歴史上の人物と子育て

【三河武士がゆく】

 
■織田信長

信長は、父信秀の命で、生まれてまもなく、那古野(現名古屋城内)城主となり、両親と別れて暮らしています。信長は、乳母に育てられるわけですが、乳母の乳首をかみ破るので、何人も乳母が変わったそうです。身分のあるものの子が、母の手を放れて育てられることは、当時としては珍しいことではありませんが、母親は、弟の信行(信勝)をかわいがっていたと思われ、柴田勝家・林通勝などの重臣が弟を盛りたてて、後に、信長に背くことになります。「うつけ」といわれ、奇行が目立った信長の行動は、このような家族や周囲との関係にも起因していると思われます。

15歳の時、信長は、美濃の斎藤道三の娘(濃姫)と結婚しますが、結婚後も、その行状は改まることがなかったみたいです。モラトリアム期間が短い時代ですが、昔の15歳でも、まだまだ落ち着く年齢ではありません。しかし、父信秀は、そんな信長の才能を見抜き、彼に期待していたらしいのですが、信長が18歳の時、42歳の若さでなくなります。信秀の葬儀に際し、仏前に抹香を投げかけたエピソードは有名です。その後、傅役(もりやく)であった平手政秀は、自殺します(信長20歳)。政秀の死は、いっこうに行状を改めない信長に対する諫死であったといわれています(異説有り)。いずれにしろ、政秀の死が、信長に与えた影響は少なくなかったと思います。信長は、菩提を弔うために政秀寺を建立しています。

このあと信長は、一族間の争いにうち勝っていくのですが、ついに、弟との確執は悲劇的な結末を迎えてしまいます。信行は、清洲城で、信長(24歳)によって殺害されます。信行の謀反は、1回目は許されましたが、2回目は、もう見逃す状態ではなかったのでしょう。この3年後に桶狭間の戦いがおきます。

信長には、羽柴秀吉、明智光秀、森欄丸などの登用、常備軍・鉄砲の有効利用、楽市楽座などの経済政策に見られるような、徹底した合理性や能力主義が貫かれています。石山本願寺攻めの責任者である佐久間信盛を追放したり、光秀につらく当たったりするように役に立たなかったり自分の意に添わない者は、譜代の重臣であろうが優秀な家臣であろうが、いとも簡単にクビにしたり精神的に追い込んだりもします。また、たとえ重要な同盟者であっても、家康の長男信康の断罪を強く求めたり、比叡山焼き討ち、一向宗徒、高野聖の大量殺戮を見せつけられますと、目的達成のためなら手段を選ばずに徹底させる残虐性と完璧主義に「情」の入り込む隙間がないようにも感じられます。信長は、強烈な性格と卓越した能力で、「天下布武」を実現していくことになるのですが、その苛烈さが本能寺の変への一因となったことも確かです。最後に彼は、自分の命ばかりか、皮肉なことに、家康同様、嫡男信忠(26歳)をも失うことになります。最後まで、家族との縁が薄かった人といえるでしょう。

信長は、親身になってくれる人を、ひじょうに大切にしたと思われます。彼は、平手政秀のために政秀寺を建立したり、「乳首をかみ破られる」ことのなかった、乳母(小牧・長久手の戦いで討ち死にした池田恒興の母)を後々まで厚遇したといいます。本当の愛情は、能力や権力ではどうすることもできません。信長の極端な行動の裏側には、愛情へのものすごい欲求を感じてしまうのはわたしだけではないでしょう。武将としてではなく、ひとりの人間としてみると、天下人としての華やかさよりも、孤独な寂しさを強く感じてしまいます。享年49才でした。
(*年齢には若干の誤差あり)

 


 
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■戦国ごくう
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