■豊橋市「湊町神明社」の名称と境内社 2011/01/09

船町の御札降りを調べていくなかで、湊町神明社の呼び方について気になりましたので、書いておきます。

慶応三年当時の神明宮の呼称ですが、いろいろあるようです。最初わたしは「神明社」だと思っていたのですが、調べていくと、人によっても又同一人物の著書であっても使い分けとは思えないようなくらい神明宮と神明社の両方が使われています。そもそも、区別するのかどうかはわかりませんが、わたし自身が混乱しましたので、整理しておきます。

「三州吉田領神社仏閣記」元禄六年・1693年(『豊橋市史』第七巻)では、「田町神明宮」とされ、「三州吉田記」寛延三年・1750年(『三河文献集成』近世編・上)では、「神明社 田町」とあります。「三河国吉田名蹤綜録」巻一(『三河国吉田名蹤綜録』、文化三年・1806年頃、著者は船町からみて豊川の対岸である宝飯郡下地村の山本貞晨)では、「神明社」、「田町と船町との堺にありて世人田町の神明と称す」とあり、挿絵には「田町神明社」となっています。吉田宿本町の佐野蓬宇は、「此夕集」で「船町神明宮」とも、「田町神明社」とも書いています。理由はわかりませんが、『豊橋市神社棟札集成』所収の享保二十年・1735年正月の「奉造立志雨宮」と書かれた棟札の裏には「参州渥美郡坂下神明社中」とあります。

江戸時代で慶応年度に最も近い安政五年・1858年の棟札には、「神明宮」(『豊橋市神社棟札集成』)とあります。『豊橋市神社棟札集成』所収のその他の棟札を比べますと、「神明社」よりも「神明宮」と表記された棟札が多いことがわかります。

また、神明宮の神主であった羽田野敬雄が著した「萬歳書留控」でわかりますように、役所へ提出する書類やその他祭礼に関する記事には「神明宮」と多く書かれています。

神明宮は現在では神明社と呼ばれており、神明社の住所は豊橋市湊町になっています。湊町は田町と坂下町が合併(明治十一年・1878年)した町名です。したがって、他の神明社と区別するときは「湊町神明社」と呼ぶのだと思います。おそらく、昔から船町に住んでいる人は、「湊町神明社」と呼ぶことはないと思います。船町・湊町の住人の多くは、親しみをこめて「神明さま」と呼んでいたようです。船町も湊町も神明社の氏子です。私が小学生のころは、境内の弁天様の池でザリガニを釣ったり、隣の湊町公園でソフトボールをして遊んだものです。船町・湊町の住民にとっての「神明」は、湊町神明社をさしています。

江戸時代は、神明社が町の境に位置して住所が定まっていなかったのかもしれません。これからは、船町御札降りに関する文章中、単に「神明宮」と書くときは、現湊町神明社を指し、他の神明宮と区別するときには、「田町神明宮」と表記することとします。

次に、参考までに慶応三年に近い神明宮関係の資料から、御札降りと関係がある祭神・境内社をあげておきます。

 
A.「三河国吉田名蹤綜録」巻一(文化三年・1806年頃)
『三河国吉田名蹤綜録』165頁
「境内に末社多し」として、「雨宮、風宮、富士浅間社、牛頭天王、八幡社、天満天神社、弁財天社」の七社を記載。 

 
B.文政七年(1824年)十一月五日、棟札銘  
『豊橋市神社棟札集成』949頁
「奉造立 秋葉大神宮一宇」 

 
C.天保十四年(1843年)十一月、寺社役所へ提出した寺社取調覚
「萬歳書留控」(『幕末三河国神主記録』181頁〜182頁)
「神明社」「境内末社」として、「内宮、浅間社、雨宮、稲荷社、天神社、大黒社、夷社、弁天社」の八社を記載。 

 
D.明治二年(1869年)十二月、社寺役所へ提出した神社巨細取調帳写
「萬歳書留控」( 『幕末三河国神主記録』473頁〜474頁)
「神明宮」「末社」として、「外宮、浅間社、雨宮、稲荷社、天神宮、大国社、蛭子社、市杵島社、金刀比羅社、伊雑社」の十社を記載。  

 
E.明治三年(1870年)十二月、社寺掛役所へ提出した神明宮委詳取調帳写
「萬歳書留控」 (『幕末三河国神主記録』489頁〜490頁)
祭神は「天照大皇大神」、「神明宮」「境内末社」として、「外宮、浅間社、雨宮、風宮、天神宮、稲荷社、大国社、恵美寿社、八幡社、素盞嗚社、猿田彦社、市杵島社、伊雑社、琴平社」の14社を記載。 

★境内社に秋葉社が見あたりませんが、理由はわかりません。
 
【三河武士がゆく】