■飯田線の思い出

◆わたしと飯田線
◆ヘルメットと制服
◆汗と油のにおい
◆台風
◆木と油のにおい
◆手動ドア
◆中天
◆船町駅
◆伊那路
◆はじめての飯田線
◆東新町〜本長篠 2004年11月03日
◆父と国鉄のストライキ 2007年7月13日
◆牛久保駅〜伊那松島駅 2007年9月30日

 
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【三河武士がゆく】



 


◆父の遺品一枚の写真

HPに載せる写真を探していたのですが、列車が写っているのはこの一枚だけでした。あとは慰安旅行や作業をしている写真ばかりでした。もっとも、毎日飯田線を見ているわけですから、写真に残すことなど思いもよらなかったと思います。ただ、この写真も飯田線の車両かどうかわかりません。おわかりの方がいらしたら教えてください。駅も船町駅のような感じもするのですが、全く私にはわかりません。写真の状態もこの通りです。スキャナで取り込むときに失敗したのだと思いますが。よくわかりません。また見つけたら掲載します。

 

◆わたしと飯田線

わたしは、とくに鉄道マニアでもなく、最近利用することもほとんどありませんが、父が飯田線に勤めていたので、幼いころからのおもいは、特別です。1度だけ鈍行で辰野まで行ったことがありますが、本当に遠いと感じました。

◆ヘルメットと制服

今も家に残る、ヘルメットと制服は、父の思い出です。

◆汗と油のにおい

初めて見た、父の職場(豊川通信支区?)は、それまでの駅のイメージとは違って、工事屋さんでした。ずらりと並んだ工具?、汗と油のにおいとポイントが印象に残っています。

◆台風

台風がくるたびに飯田線を恨めしく思ったことがあります。とにかく風雨に弱い飯田線。

◆木と油のにおい

飯田線と言えば、木と油のにおい(豊橋のチンチン電車も)がよみがえります。窓も木枠で、ボタンを押すと扇風機が回って・・・。あの頃は、時がゆっくりと流れていたように思えます。

◆手動ドア

飯田線の車両は、ドアが自動で開きませんでした。駅に停車後、他人に言われるまで、ドアの前に立っていた記憶があります。これは、寒冷地仕様のためでしょうか?

◆中天

父が、中部天竜駅のことを「中天(チュウテン)」と言っていました。
中部天竜駅へ遊びに行ったときには、佐久間ダムまで歩くことにしていました。
中部天竜駅から歩いて佐久間ダムへむかう途中で見た駅舎の屋根が、赤だったような気がする?

◆船町駅

わたしは、船町駅の近くに住んでいました。色々なホームページで、船町駅が出てくるので大喜びです。幼いころ、夕方日が暮れるまで、電車や貨物が行き交うのをながめていました。貨物がひっきりなしにくっついたり離れたりしていました。

今は、無人駅になっていますが、昔はそれなりに活気があり、人の息づかいが聞こえてきました。切符を販売する窓口に背が届かなくて、ぶら下がって遊んでいた記憶があります。子どもにとっては切符売り場・改札・階段などの配置が、なにか基地のように感じられました。

一段と高いところにホームがあるため、とても見晴らしがよく、周囲の材木置き場やガスか石油?のタンクがよく見えました(子どもの見える範囲はこの程度)。子どもにとっては、とても風が強く、とても長いホームに感じられました。今は、もう昔(昭和40年代)のことです。

以前は、上流(奥三河)で伐採した木を筏に組んで豊川を下り、船町駅周辺の製材所で加工したり、貨物で各地へ運んだということです。船町駅周辺に製材所が多いのは、このためだと聞きました。製材の火事が多かったのも事実です。

私が幼い頃はまだ、船町や下地(船町の対岸)に貯木場のようなものが残っていました。

※戦災で、豊橋駅が使えなかったときにはこの駅が始発駅だったそうです。

◆伊那路

数年前、飯田の友人宅へ遊びに行った帰りに、はじめて、特急伊那路に乗りました。ちょうどリンゴ狩りのシーズンで、車内は混雑していましたが、とても親しみやすい車掌さんとのふれあいが印象に残っています。「飯田線は鈍行に限る」と思いこんでいたわたしでしたが、「たまには特急もいいかな」に変わりました。それはきっと人との出会いがあったからに違いありません。あれから、飯田線に乗ることはあまりないのですが、今度は、豊橋から乗ってみたいと思います。

◆はじめての飯田線

平成13年夏、はじめて娘を飯田線に乗せました。子どもにとっては飯田線どころかはじめての電車体験でした。三河東郷駅まで自動車で送ってもらって乗る予定でしたが、5分ほどで、電車が来てしまったので、これでは芸がないなと思い、二人で茶臼山駅まで歩きました。途中から「ジュース飲みたい」「疲れた」の繰り返しでしたが、だましだまし、茶臼山へ到着。駅前の自動販売機で待望のジュースを購入してから、駅前で記念撮影。あちらこちらから蝉の声が聞こえます。次の列車が来るまでの数十分間をベンチに座りながらのんびりと過ごしました。

列車到着時刻の数分前に、新城東高校の野球部の生徒か2人やってきました。それから、さらに地元の人らしき2人を加えて、ホームは6人になりました。座れるかな?と嫌な予感が的中。夏休みの日曜ということで、満席でした。これも思い出になると思い、出入り口のところで立っていると、親切なおばさんが「ここにおいで」と娘に席を空けてくれました。《これも良い思い出になる》

豊川駅で降りて、自動車で迎えに来てもらいました。娘はとても楽しかったと喜んでいましたので、電車初体験は一応成功かな?

◆東新町〜本長篠 2004年11月03日

家族と、とうえい温泉に行く途中で、飯田線に乗ってみたくなりました。一番上の子は一回だけ乗ったことがありますが、下の二人は未経験です。わたしも、上の子と乗って以来なので、乗りたい気持ちがだんだん強くなってきました。最寄りの駅は新城か東新町でしたので、東新町から乗ることにしました。

ちょっと話はそれますが、この駅のすぐそばに「みん」というぎょうざ屋さんがあります。豊橋の「中」や「赤のれん」、豊川の「おかだ」とよく似た味です。この系統のぎょうざは、皮が厚くて野菜たっぷりの大型ぎょうざです。「おかだ」は他の店とは具が異なるという内容のコメントが、いただきマップに載っていました。

こうして私たちは、車を降りて急きょ飯田線に乗ることになりました。待合所にはお客さんはいません。駅員さんに運賃をたずねて、初乗りで本長篠まで行けることを確認して、妻に電話。妻には先に車で行ってもらっていたのです。ちょっと味気ない薄っぺらな切符を持って人気のないホームに出ると、すぐに走りまわる子供たち。下の二人は怖さをしりません。黄色いところからで出ては行けないよ(わたしも幼いころよくいわれたものです)と注意しながら待つこと5分ほどで運良く二両編成の列車がホームに入ってきました。本当に久しぶりなので少し緊張しながら、ドアを開けました(やっぱり手で開けるのか)。

子どもが「手で開けるの〜」と言いながら先頭車両に乗り込むと、他のお客さんは5人ほどでした。やっぱり列車からの眺めはひと味違っていましたね。滅多に乗ることがないので余計にそう思ったのかもしれませんが、別の世界から地上を見ているような感がありました。バスとは全く違いますね。発車するときの揺れに少しおどろき、手すりにしがみついて様子をうかがっていた子供たちも茶臼山を過ぎたころから表情がゆるみ、運転席をのぞき込んだり、進行方向を見つめながら楽しそうでした。
 


本長篠駅のホームに列車が入ってきます 先頭車両の入り口に立っています
とうえい温泉です 変電所?
本郷高校 本郷高校の寮

◆父と国鉄のストライキ 2007/07/13

父の遺品を整理してるとき、一冊の手帳を見つけました。その手帳とともに封書がひとつ。なかには国鉄総裁宛の嘆願書のようなものが書かれていました。当時現役であった人もまだJR にいらっしゃるかもしれませんので詳細は差し控えますが、当時の現場の荒んだ有様とその解決を望むというような内容でした。

※今、私の手元にあるということは、提出されることはなかったのだと思います。

当時(1970年代前後?)の社会情勢や流れのようなものがあり、どれが善で悪だということはないのだと思いますが、父は組合が嫌だったようです。組合を辞めたり変わったりしたらしく、勧誘も激しかったのではないかと想像しています。夜、組合の人が家に来て話をしていったような記憶がありますが定かではありません。

父は国鉄を愛し、鉄道を愛していました。安全で正確無比な運行をいつも祈り考えていたと思います。ですから、ストライキは本当に嫌だったと思います。労働者であるよりも鉄道マンであることの方が優先されていたのだと思います。政治よりも仕事がしたかったのだと思います。

「男なら」という歌が好きでした。「仕事してから、言うことを言うのならまだいい。しかし、・・・」戦前の徒弟制度のような職場で育った父のような人間にとって、戦後の経済を優した社会構造の変化は、受け入れられないものではなかったか。

男なら 男なら
愚痴は言うまい 嘆いちゃならぬ
それで済まなきゃ 人形のように
顔で泣かずに 腹で泣け
男なら やってみな

今思えば、私はストライキをやっている父親の姿を誇りに思う子どもではなかったと思います。私自身、父と同じように国鉄マンになりたいと思っていました。しかし、度重なるストライキにより国鉄へのあこがれは徐々に消えていきました。

 
◆牛久保駅〜伊那松島駅 2007年9月30日

 

飯田線で伊那まで行く用事ができたので、本当に久しぶりに長時間飯田線に乗ることができました。ちょっとハードでしたが。

朝、パット目が覚めて、時計を見ると5時。ちょうど6時ころの飯田線に間に合うと思い牛久保駅まで汗だくになりながら急ぎ足(駆け足できません)で、約20分。コンビニに寄ることもできず、ホームで膝をがくがくさせながらペットボトルを買いました。昼食はなんとかなるだろうと思いましたが結局何ともならず、伊那松島までジュース二本でした。

6時10分の天竜峡行きに乗り込みましたが、ジュースと大きめのメモ帳以外なにも無しのひとり旅なので退屈です。電車に酔いやすい私でしたが、酔うまでやってみようとメモ帳を取り出して車窓から見える風景を書き留めはじめました。

その後天竜峡着9時14分、発19時17分、飯田着9時43分、発9時45分、伊那松島には11時27分に着きました。

やっぱりちょっと遠かったな。でもまた乗ってみたい。

豊橋から辰野まで、飯田線から見る風景は大きく変わります。街・平野・川・岩・山・トンネルまたトンネル・盆地・河岸段丘・集落など、その風景にあわせたように乗ってくる人たちもさまざまでおもしろい。

いつになるかわからないが、今回の紀行文を、こどもたちのために残しておこうと思う。

  


 

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