:泉小学校裏の鉄柵・奉安殿周囲の鉄鎖。

・昭和18年3月〜4月:各地区の国民学校運動場に銅・鉄が集められた。

・昭和18年3月:小塩津地区正福寺の釣鐘。

・昭和18年3月21日:赤羽根町高松の法蔵寺・正法院の梵鐘。

 
■アメリカ軍上陸の危機(本土決戦の危機)

戦局の悪化にともない、本土防衛の必要性が高まると、アメリカ軍の上陸が想定される渥美半島防衛のために、昭和19年9月、第73師団(怒部隊)の歩兵第198連隊、700〜800名(連隊本部は田原[註])と、昭和20年4月、第153師団(護京部隊)の歩兵第441連隊・速射砲隊、約3,700名(連隊本部は福江国民学校、)が進駐してきた。第153師団の進駐により第73師団は赤羽根と馬草を結ぶ線から東に移駐した。兵隊は寺院・学校・民家に分宿して敵の上陸が予想される恋路が浜〜堀切海岸を中心に陣地を構築し本土決戦にそなえた。渥美半島が戦場になるかもしれないという思いで住民の緊張感が高まった。駐屯にともなう壕掘り、松の切り出しに残存の男子・婦人会・青年学校・国民学校高等科・青年団員などが動員され、アメリカ軍を迎え撃とうという緊迫感のなかで8月15日の終戦を迎えた。

[註]『渥美町史』には田原中部国民学校とあり、『田原町史』には成章中学校とある。

 
■まぼろしの渥美線を知ってるか

大正11年に渥美電鉄株式会社が設立され、大正14年に豊橋〜三河田原間が開通した。さらに大正15年、三河田原〜黒川原(駅は田原町大久保、現在の259号線バイパスの終点)間も開通し、福江まで路盤工事がすすめられた。しかし、渥美電鉄は経済不況と経営難から昭和9年、福江までの延長計画を断念した。その後、国鉄による延長計画が持ち上がり、国鉄渥美線(豊橋伊良湖岬線)として福江まで用地買収・路盤工事がおこなわれ、昭和14年までには黒川原〜福江(駅は現在の消防署)間の路盤工事がほぼ完成した。しかし戦局の悪化による物資の欠乏のため工事は進まず、昭和19年6月5日には、軍需への資材転用のため三河田原〜黒川原間のレールが撤去され、延長計画は断念されて渥美半島縦貫鉄道の構想はまぼろしとなった。

現在でも、石神交差点付近の高く盛り土された軌道敷・石神交差点西方の鉄道架橋・「工」マークのコンクリート杭など当時をしのばせる遺構が至る所に見られる。

■街と鉄道 ☆相互リンク

『予定された鉄道が「来なかった」街の、現在の姿 (未成線関連)』内

※まぼろしの渥美線のことは、このサイトがおすすめです。しっかりと足で調べて、詳しく紹介されています。
 
■戦没者(十五年戦争戦没者)

<渥美町>

・『渥美町戦病死者名簿』では、982名。

[渥美町の戦病死者数の推移]
 
昭和(年) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21〜28
数 (人) 24 17 23 17 21 29 60 350 381 56 982

*参考:満州事変(昭和6〜8年)、日中戦争(昭和12〜20年)、太平洋戦争(昭和16〜20年)

 
<田原町>

・『田原町戦没者慰霊者名簿』では、887名(遺族が田原町に現存しているもののみ、実際にはさらに多い)。
 
<赤羽根町>

・『赤羽根町史』では、329名。

 
《参考文献》※書名・編著者・発行年・発行者
 
『赤羽根町史』、赤羽根町史編纂委員会編、1968年、愛知県渥美郡赤羽根町発行
『豊川市史』、豊川市史編纂委員会編、1973年、豊川市発行
『田原町史』下巻、田原町文化財保護審議会・田原町史編さん委員会編、1978年、田原町・田原町教育委員会発行
『渥美町史』歴史編下巻、渥美町史編纂委員会編、1991年、渥美町発行
『渥美線−まぼろしの「豊橋伊良湖岬間鉄道」をめぐって−』、渥美半島郷土研究会編、1993年 渥美半島郷土研究会発行
『太平洋戦争下の学徒勤労動員−愛知県成章中学校と田原女子実業学校の場合−』、渥美半島郷土研究会編、1994年、 渥美半島郷土研究会発行

 
 

《学校の先生方へ》

郷土の歴史を学ぶとき、「聞き書き」を主体とした調査活動をしていくと、祖父母をはじめとした人とのふれあいを通して、興味や関心が深まり、たいせつなものを得ることができます。「初めて(戦争の話を)聞いた」「初めてこんなに多く(祖父母と)話をした」という子どもがほとんどではないでしょうか。

「戦時中の食べ物がない生活」
「本土決戦を覚悟した(渥美半島は米軍上陸想定地でもあった)」
「南方戦線でワニに足をかまれた」
「特攻出撃に連れて行かれず、大和からおろされた」
「何回も余震が続き家の中で寝ることができなかった」

などなど、多くの生きたお話を聞くことができます。

聞き書きレポートの課題は、長期休暇を使うことで可能です。ですが、レポートを読んで評価したり、レポートをまとめて授業を展開していくのには、多くの労力を必要とするのでたいへんだと思います。また、進学校の場合、授業時間の関係で、《やった方が良いのはわかっているけれども》それどれどころではないという、御家の事情がおありでしょう。

しかし、教師として今でなければ伝えることができないことがったとしたら、それを伝えていっていただきたいと思います。それが歴史の教師の使命でもあると思います。わたしは、標準的な学習計画から脱線することが多かった教師ですが、それが良いことだと言っているわけではありません。

ただ、貴重な経験をされた方々がご存命のうちにしかできない経験を若い人たちにしてもらいたいという一心で、教科書から脱線していました。

経験された方のお話しには重みがあります。その重みを聞き手が肌で感じ取っていってほしいと思います。

わたしが生徒の時には、戦時中の話をしていただいた先生が何人かいらっしゃいました。例えば、グアム島で玉砕した歩兵十八聯隊の生き残りの方もいらっしゃいました。貴重なお話をお聞きすることができました。戦争を経験した学校の先生は、今ほとんど教壇には立っていないでしょう。仕方がないことなのですが、頭の中でイメージはできても戦争の本当の怖さを伝えることはできません。

1時間でもいいですから時間を割いて取り組んでみてはいかがでしょうか。


 
引用はご自由にしてください。
何かのお役に立てれば幸いです。
ただし、出典は明らかにしてください。

◆戦争と郷土◆
■はじめに
■渥美半島の戦争

★三河の歴史へ★

【三河武士がゆく】