◆戦争と郷土◆

《豊橋編》

ぼくらの町でも戦争があったことを忘れないで
 


■祇園の花火と空襲 2008/07/20
■豊橋空襲と豊橋球場 2008/07/20
■防空壕と子どもの遊び場 2008/07/20

【三河武士がゆく】


 
■祇園の花火と空襲 2008/07/20

昨日は祇園の花火の日でした。車に乗って見に行きましたが、思っていたよりも早く終わってしまったので、移動中に最後のスターマインを見ることとなり、堪能するに至りませんでした。来年はもう少し余裕を持って行動しようと思います。

祇園の花火になると、母親が口癖のように空襲の話をよく聞かされました。豊橋空襲の日は豊橋の町が真っ赤に燃え上がっていたそうです。焼夷弾のザーッという音の話もこのとき出てきます。

豊川海軍工廠の空襲のときは、「ドッカン、ドッカン」と地響きがすごかったそうです。学習塾の先生が勤労奉仕をしており、空襲で負った傷を見せてくれたことをおぼえています。また、わたしの叔父も勤労奉仕で行っていて、たまたまその日が休日だったので命を救われたと言っていました。被害の大きかった第四機銃のあたりだったようなことを聞いていたので、後で関係書籍を読んだときに、本当に紙一重だったのだと感じました。

なぜ、防空施設の中に工場を分散して、被害を最小限に抑えることをしなかったのかと、憤りをおぼえたこともあります。また、日本全土について同じことが言えますが、防空体制はどうだったのかと不思議でなりません。

浜松の時は、艦砲射撃で、豊橋まで「ドカン、ドカン」という音が聞こえたと聞きましたが本当でしょうか?浜松方面の空が赤々と燃えていたそうです。

母が亡くなれば、もう戦時中の話を聞くことはありません。同じ話を何回も聞かされるので耳にたこができていましたが、こちらが年を重ねていくにつれて、これは貴重な話であり、子孫にも伝えていかなければ、戦争は完全に風化してしまうと感じる今日この頃です。豊橋空襲や豊川海軍工廠の空襲を経験した人は何人残っているのでしょうか。

★いつになるかわかりませんが、『昭和十六年度豊橋市防空計畫』という本をスキャンしてアップする予定です。5年くらい前から手をつけていませんのであしからず。

◆戦争と郷土◆
 
■豊橋空襲と豊橋球場 2008/07/20

豊橋空襲によって廃墟と化した豊橋中心地であったが、その瓦礫の山はどうなったのでしょうか?豊橋公園に豊橋球場があります(岩田の市民球場とは違います。以前、球場の外野の土盛りのなかに何かのかけらのようなものを見ることがありました。野球場を作るときに瓦礫を利用したと言うことをきいたことがあります。

◆戦争と郷土◆
 
■防空壕と子どもの遊び場 2008/07/20

わたしの子どもの頃は子どもの遊び場の近くに防空壕がありました。薄気味悪くてなかに入ることはしませんでしたが、大人に何であるのかを聞いて、それが防空壕だとわかりました。

今でもおぼえている防空壕が二つあります。一つは入り口がタテではヨコにひろがっていたと思われますが、のぞいただけなのでよくわかりません。これは豊川の堤防付近の林の中にありました。

もう一つは、大人に聞いたわけではありませんが、なんとなく防空壕であるとわかりました。それは吉田城の堀のなかに掘られた横穴でした。こちらはもしかしたら違うかもしれません。

戦後30年以上たったいましたが、このような戦争の遺跡が子どもの遊び場周辺に普通に存在していました。

その後この二つの防空壕は危険だという理由で入り口が閉鎖されたようです。

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