近代のおはなし・戦争のおはなし
 

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■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010/01/19
■梓特別攻撃隊 2009/09/08
■やましき沈黙《日本海軍400時間の証言》 2009/08/11 
■潜水艦乗りと学校教育 2009年07月03日
■太平洋戦争の原因は? 科目としての「近代史」の必要性2009/07/15
■生きる教育?・・・「霧の火」を見て 2008/08/26
■嗚呼ズンゲン−ある秘められた玉砕戦の顛末− 2008年09月27日
■真面目な上司と水木しげる  2000/7/18 追記2008/07/11
■宮城事件(8・15事件)と外務省の二人 2002年05月22日
■ノモンハン事件の事後処理 2002年03月29日
■張学良氏死去 2001年10月16日
■腹切り問答
■2・26
■明治維新の考え方  2001/10/28
 

【三河武士がゆく】

 
■明治維新の考え方  2001/10/28

明治維新をえがいたある時代劇のせりふ
「生き残ったというだけで、政府の要職についているものがいる」

これは裏返せば、
「その価値のないものが、要職につくと世の中が乱れる」
ということです。
ある映画のせりふ、
「つまらん人間が上に立つと多くの人が死ぬ」
と言うのと同じことです。

明治維新で要職についた人々のすべてが、「つまらない」人間ではないが、墓の下で眠る維新をみることができなかった人々は明治という時代をどのように見ていたでしょうか。
「これは違うぞ!」
「これでいいのだ!」

人それぞれでしょうが、わたしは、ちょうど終戦から現在に至る時代と同じだと思っています。
今(現在)というよいもむしろ戦争直後の改革などをどのような目で見ていたのか、興味があります。
戦争でなくなったすべての人々はどのように見ているのかなと思います。

「生き残ったというだけで、政府の要職についていたものはいないのか」
「つまらない人間が上に立っていたのではないのか」

「御一新」「文明開化」「廃仏毀釈」「脱亜入欧」の名の下に、多くの良きもの(人・文化・物・自然)が失われました。改革に反対する勢力は権力による弾圧によって次第に抑えられて、その一部は政府と結託していくことになります。ただ、近代化・欧米化する事が日本のとる道(生き残る道)であるかのごとく思いこんでいた人々の指導によって、次世代が育てられ、その次世代の指導者たちによって日本はどのような道を歩んでいったのでしょうか。倒幕そのものを否定する人は少ないかもしれませんが、このような維新後の歴史を見ると維新のあり方そのものに疑問をもつ人は少なくないと思います。

明治維新とは何であったのか?
問題は、間違いがどこにあるのかをはっきりしたうえで、問題を解決していくことです。
歴史が現代を生きる我々の生活に結びつくのです。

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■2・26

昭和11年2月26日は、陸軍によるクーデタがおきた日です。

不況による庶民の困窮、農村の疲弊、外交問題、資本家と労働者の問題、地主と小作人の問題、財閥・政党・官僚・軍部の癒着と派閥対立などのさまざまな問題のエネルギーの一部が表出した事件といえるのでしょう。

さらに、軍部によるクーデタ未遂事件や2・26事件における軍法会議での真相の究明や処分は中途半端なものがありました。もちろん国民に真相が明らかにされることはありませんでした。

この事件だけをとらえて、当時の政治・経済を語ることはできませんが、大正から昭和初期にかけての経済状況や政治の在り方が現在のそれと類似していると考えている人もいます。わたしもそのなかのひとりです。

当時との違いは、軍部が存在しないことと、国民全体の経済力が向上していることです。それ以外の社会とか組織の体質そのものは、戦後50年以上たった今でも大きく変わってはいないと思います。

つまり、軍部が存在するか、大衆が「食えない」状況に陥れば、テロやクーデタがおこってもおかしくない体質がそのまま存在し続けているということです。

明治以後、殺されたり、殺されかけた首相や閣僚・重臣たちがたくさんいます。結果や目的はどうであれ、当時の政治家はほんとうに命がけで事にあたっていたと言えます。(この使命感や緊張感などの感覚を知識学習で得ることは難しい)

歴史は繰り返されると言いますが、悲劇をくり返してはいけない。歴史を学ぶひとつの理由がここにあります。

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■腹切り問答

国会の証人喚問で議員の口から「腹切り」という言葉が飛び出してきました。私はちょうどテレビを見ていたのですが、戦前の議会で行われた「腹切り問答」を思い出しました。

状況は全く違うのですが、二・二六事件の翌年、台頭する軍部に危機感をおぼえた政友会の浜田国松が陸軍の政治介入を批判しました。陸軍大臣は「軍人を侮辱した」として反撃しますが、浜田は「軍部を侮辱した」発言があったとしたならば腹を切って謝罪するが、もしなかったならば「君割腹せよ」と迫りました。陸軍大臣は浜田の気迫におされて返す言葉がなかったそうです。当時、軍部を公然と真正面から批判することは、まさに命を懸けねばできなかったことだと思います。

怒った陸軍は、広田首相に議会の解散を要求し、その他の事情もあるのですが、結局閣内
不一致から広田内閣は総辞職に追い込まれます。

ここで重要なのは、真正面から立ち向かったのは個人であり、政党が党をあげて軍部の政治介入を阻止しなかったことです。第二の二・二六事件を恐れていたという見方もできますが、政党内部の派閥争いも大きく影響していました。

学校でも会社でも同じことですが、組織全体または派閥の動きと個人のおもいが相反したときに個としてどのように動くべきなのかを考えさせられる歴史のひとこまです。

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■張学良氏死去 2001年10月16日

「西安事件(1936年)」の立役者、張学良(張作霖の子)氏が100歳で亡くなった。彼の名は世界史・日本史の両教科書に見ることができるほどの有名人である。報道もさぞかし多くのひとが知っているかのような内容である。授業でも重要人物として取り扱う人物であるが、どれだけのひとがおぼえているだろうか。学校の授業における近現代史への時間配当があまりにも少なすぎる。そして、履修の時期も適当でない学校が多い。大いなる見直しが必要だ。

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■ノモンハン事件の事後処理(無責任体制が日本を滅ぼす)
2002年03月29日

昭和14年満州(中国東北部)とモンゴルとの国境で関東軍を主力とする日本軍とソ連軍が衝突した。ノモンハン事件である。事件を集結しようとした大本営にたいし関東軍参謀らは強硬な主張で、兵力を投入して事件を拡大した。「事件」というがこれはもう立派な戦争である。結果、第23師団は壊滅的な打撃を受け、約2万人の死傷者を出して停戦となった。関東軍司令官は予備役編入となったが、強行に戦力の投入を主張した参謀は左遷されるにとどまった。哀れだったのは、現場指揮官である。直接戦闘現場にあった指揮官の中には敗戦の詰腹を切らされた者がいた(自決)。責任転嫁甚だしい。生き残った者たちのその後はどうなったか。事件から約2年後、関東軍作戦参謀は、参謀本部作戦課長に栄転となり、同じく参謀であった者も参謀本部の要職についている。個人の責任はさることながら、組織としてのだらしのなさ、無責任さがここにある。 

このような組織は、破滅するしかないのだ。

「これは、乱脈経営で支店に倒産寸前の大損害を与えた営業部長と営業課長が、やがて本社の営業部長・営業課長へ栄転して、前にもまさる大乱脈経営をやって、今度は会社を丸ごと倒産に導いたようなものである」(『体系日本の歴史14』小学館)


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■宮城事件(8・15事件)と外務省の二人 2002年05月22日

昭和20年8月15日、徹底抗戦と国体の護持を主張する将校たちによって皇居が占拠されるという事件が起こりました。私がこの事件を知ったのは、テレビで映画化された『日本のいちばん長い日』を見たときでした。以後何回も見直しています。最近問題となっている亡命事件に接し、この映画のシーンの数々を思い出しました。

将校たちは、近衛師団や東部軍を動かそうとしましたが、決起に反対した森近衛師団長を殺害します。そして、偽の師団命令書を作成して近衛師団の一部兵力をもって皇居を占拠したのです。しかし、東部軍は動かず、田中静壱東部軍管区指令官(のち自決)が皇居に乗り込み首謀者の説得にあたったため事態は収束していきます。

その中、阿南惟幾陸軍大臣は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺書を残し陸相官邸で自決しました。クーデタは失敗に終わり、首謀者の将校たちの多くは自決しました。

皇居占拠中に終戦の玉音放送を録音した録音盤(玉音盤)を奪おうとしたため、録音盤(玉音盤)奪取事件と言われることがありますが、実質は陸軍将校によるクーデタ未遂事件なのです。血眼になって録音盤を探し求める兵士に銃剣を突きつけられながら必死になって録音盤の在処を隠し通した宮中の人々の姿も映画に描かれています。

この自決した陸軍大臣阿南惟幾こそ、阿南惟茂中国大使の父親であり、阿南陸相と終戦の時期や方法をめぐり対立してた外務大臣東郷茂徳は、先に免職となった東郷和彦元オランダ大使の祖父なのです。

父親が割腹自決を遂げたとき、阿南中国大使は4歳でした。兄は中国戦線で戦死しております。尊い肉親の命を奪った戦争に対して彼はどんな思いで戦後を生きてきたのでしょうか。父の割腹自決は彼にどのような影響を与えたでしょうか。

角田房子さんの『一死、大罪を謝す』の中に、「血潮で濡れた下着類を着替えさせる必要があり、林秘書官が箪笥の中を探したが、洗いざらしの古いものしか見つからなかった(中略)のち阿南夫人とともに官邸に来た令息たちの服装も、古ぼけた、きわめて質素なものであった」という、当時陸相官邸に駆けつけた人の話が載っています。阿南惟幾という人は清廉な人であったといいます。

終戦の時期や方法をめぐり阿南陸相と対立した東郷茂徳外務大臣の孫が、このたび処分された駐オランダ大使の東郷氏です。無理矢理こじつける必要はないですが、なんか思いついたので書いてみました。東郷茂徳は三国同盟に反対していたため、松岡外相によって更迭されました。その後、東條英機内閣の外務大臣として、対米交渉にあたることになりましたが、ついに開戦となり、翌年辞職しました。戦後A級戦犯として巣鴨プリズンに服役中に病死しています。敗軍の将として責任を負って死ななければならなかった軍人を父に持つ阿南大使と、三国同盟に反対し、対米戦回避の努力をしながらも、A級戦犯として獄中で病死した外交官を祖父に持つ東郷元大使ですが、日本の歴史上、重要な役割を背負いながらも時代に翻弄され、不運な最期を遂げた父や祖父のことをどのように思いながら、外交官となり、日本の外交の舵取りをしてきたのでしょうか。父や祖父が彼らに与えた影響は少なくないと思うのです。

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■真面目な上司と水木しげる  2000/7/18 追記2008/07/11

ある人の体験談です。

彼は、ある組織の中間管理職でした。職務熱心で、人一倍の努力家で、上司には忠実であり、仕事が良くでき、かといって偉ぶることなく、仲間からの信望も厚い人でした。上司の引き立てもうけ、同期のなかではいちばんに出世し、若くして中間管理職となりました。それからの彼は、上司の期待を一身に背負い、使命感に燃えて働き続けました。

しかし、信頼している部下たちがついてこなくなったのです。彼は、少々無理な仕事も引き受けました。したがって、敬遠されるような仕事やハードな仕事が、彼のもとに集中していきました。彼の部下にしてみれば、「あの人が上司なら」という期待が裏切られた形となり、次第に不平や不満がたかまっていったのです。

《真面目な人ほど、上の命令に忠実であり、部下に『死んでこい』と言えるものだ》

という内容の戦争体験談を読んだとき強いショックを受けたことがあります。
「このような見方ができるのだ。水木しげるという人は」

自己中心的とか、卑怯者とか、点数稼ぎとかいったマイナスの評価ではなく、《まじめ》というプラス評価をされる性格をこのようにバッサリと切り捨てるに至った背景には、水木しげる氏の過酷な戦争体験があるのでしょう。

単純に正解の出るものではありませんが、このふたつの事例は、私たちに何を教えてくれているのでしょうか。

戦争でなくとも、日常生活においても似たようなことはあります。部下に理不尽で過酷な任務を負わせるのは、まじめな上司に多く見られるのではないでしょうか。日頃いい加減に見える(そう見せている)上司の方が、いざとなると「適当にやっておけ」と、部下を助け、自分は上司ににらまれる役を負うのではないでしょうか。また、これは組織の恐ろしさを的確に表現しています。

真面目で、職務に忠実なことは、決して悪いことではありません。
しかし、・・・

 

2007年8月にNHKで放映された「鬼太郎が見た玉砕−水木しげるの戦争−」は、『総員玉砕せよ』を原作としており、水木しげる氏のニューブリテン島での戦争体験に基づいています。

『水木しげるのラバウル戦記』によれば、水木氏は内地からパラオへ、パラオから信濃丸という日露戦争でバルチック艦隊を発見した老朽艦で、魚雷攻撃を受けながらも、ニューブリテン島のココボに上陸しました。その後、ズンゲン支隊に編入されてズンゲンに赴き、さらに前線監視のためバイエンに派遣されます。

この、バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅します。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができました。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」という言葉が返ってきました。これ以来、「中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた」そうです。

その後、空襲によって左腕を失うほどのケガを負い、ココボの野戦病院送りとなったので、ズンゲンの玉砕戦には参加してません。ズンゲン支隊の過酷で悲惨な状況は堀亀二氏によって「嗚呼ズンゲン−ある秘められた玉砕戦の顛末−」(『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』)に詳しく述べられています。

まったく納得がいかない、理不尽としか思えないことによって死ななければならない状況におかれたとき、死というものをいかに受け止めていくのかを考えさせられました。

 

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■嗚呼ズンゲン−ある秘められた玉砕戦の顛末− 2008年09月27日





2007年8月にNHKで放映された「鬼太郎が見た玉砕−水木しげるの戦争−」は、『総員玉砕せよ』を原作としており、水木しげる氏のニューブリテン島での戦争体験に基づいています。

『水木しげるのラバウル戦記』によれば、水木氏は内地からパラオへ、パラオから信濃丸という日露戦争でバルチック艦隊を発見した老朽艦で、魚雷攻撃を受けながら、ニューブリテン島のココボに上陸しました。その後、ズンゲン支隊に編入されてズンゲンに赴き、さらに前線監視のためバイエンに派遣されます。

この、バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅します。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができました。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」という言葉が返ってきました。これ以来、「中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた」そうです。

その後、空襲によって左腕を失うほどのケガを負い、ココボの野戦病院送りとなったので、ズンゲンの玉砕戦には参加してません。ズンゲン支隊の過酷で悲惨な状況は堀亀二氏によって「嗚呼ズンゲン−ある秘められた玉砕戦の顛末−」(『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』)に詳しく述べられています。

まったく納得がいかない、理不尽としか思えないことによって死ななければならない状況におかれたとき、死というものをいかに受け止めていくのかを考えさせられました。


 
■生きる教育?・・・「霧の火」を見て 2008/08/26

2008年8月25日、「霧の火−樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち−」(日本テレビ)を見ました。

高校生か浪人をしているときだったでしょうか、友人と一緒に、内容を知らないままに映画『氷雪の門』を見たときにことを少し思い出しました。

今では内容を知っているだけに、見る気がしなかったのですが、ついつい最後まで見てしまいました。

『氷雪の門』は十代の私にとって、強烈な印象となりました。何よりもソ連軍に対する憎しみや北方領土に対する関心がたかまり、その後ソ連軍侵攻に関する本を何冊か読んだ記憶があります。

私の父は終戦時九十九里浜でアメリカ軍を迎え撃つべく陣地を作っていたそうです。もし、終戦がもう少し先きにのびていたとしたら、私は今こうして文章を打っていないかもしれません。
                     
父は九十九里浜の前には満州とソ連の国境にある東寧にいました。そのまま東寧に残っていたとしたら、やはり私はこの世にいないかもしれません。

今、あらためて同じテーマの番組を見て思うことは、なぜ「絶対に生きるのだ」という教育がなされなかったのかということです。

私の母親は大正15年生まれですので、昭和20年には数えの20才でした。もしアメリカ軍やソ連軍が上陸してきて、どうにもならない状況になったら死を選んでいた可能性はまったくゼロではありません。

サイパン戦にしても沖縄戦にしても、満州でもその他戦場のいたるところで自決・集団自決がおこなわれました。理由はさまざまですが、ある条件になったら死を選ぶという心理状態は、教育が負うところが大きいと思います。

兵隊でなく、指揮官である職業軍人であれば、敗軍の将としての責めを負うという意味では理解はできます。しかし、一般の戦闘員や非戦闘員までが、なぜ死を選ぶ教育を受けたのかということが残念でなりません。

いつから日本は、敗北=死だけではなく、敗北=死の選択という風潮ができてきたのでしょうか。私には詳しいことはわかりませんが、たとえば、戦国時代の武士や庶民たちのなかには、何が何でも生き抜いてやろうという姿を見ることができます。

一方では敗戦のなかで死を選ぶ人たちもいますが、なかには、部下や城に籠もった非戦闘員の命の代わりに守将が腹を切る場面も見られます。籠城による玉砕戦のような状況でも非戦闘員を逃す場面も見られます。だからといって、皆が無事にすむわけではなく、捕まって命をとられたり、奴隷のように売られたりすることもあったようですが、非戦闘員の多くが死を選ぶというケースはあまり見られなかったと思います。一向一揆や島原の乱などはべつとします。

敵が日本人であったからでしょうか?敵が外国人になるだけでこんなにも変わるのでしょうか?鬼畜米英といっても、米英を知る人はいたわけです。私にはなかなか理解ができません。

私たちは、多くの人の犠牲と生き残った人たちの苦難の上に、生きているというを忘れてはなりません。それだけに、生きることは自分だけのものではないのです。戦後の教育はそのようなことをじゅうぶんにふまえておこなわれてきたと思いたいのですが、それでも、自殺をする若者たち、殺し合う若者たち、将来を儚んで自殺をする若者たちは後を絶ちません。

戦争経験者・戦場体験者はやがていなくなってしまいます。生きる教育を戦争と結びつけて考える最後の時期だという危機感を持っています。

戦後生まれの戦争をまったく知らない私が追うひとつのテーマです。



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■太平洋戦争の原因は? 科目としての「近代史」の必要性2009/07/15  

太平洋戦争の原因は?という質問をよく見ます。

少なくとも、以下の要件を幕末・明治維新までさかのぼって勉強することで見えてくるものだと思います。

1.日本の政治体制上の問題

2.国内・国外の経済問題

3.世界情勢と日本の外交問題

国内の経済問題(社会問題)の解決を外交に求め、外交手段のひとつとして戦争(武力を背景とした解決手段)があり、戦争の道を選択しやすい(非戦・反戦の意見が抑圧される)政治体制であったと言えます。

ただ、私たちが誤ってはならないのは、私たちは当時の人間ではないと言うことです。現代の人がすべて当時にごそっと瞬間移動したのであれば、戦争回避の道を選択できる可能性は大きくなると思いますが、当時の人たちが、当時の状況下で、その選択をしたのだというこを理解しなくてはなりません。

私たちができることは、歴史を教訓として学び、良い選択をしていくということです。

残念ながら、今、学校では、近代史の授業時間はじゅうぶんとは言えません。できれば、中学から、少なくとも高校の授業で近代史を日本史から独立させる必要があります。

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■潜水艦乗りと学校教育 2009年07月03日

最近、『ローレライ』『真夏のオリオン』といった潜水艦を舞台とした映画が作られ、人気俳優をキャストにして、若い世代にも見やすく作られているようです。

以前、勝目純也氏著、「わが青春、どん亀時代に悔いはなし−日本海軍潜水艦乗り気質−」(『歴史群像』2008年10月号)を読みました。

沈没となれば乗組員の生存率はきわめて低く、死なば諸共、一蓮托生という気持ちだったといいます。その気持ちになるためには、和が必要です。狭い艦内で憎しみあっていては、とても過酷な任務を遂行することはできません。

戦時中、潜航訓練中の事故で沈没した潜水艦が、戦後瀬戸内海から引き揚げられましたが、関係者の証言によりますと、自分のベッドで亡くなっていた人も多かったそうです。(吉村昭『戦史の証言者たち』)

最期までそのようにいられる精神状態は私には想像もつきません。

潜水艦乗りには冷静・沈着・迅速・正確・繊細な行動と、精神面での安定が求められたといいます。さらに艦長は情報を瞬時に分析して、ときには、果断な命令を下さなければなりません。ちょっとした判断ミスが命取りになります。

こうなると、潜水艦の艦長は成績優秀な人ばかりなのかと思いますが、実戦で傑出した戦果を上げた潜水艦の艦長のほとんどが兵学校での成績は、半分よりも後ろだったそうです。

現代の日本という船を動かしている人たちはどうなのでしょうか?

残念ながら、戦後60年以上がたちましたが、日本の学校教育はあまり進歩していないことがわかるのです。

なぜならば、依然として学校の成績が優秀な人が、組織の幹部やトップになりやすいシステムになっているからです。さらっと書きましたがとても深刻な問題から日本は抜け出ていないのだと思いました。

これはたいへん大きく深刻な問題です。

学校の成績が優秀な人が社会でも活躍できるような、学校教育をしなければなりません。社会での活躍とは立身出世や金儲けではありません。

学校教育に求められるのは、多角的なものの考え方、切り替えの早さ・柔軟さ、分析・判断・適用・応用の力、そして、愛情・人情・人徳を身につけるような教育だと思います。

このあたりまえのようなことが、学校だけではなく、家庭・社会においてどの程度あたりまえにおこなわれているのでしょうか?

幼い頃、よく家の近所のたばこ屋さんへ親の使いで煙草を買いに行きました。目立つところに海軍の制服を着た人の写真が飾ってあり、私はいつも気になっていました。ある時、親にそのことを聞くと、写真の人は私の父親の幼なじみで、潜水艦に乗っていて戦死した人であることがわかりました。潜水艦乗りは優秀なんだよということを聞いていたことも思い出しました。


『がんこ親父の子育て雑記』(2008年10月23日)を更訂

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■やましき沈黙《日本海軍400時間の証言》 2009/08/11 


NHK「日本海軍400時間の証言」を二日続けてみました。

開戦・特攻と、海軍の中枢にある軍令部の参謀たちが、反対でありながら発言することをしない。または、意見は言ってもそれを押し通さない。

エリート中のエリート達の集団が、日本の命運と国民の生死を握っていたのにもかかわらず、そこに体を張らないとはどういうことなのか。

誰も反対する者がなければ、発言した者の意見が通ってしまう。

見通しや根拠のないままに作戦が立案され実行に移されていく。

机の上で、思いつきや勢いでつくられた計画によって、人が死んでいくのである。

言い出しっぺの軍令部員が先に死ぬことはない。

現代の政界、官界、財界などのなかにもにも「やましき沈黙」は見られるのではないか。

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■梓特別攻撃隊 2009/09/08

楠木正行の辞世より命名されたという、梓特別攻撃隊が東京の南2800キロに位置するウルシー環礁の米機動部隊攻撃のために出撃したのは昭和二十年三月十一日のことです。

三月十日に予定された攻撃は中止され、攻撃隊は途中で引き返しています。出撃は翌日に延期になり、この夜宇垣纏第五航空艦隊司令長官に招かれた晩餐会で隊長の黒丸直人大尉が参謀のひとりに激怒している姿が描かれていますのでそのまま抜粋します。内容は生存者の記憶をもとにしています。


「なぜ、三人も出さにゃならんのですか?電信員を二四機すべてに乗せる理由は何ですか!小隊長機だけに乗せてもことはたりますよ!
 手前らのその杓子定規が、日本を駄目にしたんじゃねえのか!無理して死なせることはねえだろう!」
 電信員ほとんどは予科練出身、幼願の残る十代の少年たちである。いたずらに若者を死に追いやるとしか思えないやり方、押し黙る参謀に対して、黒丸大尉の精一杯の抗議でもあった。

※神野正美「梓特攻隊の第二次丹作戦」(『歴史と旅』増刊号94・激闘太平洋戦争)より


攻撃機は海軍の陸上爆撃機「銀河」で搭乗員は操縦員・偵察員・電信員です。最年長は黒丸大尉の27歳、最年少は18歳でした。なお、攻撃隊の内一機が空母に体当たりをし、一機はソーレン島に突入、その他少なくとも二機が珊瑚礁に突入して自爆したようです。黒丸隊長機を含めた4機は暗闇のため目標を捕捉できずにヤップ島に不時着しました。

彼らは「やましき沈黙」の犠牲者とも言えるのではないでしょうか。

※大和特攻出撃の前に大和からおろされた若い水兵がいたというお話を聞いたことを思い出しました。


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■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010/01/19


防空戦闘では、紫電改の海軍343空や飛燕の陸軍244戦隊などが有名です。陸軍の震天制空隊には、武装をはずしてB29に体当たりをする特攻機もあり、戦果をあげていました。

しかし、度重なる邀撃戦で戦死者が増え、出動可能な飛行機は減少していきました。B29の高度に達する高射砲の配備も不十分でした。

本土決戦にむけての兵力温存のために出撃を禁じられていた隊もありますが、命令違反をしてまでも、出撃した隊もありました。

防空戦闘を禁じておきながら、人や工場を移さずに地上にあらわしたまま戦争を継続するという考え方は、どこからくるのでしょうか?国民は死傷し兵器を作ることができない状況がわかっていてそうするのです。

現代人の私には理解に苦しむところです。

早く戦争を終える力が政府にあればと思うと残念でなりません。沖縄の戦闘や、広島や長崎の原爆、その他の戦線での戦死者もでなかったのです。私の身近なところでは、豊橋空襲や豊川海軍工廠の空襲もなかったのです。

あのまま、連合国軍が、徹底した空襲や艦砲射撃の後、上陸作戦を実行し、本土決戦がおこなわれ、日本政府からの停戦に応じなかったとしたら、どうなっていたでしょうか。

退き際を見極める力はあっても、実行に移すことができなければ、勝負に大きく負けることになります。

人間は、思い切って止めるときに、決断力が問われるのだとあらためて思いました。

参考『丸 紫電改と五式戦 伝承の邀撃戦』

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■『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 2010/02/03

鈴木勘次『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 光人社 2005年

先に海軍の陸上爆撃機「銀河」による第二次丹作戦の梓特別攻撃隊について触れました。

著者は第二次攻撃隊として出撃する予定で、大分県宇佐飛行場で待機していましたが、第二次攻撃は中止されました。


そして、菊水三号作戦により、昭和二十年四月十七日、鹿児島県出水基地から出撃しました。

予定していた他の銀河の故障により、二時間遅れの単機出撃となったり、途中酸素吸入器が故障したりして、アクシデントが続きました。

実際に突入して奇跡的に生還した著者の言葉は重い。

「説明のつかないような苦痛が走り、時間とともに死が本物になっていく」

「身に迫る肉体の消滅という現実を痛感せずにはいられない」

(本文より)


著者は、「はじめに」や本文のなかで、特攻隊員は今の若者たちと何ら変わらなかったということを強調しています。特別な見方をされることには当時も違和感をもっていたようです。

私たちは、知らないから、勝手に想像してイメージを作り上げてしまうことがあります。それが人を苦しめることがあることを知らなければならないと思います。

「現代の人々は、「特攻」というと、スリルとか、豪快だとかと思い浮かべるかも知れませんが、本当の弾丸の飛び交う中を飛んだことがないので、無理からぬことと思います。とにかくいまのヤングの方たちと何ら変わらぬ若者であったことだけは事実です。」

「はじめに」より

《本の紹介》




近代のおはなし・戦争のおはなし

 
■シベリア特措法と戦争被害者への保障 2010年06月17日


昨日(2010年6月16日)、シベリア抑留者の救済法である《シベリア特措法》(戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法)が成立しました。


昭和二十年八月九日以来の戦争の結果、ソ連又はモンゴル人民共和国で強制抑留された「戦後強制抑留者」に対し、特別給付金が支給されます。金額は帰還の時期によって異なります。

法案によれば、予算は約250億円であり、国民一人あたり200円に満たない計算になります。

日本政府は、今まで何をしてきたのでしょうか?


戦争は生命だけではなく、精神的にもダメージを受けます。心の傷という精神的な犠牲に対する保障をするべきです。兵役は義務でしたが、それとこれとはまったく別のものです。これは、軍人であるかないかとか、国籍によって区別するものではなく、皆等しくなければなりません。

戦後復興・高度経済成長などの経済的な成長により、現在のわれわれの暮らしがあると思うから、今の世の中が空虚なものになるのだと思います。多くの犠牲の上にあぐらをかいている事を忘れないことです。

近代のおはなし・戦争のおはなし

 
■父と見た映画3本が刻み込んだもの 2010年07月07日

明治24年(1981年)7月7日は硫黄島で玉砕した栗林忠道大将の生まれた日です。

私の記憶では父と見に行った映画は3本です。

「海軍特別年少兵」
「日本海大海戦」
「あゝ陸軍隼戦闘隊」

全部小学校の低学年のころです。よくも、その頃の年齢の子どもに見せたものだと思いますが、私も好きでついていったように記憶しています。

3本ともあまり良い印象はありません。

旅順攻撃、加藤隊長の戦死、帯剣を紛失して自殺する少年。

でも、この3本しか父との思いではないので、今こうして思い出したのだと思います。

わたしはいつしか、戦争映画やプラモデルが好きな少年になっていました。

しかし、近代史を学んでいくうちに、次第に反戦的になっていく自分とのギャップが今でもしっかりと存在しています。これが、自分の精神構造をを複雑なものとしている。

ロシア軍の機関銃の前を突撃して次々と戦死していく兵士たち、そして突撃が繰り返される。

帯剣をなくして自殺する少年。

人命軽視の「教育」と「雰囲気」が亡国へとつながるのだという意識が、そのとき芽生えていたのだと思います。

数年前、NHKで元兵士たちが証言していくテレビ番組を見ていて、あの後味の悪さと怒り(無責任な政治家や軍人への)がこみ上げてきました。

ガダルカナルでも、ニューギニアでも、サイパンでも、グアムでも、インパールでも、フィリピンでも、沖縄でも、広島でも、長崎でも、シベリアでもその他多くの戦場に、戦死者にかわって、タイムスリップし、同じ体験をして、

亡くなった人たちと同じ経験をもう一度していただきます。

それでも戦争をやりますか?

という質問をしてみたい。

今の政治も同じです。何を第一とするのか?

たとえば、特別養護老人ホーム・介護老人保健施設に入ることができない待機者が40万人以上という現実を政治家はどう考えているのでしょうか?

老人には金を使わないというのでしょうか?

介護の最前線では、次々と戦死者がでているのです。

老人や介護家族になってみるとよくわかります。

近代のおはなし・戦争のおはなし

 
■「生き延びてはならなかった最前線部隊」を見て 2010/08/05

7月30日にNHKで放映された「生き延びてはならなかった最前線部隊 〜ニューブリテン島・ズンゲン支隊〜」を見ました。

戦争である以上勝たねばならないわけです。命令や形式を命よりも重んじて、兵士を人とも思わずに死に追い込んでいくような戦いをしていた日本は、本気で勝とうとしていたのでしょうか。

勝つことを目的とするのであれば、できる限り損害を少なくして、少なく戦って勝つことです。戦わずして勝つことが戦いの極意ともいいます。

人を活かすことが剣の極意でありながら、理不尽な命令の下に自軍の兵士を死地に追いやることが組織的(軍か師団かわかりませんが)におこなわれていたというのは信じられないようなことです。

上にある者が戦争に勝つことよりも、理不尽な命令を実行すること、全軍の士気を落とさないように生き残った兵士を殺すことに力を注ぐような軍隊が勝てるわけがありません。

死ななくてもよいのに死んでいった人やその家族はどんな思いだったでしょうか。

水木しげるという人は、そのような軍隊にいて、組織の大きな欠陥や人間の醜さに気付き、それを残された人たちに知らしめる役割を持って生き延びてきたのだと思います。

この人間の醜さや組織の怖さは、今の社会にも依然として存在します。


近代のおはなし・戦争のおはなし

 
■『敵兵を救助せよ』 2010年08月06日

『敵兵を救助せよ 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』
惠隆之介 草思社

この本は戦記ものであり、教育書でもあるようなものです。
学校の教師などの教育者に読んでもらいたい本でもあります。

日本海軍駆逐艦「電」の工藤俊作艦長は、ジャワ島北方スラバヤ沖で、漂流するイギリスの巡洋艦・駆逐艦の乗組員四百数十名を救出したことで知られています。

艦長の着任訓示
「本日より、本艦は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」
172頁

当初は軟弱な艦長ではないかという声があったそうです。

それでも、鉄拳制裁は止まなかったそうですが、艦長は決して軟弱ではありませんでした。

戦闘が行われた海域で、救助のために艦を停止させることは、非常に危険なことなのだそうです。攻撃の的になるおそれがあるのです。

艦長の教育者としての手腕は、今の教育者の手本ともいえるものです。

例えば、哨戒活動中に流木を敵潜水艦の潜望鏡と誤って報告した見張りに対して、怒ることなく、「その注意力は立派だ」と誉めたのです。

このため、四○○○メートル先の潜望鏡を識別できる見張りが増えたそうです。

欠点や失敗を叱ることは容易いことです。わたしも、他人の欠点が目につきやすく、叱ったり注意することが多かったのです。

長所や優れた面を誉めることも容易いことです。

ここでは、教育者の性格が如実に表れる場面です。どれが絶対に正解ということは私は言いません。しかし、失敗を長所に変えて誉めることは至難の業です。

失敗を誉めて、直すのではなく、

失敗を逆手にとって、成功させる

これは、わかっていてもできないものです。

人を生かす教育が、多くの人命救助へとつながったのでしょう。

「よき軍人である前に、よき人間であれ」と語った海軍兵学校時の校長は鈴木貫太郎でした。

鈴木は、

鉄拳制裁禁止
歴史および哲学教育強化
試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

といっ海軍兵学校の教育改革に取り組みました。

鉄拳制裁をしたものは退校させると明言し、「鉄拳によってしか部下を心服させ、指揮しえない士官は、士官たる資格なし」と

「最後の海軍大将」井上成美も鈴木の薫陶を受けています。

圧力に屈せず(良い)信念を貫くという点でもこの三人は共通しているのではないでしょうか。

工藤艦長は他の艦へ移り、駆逐艦「雷」は、昭和19年4月13日潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、全員戦死をしています。

戦後の工藤艦長の生き方に少なからず影響を与えたともいわれます。

鈴木は千葉の実家にひっそりと暮らし、井上成美も世に出ることはしませんでした。

『終戦宰相鈴木貫太郎』『最後の海軍大将井上成美』などと共に、ぜひ教育者に読んでいただきたい一冊です。


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■権門上に奢れども、国を憂うる誠なし 2010年08月15日

権門上に奢れども、国を憂うる誠なし、

財閥富を誇れども、社稷を思う心なし


気持ちはよくわかります。
しかし、私は、武力は使いません。平和主義者です。

今と当時とを比べて何が違うのでしょうか、私が、当時の青年将校であったのならば、同じことを考えはしたかもしれません。

逆に青年将校といわれた人たちが、今現代を生きていれば、武力ではなく、政治でこの国を改革しようとしたのではないでしょうか。

当時はそういう時代でもあったのです。歴史は現代の尺度で考えるのではなく、当時の尺度なのです。

一部の政党・政治家は国を憂うことなく、党利党略を優先し、いまだ汚職や国民が納得できないような所行が数多あります。

真に国家・国民を憂う政治家はいるのでしょうか?

いなければ、私たちひとりひとりが政治家として国家のこと、みんなのことを考えていきましょう。

まずはじめに、人のために何ができるのかを考えて小さなことから実行していきたいものです。

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■NHK 15歳の志願兵なぜわが子が戦争に? 2010年8月15日


「バスに乗り遅れるな」

は日本人の農耕民族的な行動の特徴なのです。

良くも悪くも。

どんなバスであるのか、よく確かめもせず、疑いもせず、乗りたくはなくてもみんなが乗るからと言って、乗ってしまうのです。

KYとよく言われますが、良い意味でのKYが沢山いれば、戦争にはならないのです。

死ぬのは嫌だ、殺すのは嫌だ、戦争は嫌だと、はっきりと言う人が多ければ、多くの人は死なずにすむのです。

私が、戦争を起こす立場であるのならば、女性や子どもや老人や若者を多く死なせるような戦争はしません。

武士である職業軍事のような人だけで戦います。

そして、軍人以外は死ぬなと言います。

私はKYなのでしょう。

戦時中であれば、非国民です。

しかし、家族を愛し、友を愛し、国を憂い、人類や地球の平和を望んでいます。


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■NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」を見て 2010年8月

私は必要な嘘はあると思っています。

実際にそうしています。

嘘が嘘を呼び、嘘で塗り固められていくのです。

自殺を強要する参謀、

玉砕を命令する大本営、

特攻を強制する雰囲気


すべてとは言いませんが、死ぬことを強制する人の方が弱いのだと思います。

強制されて死んでいった人の方が、強いのだと思います。

弱い人間が強い人間を死に追いやったのが戦争なのです。

水木しげる氏の

《真面目な人ほど、上の命令に忠実であり、部下に『死んでこい』と言えるものだ》

という言葉が胸につきささってきました。

自分に正直に生きること(良心に忠実に生きること)が、今の私たちにも求められているのではないでしょうか。
 

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■東寧重砲兵聯隊第一中隊の戦い 2011年08月10日


八月九日
衛兵執務中の司令中林伍長、立哨中の衛兵、ソ連領より満州国に向かう飛行音を聞く。

時計を見ると零時五分。直ちに中隊本部に電話連絡を行う。

同時刻監視哨も「ソ連より越境西進する爆音あり」との報告を大隊本部行っていた。

少し遅れ三岔口付近に小銃の発射音らしきものを動哨中の衛兵が聞き司令に報告。

中林司令もこれを確認し中隊本部に「三岔口付近で小銃らしき発射音を聞くも詳細不明」と報告を行う。

午前零時一〇分頃、各隊長、大隊本部に集合、大野中隊長も伝令一名を伴い大隊本部に急行する。

午前零時二〇分頃、
「非常呼集!戦闘準備、各班長以上、中隊長の下に集合」
と、伝令が兵舎に飛び込んで大声で呼ぶ。上空には低空で飛び去る爆音を聞き続ける。

同じ時刻、牡丹江の第五軍司令部の参謀部から関東軍司令部に対し「敵は綏芬河、虎頭より満領に侵入しつつあり、有力な後続部隊あり」と報告しているし、

某参謀の自宅に鉄道専用電話があり「敵は綏芬河に侵入中、同地区居留民は続々集団自決中」との電話報告が入っている。


第一中隊は中隊長命令により直ちに戦闘配置に就いたが状況は全然判らない。遠くで機関銃の発射音と上空を満領に向け飛び去って行く飛行機の爆音を聞くだけであった。

夜が明け始める頃、何処からともなく飛んで来た迫撃砲の弾が観測所の近くに炸裂するのが合図か、勝鬨陣地の周囲に、朝日山、出丸、栄山に対し、大小の砲弾が炸裂し土煙が上がりだした。

※聯隊主力は別の場所にあった。

★「東寧重砲兵聯隊第一中隊の対蘇戦闘に就いて」(『砲兵情報第二聯隊史』)
 ※転載とあるが、出典を確認できず。

[東寧要塞の戦いに関する本]
★「関東軍勝鬨陣地の勝利」『歴史と人物』昭和52年8月号 特集実録太平洋戦争
★『最後の関東軍 勝どきの旗のもとに』光人社NF文庫
★「野に薫る勇魂」『新・秘めたる戦記 第二巻』光人社
★「東満地下要塞の最期」『証言・私の昭和史 5終戦史』文春文庫

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■ガダルカナルの地図 2012年01月16日

日本軍の場合
海軍軍令部の参謀の証言によりますと、作戦海域がひろがるのに地図らしい地図が無く、ガダルカナルの地図は航空写真によっておおざっぱに作るしか無かったそうです。

アメリカ軍の場合
数十年前のドイツ・イギリス・オーストラリアの簡単な地図しかなく、役に立たないので、オーストラリア人アドバイザーによる手書きの絵地図に加えて、大量の航空写真を元に作成された平面図を用意したようですが、垂直方向の地形情報は不足していたようです。(典拠不明)

日本軍は役に立つ戦場の地図もなく、アメリカ軍の戦力分析も出来ずにガダルカナル島に上陸することになりました。結果、戦力の逐次投入というやってはならない下策となりました。さらに、制空権を奪われ輸送船が次から次へと沈められ重火器・弾薬・食糧が不足して「餓島」と言われる惨状となります。このような作戦で戦わされた人たちのことを思うと悲しい。

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■戦争をどう教えるのか?(豊橋の祇園の花火)2012年7月24日

先日は祇園祭の打ち上げ花火の日でした。
わたしは、ここ2年、見ていません。
母が亡くなる1ヶ月ほど前、「これが見納めか」と言って見上げていたその姿を思い出すと少し哀しくなります。
いつもは、「戦争を思い出す」と言ってほとんど見ることがないのに、その年は、庭でしばらく花火を見ていました。嫌な予感があったものの、まさかその2週間後に倒れるとは思ってもみなかったのです。

前置きが長くなりましたが、母は戦前の生まれ(大正15年)ですので、空襲や艦砲射撃をおぼえていました。直接被害をうけたことはありませんでしたが、近所の人が焼夷弾で焼け死んだことや空母の艦載機グラマンの機銃掃射の話も聞かされました。

「低空でバリ・バリ・バリっとくるだ」
「焼夷弾は、ザーッとくるだ」
「工廠のときは、地響きがして、おそがかった」
「浜松のときは、艦砲射撃で花火のように明るかった」※浜松と豊橋は50キロほど離れています。

あるときの空中戦で一機が撃墜され、そのときパイロット(搭乗員)が落下傘で飛び出したように見えたそうです。敵の飛行機が落ちたということで、村の男の人たちが、鎌などを持って駆けつけていきましたが、パイロットは味方で、落下傘がうまく開かずに亡くなっていたそうです。

豊橋には陸軍と海軍の飛行場があったので、そこから迎撃のために飛び立った飛行機だったのかもしれません。

祇園の花火の音を聞きながら毎年のようにこのような話を聞かされていました。

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■戦争をどう教えるのか?(歩兵第18連隊グアム島玉砕)2012/07/27

私達がリアルなお話しを聞く事ができるのはあと何年でしょうか?

20年くらい前までは、あまり苦労せずにおじいさんやおばあさんにお話を聞く事ができました。

今ではどうでしょうか?

今では子供たちの祖父母の世代が戦争を経験していない人たちが増えてきています。

公立の学校現場で戦争を体験し、記憶している人は、ほとんどいません。私が生徒であった頃は戦争を体験した教師はたくさんいました。中学の校長先生が、歩兵第18連隊の生き残りの方でした。18連隊はグアム島で玉砕しています。大砲に砲弾を逆さまに込めて自決しようとしたというようなお話しを伺ったと記憶しています。

いまの大人はどうやって、戦争の悲惨さをを教えていくのでしょうか?

※『太平洋の奇跡』の主人公、大場栄大尉は歩兵第18連隊所属。グアム島に転進できず、サイパン島に残り、米軍の上陸を迎える。
★歩兵第18連隊

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■戦争をどう教えるのか?(豊川海軍工廠空襲)2012/08/08
 
たぶん毎年のように何処かに同じ事を書いているのだと思います。
忘れていても、ふと思い出すのが8月7日です。
豊川海軍工廠への爆撃で多くの動員学徒(約500名)を含む約2,500名の人が亡くなった日です。 

叔父が第4機銃にいたそうで、ちょうど空襲の日は休みだったらしく、命が助かりました。

小学校の塾の先生は、女子挺身隊として働いており、爆撃の時の腕の傷を見せてくれました。

母がよく「工廠の時は、ドカンドカンと地響きがして恐ろしかった」と言っていました。

当時若かった方も、今では80歳を過ぎるような高齢になってきました。その為、慰霊祭は行われなくなり、平和祈念式典が行われているようです。

勤労学徒は地元出身者ばかりではなく、各地からも来ていました。祈念式典にどれだけの学校からの出席者があるのか知りませんが、関係した学校から少しでも多くの人が参加できるような教育的な配慮が為されるといいですね。公立の学校ではできないことかもしれません。もちろん強制的でなく。

語り継ぎ、忘れない。それが、平和を維持する方法でもあります。

哀しみのあまり、思い出すと気が狂いそうだと、ずっと口を閉ざしてきた方もいらっしゃいます。

かつて戦争を語ることが、罪悪のように言われた時期もあります。

戦争を知らない世代が、戦争を語りついでいくのです。

思想や政治的な思惑を乗り越えていかなければなりません。

きょうは甲子園の開会式でした。
昭和29年8月7日、彼らと同年齢の若者たちの尊い命が爆弾によって奪われてしまったのです

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■九七式中戦車(チハ)の座席 2012年12月17日

日本軍は軍用機の性能を高めるために防弾設備や消火設備を犠牲にしたという話はよく聞きます。

戦車は対戦車戦をあまり意識しなかったという話もあり、ノモンハン事件の反省を生かすことができず戦車の装甲は薄く、搭載砲の対戦車効果も低かったようです。

チハ車とも呼ばれた九七式中戦車は四人乗りで、小隊長や中隊長などの指揮官が乗る場合は4人になるそうです。

『戦車隊よもやま物語』には次のようにあります。

 「チハ車の戦闘室には、車長、操縦手、前方銃手の三人を除いて座席はない」

しばらくして折りたたみイスが持ち込まれたそうです。

筆者は戦車第一聯隊に所属し、小隊長・中隊長としてマレー・シンガポール・ビルマ進攻作戦に参加した方です。

私は戦車の構造には詳しくありませんが、少年の頃ドイツ軍の戦車のプラモデルを作った記憶があるくらいです。

人間がそこに居るという感覚(自分もそこに居たらどのように感じるのかという想像力)はとても必要なことだと思います。

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■本土防空戦 隊員たちの写真集 海軍航空隊篇 2017年08月08日













鹿屋基地・721空

「分隊士、写真を1枚撮って下さい。そして、死んだら、写真を遺族に送ってくれませんか」と依頼された少尉は、軍の極秘であった桜花であったが、ためらわずポケットからカメラを取り出し、シャッターを切った。

昭和20年4月16日、上田兵二一飛曹(乙種飛行予科練習生第17期)は、神雷部隊第八建武隊として、桜花のかわりに爆装零戦で出撃した。

戦後間もなくネガと共に写真は郷里に送られたそうです。

まもなく、8月15日を迎えます。

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「戦艦大和艦歌」の歌詞について 2020年08月25日

「『戦艦大和艦歌』発見秘話」(『歴史と人物』昭和53年2月号)には、戦艦大和艦歌がレコード化された経緯が書かれている。寄稿者の林進氏は、大和に乗組の元海軍軍楽隊員で、艦歌誕生の生き証人である。

大和がトラックに進出した昭和17年、艦歌を作ることになり、募集された歌詞の中から、坂井保郎海軍中尉の詩が選ばれた。軍楽隊員に作曲が命じられたようであるが、これに曲をつけたのが、岩田重一軍楽長である。

昭和18年、旗艦が武蔵に移ると、軍楽隊も移乗したので、以後も乗組員によって歌われていたと想像するが、実際に大和艦歌が演奏された期間は短かったようだ。

経緯は不明だが、この楽譜が東郷神社にあり、のちに戦艦大和の会に渡ったという。ちぎれた五線紙ノートには、「作詞海軍中尉坂井保郎、作曲呉海軍軍楽隊」と書かれていたが、林氏らの記憶に基づく調査により、作曲者は岩田重一軍楽長であることが明らかになった。

そして、「戦艦大和艦歌」は、フィリップスレコードから発売された「海行かば―甦える栄光の海軍軍楽隊―」のなかに「戦艦大和の歌」 として収録されることとなった。

しかし、疑問点がある。「『戦艦大和艦歌』発見秘話」掲載の歌詞と、ウィキペディアなどで見ることができる歌詞(レコード化したときのものかはわからない)との違いである。1番は、ほとんど同じであるが、それでも「すめ国の」(発見秘話)と「日の本の」の違いがある(意味は同じ)。2番は全く異なる歌詞で、発見秘話の3番は省略されているので比較できない。

どういうことなのか?


近代のおはなし・戦争のおはなし

 
 
近代のおはなし・戦争のおはなし1

【三河武士がゆく】