豊川(トヨガワ)と豊橋(トヨバシ)
 

■寒狭川について 2003年03月06日
■吉田川(豊川) 2008/11/29
■豊川の名称・・・江戸時代に豊川と呼ばれたか?2011年11月4日
■豊川の名称・・・『海道記』・『吾妻鏡』2011年11月4日
■「とよばし」と「とよはし」2003年03月06日 
■「とよがわ」と「とよかわ」2003年03月06日
■「とよばし」と「とよはし」2003年03月06日
■吉田橋(豊橋) 2008/11/29
■豊橋「とよばし」の親柱 2013年3月
■吉田藩から豊橋藩へ 2009/01/03

【三河武士がゆく】
 

 
■寒狭川について 2003年03月06日 
2011年4月27日改訂
2012年5月23日改訂

先日さるお方から「寒狭川」の呼び名についておたずねがありました。
私も詳しいことがわからなかったので、調べてみました。

国土交通省では寒狭川の名称を「豊川」としており、国土地理院の地形図にも「豊川」と明記されているそうです。今までほとんど意識をせずに過ごしてきました。長篠城より上流を当然のように寒狭川と呼んでおりましたが、このおたずねをうけて、なるほど、そのような疑問がわいてくるのも当然のことだなあと感じました。河川に限らず、地名には制度上、便宜上に付けられた名称と、昔よりその地域で呼ばれていた名称とが存在することがありますが、これがかえって混乱を招くこともあるわけです。

地元(鳳来町以北)の人は「寒狭川」と読んでいると思います。
調査したわけではありませんが、
私の知りうる北設楽郡の人の口から
「豊川」と聞くことはほとんどなかったと思います。
こだわりとかプライドとかではなく、
日常の生活のなかで「寒狭川」なのだと思います。

離れた地域の豊橋でもおそらく「寒狭川」です。
西三河に行くと水系が異なるのでどうかわかりません。

東三河の人は一般的に、長篠城の分岐点までは豊川、
上流を寒狭川と呼んでいると思います(通称)。
「豊川の上流を寒狭川とゆうだぞん」と言うことです。

もう片方の川は、宇連川三輪川)となります。
その他に板敷川・大野川・乗本川・大島川のような呼び方もしているようです。
流れている地域や、支流の名称で呼ばれているものと思われます。
ただ、街道と同じように河川の呼び方も
その土地によって呼び名が変わりますので、
寒狭川も他の呼び名があるかも知れません。

このように、呼び名の違いは地域的なものと、
また、時代的なものも関係しています。

混乱しないように統一名称をもうけるのも全く問題ありませんが、
わたしは、その土地に住む人の呼びかたが、
現地を流れる川の名前としては、ふさわしいと考えます。

豊川は戦国時代に現在の豊橋が「吉田」と呼ばれるようになると、
吉田川」と呼ばれることもあったようです。 

それ以前は、飽海川・穂の川・美和川のように呼ばれていたようです。

このような理由から、
寒狭川は通称として、地元では呼ばれていますが、
混乱をさけるために、「豊川(寒狭川)」と表記するのも間違いではありません。

ただ、現地をご存知でない方に紹介するときには、
「豊川(寒狭川)」とした方が、わかりやすいかも知れませんね。
 
★以下、訂正の必要あり
「豊川」の名称は明治以降と言われておりますが、
正確には調べてみないとわかりません。
これが正しければ、江戸時代以前に、
現在の寒狭川は豊川と呼ばれていないはずです。
 

【ウィキペディア】 による「豊川」の項
名称の変遷 古代には飽海川(あくみがわ)と呼ばれていた。中世では吉田川(よしだがわ)、明治以降に豊川(とよがわ:濁音)と改称され現在に至る。清音の(とよかわ)は、宝飯郡豊川郷から由来し現在の豊川市の読みに継承されている。詳細は豊橋市を参照。
 

★江戸時代に豊川・姉川・大川と呼ばれた記述あり。※吉田川(豊川)参照
 


 
■吉田川(豊川) 2008/11/29
2012/05/23追記

吉田川〔一名豊河姉川とも云り〕
水源は段戸山及び名倉津具等の水黒瀬川作手河と合し瀧河となる、又河合山より出る水は八名郡と設楽の二郡を分ち大野の西を流、長篠にて瀧川と会するものを美和川といふ、宝飫・八名の二郡を隔流て末は宝飫郡前芝にて海に入、古は草下部より亦壱流の大川ありて豊川里の岸を流し故にかく豊河の名あり〔委は三河名蹤綜録豊川の里の條下に出す〕明応六年八月十日洪水に渕瀬かはりて此川絶たり、今も川筋は深田にて田圃の耕業殆くるしむ

※『三河国吉田名蹤綜録』豊橋市史々料叢書、1997年3月
※文化3〜文政4成立と思われる。

★「大川」と呼ばれることあり。『三州吉田船町史稿』

★貞応二年(1223年) 「豊川」の名が見られる。 『海道記』
※その後も多くの資料に豊川の名が見られる。


★「大川吉田川豊川なり)」 (「三河吉田領風俗」文化15年・1818年)2012/05/23



 
■豊川の名称・・・江戸時代に豊川と呼ばれたか?2011年11月4日

豊川の呼び方は、地域と時代にによって様々です。「板敷川」といった形状からみた呼び方もありますが、地域と時代の組み合わせによって呼び方が決まってくるように思います。

豊川の呼び方について《ウィキペディア》では、「豊川 名称の変遷 古代には飽海川(あくみがわ)と呼ばれていた。中世では吉田川(よしだがわ)、明治以降に豊川(とよがわ:濁音)と改称され現在に至る。清音の(とよかわ)は、宝飯郡豊川郷から由来し現在の豊川市の読みに継承されている」としています。他にも、飽海川→吉田川→豊川という変遷をたどったと書かれているサイトがあります。

私もあまり気にも留めませんでしたが、調べてみると江戸時代にも豊川と呼ばれていたことがわかりました。

文化年間に成立した『三河国吉田名蹤綜録』には、「吉田川 一名豊河又姉川とも云り」とあります。

それよりより前の享保十一年(1726年)に成立した新城の太田白雪による「続柳陰」(『新修大田白雪集』)にも「豊川」と書かれています。

幕府の道中奉行が寛政12年(1800年)〜文化3年(1806年)にかけて調査作成した「東海道分間延絵図」には「豊川」「一名吉田川」とあります。2013/03/28

 
■豊川の名称・・・『海道記』・『吾妻鏡』2011年11月4日

『いいのんとよがわ』というサイトに豊川の名称について載っていました。

承和2年(835年) 「飽海(アクミ)河」現在の豊橋市で呼ばれていた名称 太政官符より
貞応2年(1223年) 「豊河」 海道記より  
嘉禎4年(1238年) 「豊河」 吾妻鏡第32巻より  
仁治3年(1242年) 「豊川」 東関紀行より
文亀2年(1502年) 「豊河」 名所方角抄より
天文2年(1533年) 「豊川」 和歌藻塩草より
元禄14年(1701年) 「豊川」 牛窪密談記より
元文6年(1741年) 「豊川」 三河国二葉之松より
寛政9年(1797年) 「豊川」 東海道名所図会より

※「とよがわアれコれ」(『いいのんとよがわ』)上記資料の出典
http://www.pref.aichi.jp/tochimizu/mizu/toyogawa/origin.html

『海道記』は地名のような感じです。 『吾妻鏡』は地名だと思います。

名前の由来も諸説あります。興味がある方は上記サイトで確認してみてください。
 
■「とよがわ」と「とよかわ」2003年03月06日  

豊川(とよがわ)に関しても以前には、さまざまな名称があったと書きましたが、「豊川」の呼び方について、誤解されることがあります。川の「豊川」は「とよがわ」と読むのが正しいのですが、他県の方とお話しをしたときに「とよかわ」と言われ、間違いを指摘したことが何回かあります。以前友人より、豊川の流域に「豊川(とよかわ)市」があり、ややこしいのだと指摘されたことがあります。豊川市の場合は、「とよがわし」と呼び間違えたという話は聞いたことがありません。

現在の豊川(川の)を、「とよかわ」と呼んでいた時期や地域があったかもしれません。機会があれば調べてみます。

 
■「とよばし」と「とよはし」2003年03月06日 (2005年12月26日訂正)

これに似たようなお話しですが、「とよがわ」に架かる「豊橋(とよばし)」の呼び名も少しややこしい話になります。

豊橋(とよばし)の起源は、戦国時代の元亀元(1570)年、吉田城主酒井忠次(家康の武将)によって関屋口から架けられた土橋だと言われておりますが、もっと以前からあったかも知れません。家康の関東移封によって城主となった池田輝政(姫路城を築いた人)によって少し下流にある船町から下地に木橋が架けられ、江戸幕府以後、幕府直轄の橋として管理され、幾たびか架け替えられました。私が幼い頃なれ親しんでいた橋は大正5(1916)年7月に架けられた鉄橋です(アジがあった)。現在の豊橋は昭和61(1986)年4月に架けられたものです。消えそうなくらい危うい記憶なのですが、まだ貯木場の名残があり、多くの材木が浮かんでいたはずです?お盆には、真っ暗な中、精霊流しに行ったものです。

この橋が豊橋(とよばし)と呼ばれるようになったのは、明治12年(1879年)(2013/03/28訂正)に架け替えられた時で、それ以前は「吉田大橋」と呼ばれていました

※正式に「豊橋」となったのが明治12年で、それ以前は、「吉田大橋」「吉田橋」「豊橋」など様々な呼び方があった。2013/03/28

現在の「豊橋(とよばし)」の上流に架かっている国道1号線の「吉田大橋」は昭和34(1959)年10月に新たに架けられたものです。

いっぽう、現在の豊橋(とよはし)市は、飽海(あくみ)→今橋(いまはし)→吉田(よしだ)と呼び名が変わります。大河内松平家7万石の城下町であり東海道の宿場町である「吉田」は、明治2(1969)年に「豊橋」と改められました。三河吉田藩、伊予吉田藩(伊達家、3万石)、安芸広島新田藩(吉田藩?)(浅野家、3万石)は、居城や陣屋を「吉田」という地名においており、混同を避けるために藩名の改称が求められたのかもしれません。しかし、明治新政府に嫌われていた三河吉田藩だけが改称を強制されたという見方があります。こうして、吉田藩は「豊橋藩」となります。

吉田城(旧今橋城)の周辺には、「飽海」町、鬼祭りで有名な「安久美」神戸神明社、吉田城の所在地「今橋」町、祇園祭で有名な吉田神社(旧吉田天王社)など、往時の名称を残しています。

橋の名は「とよばし」、地名は「とよはし」というお話しでした。


 
■吉田橋(豊橋) 2008/11/29

吉田橋〔一名豊橋といへり、豊川の流にかゝりし橋なるにより名とすとぞ〕酒井左衛門尉忠次、元亀元年庚午関屋往還の舟渡を止て土橋を架る、是を権輿とす、天正十九年池田三左衛門尉輝政補関屋之橋移今地為板橋葱台丸高欄をかざる、しかしより以来懸替三度〔帰家の日記には懸替の時はふる橋を渡りしとみゆ〕修復二度元禄二巳年小笠原壱岐守長教代に新に造建に及て葱台を止て平高欄と作なす、其後寛政五年に至て懸替三度修復八度(後略)

※『三河国吉田名蹤綜録』豊橋市史々料叢書、1997年3月
 文化3年(1806)ごろ成立
 
■豊橋「とよばし」の親柱 2013年3月24日

現在の親柱には、船町側に「とよはし」「昭和六十一年三月改装」、下地側に「とよがわ」「豊橋」とあります。

明治12年に現在位置へ掛け替えられた豊橋の親柱(花崗岩)の銘は、「豊橋」(船町側)、「とよはし」(下地側)とあります。これは愛知県大書記官であった国貞廉平の筆によります。



親柱は大正5年に掛け替えられた鉄橋にも引き続き使われました。船町側から堤防上の道路を下流に少し歩くと、「トヨバシ遊園」があり、ここに保存されています。

                       

 キャメルバックプラットトラス式三径間鉄橋


私が幼い頃には残っていた川岸の石垣や蔵の跡のような昔の風情は旧豊橋とともに消えました。昔の趣は船町の対岸の東海道沿いに一部残っていたように思います。(今はもう無いかもしれません)

時代は新しいかもしれませんが。



読み方は「バシ」と濁っても、橋の正式な表記は「ハシ」のようです。

全国で62番目の市になって間もない明治40年発行の豊橋市街全図にも、豊川の「豊橋」のところに「トヨハシ」と記されています。

 
明治2年 架橋 ※遷都行幸の為
明治12年5月1日 現在位置へ掛替 
大正5年7月13日 旧豊橋(鉄橋)開通 ※2三径間トラス橋
昭和55年 新豊橋の工事開始
昭和58年4月5日 下流側開通
昭和59年11月 旧豊橋撤去
昭和61年4月14日 新豊橋全面開通

参考資料『三州吉田船町史稿』
2013年3月24日

なお、吉田宿の簡単なガイドとして、手頃な価格でおすすめは二つあります。

・ふるさと再発見ガイドブック 
知るほど豊橋(その七)東海道の東と西を繋ぐ「とよはし」
定価300円 平成23年3月31日発行

・吉田宿のおもかげ展 写真と絵葉書から 
定価200円 二川宿本陣資料館
2003年発行
A1判サイズ1枚(折りたたみサイズA5)

おそらくですが、豊橋市役所内じょうほうひろば、豊橋市美術博物館、二川宿本陣資料館で入手できると思います。在庫はお電話でご確認頂くとよろしいと思います。

 
 
■吉田藩から豊橋藩へ 2009/01/03
2009/02/18更新

吉田藩は、明治2年5月20日、弁事伝達所より呼び出され、以下のような命令を受けます。


「是迄 吉田城与申来候処、此度転名被仰出候間、旧名地名取調、二三名早々可申出旨御沙汰ニ相成候」(『吉田藩日記』362頁)


これに対し吉田藩は、5月23日、「豊橋」「関屋」の名を調べて、弁事役所へ差し出して指図を仰いでいます。(『吉田藩日記』364頁)

さらに、5月28日、「豊橋」「今橋」「関屋」三つの名を調べて、弁事役所へ差し出しています。(『吉田藩日記』368頁)

「今橋」が付け加えられた経緯についてはわかりません。

そして、6月19日に豊橋藩と替えるように命じられました。


「是迄吉田藩与申来候処、今日ヨリ豊橋藩与藩名替被仰出候事」(『吉田藩日記』394頁)


版籍奉還が認められた藩主大河内信古は、同日、吉田藩知事ではなく、豊橋藩知事を仰せ付けられています。

同日の藩日記から「豊橋」の名称が用いられています。

これをうけて、6月22日、豊橋藩は、民部官駅逓司、公議所へ藩名・駅名の変更を届け出ています。また、諸門に差し出してある鑑札の引き替えが間に合わないので、これまでの鑑札を使用することを軍務官へ届け出ています。

藩名の変更は、政府機関内部で事前に通達されるのではなく、変更を命じられた藩から、関係役所へ届け出ることによって知ることになっていたのでしょうか。それとも、事前に通達されていて、形式的に届け出ていたのでしょうか。

藩名変更を命じられたのは、伊予吉田藩(伊達家)との混同を避けるためだったと思います。しかし、三河吉田藩の方が名称を変えるように命じられたのかについては、よくわかっていません。諸説あるようですが、確たる証拠は見つかっていないようです。

恭順の意思表明が遅かったためという説もありますが、慶応四年二月に東海道先鋒総督府と大総督府が吉田に入りますが、それ以前の段階で、朝廷・新政府への工作がおこなわれ、新政府軍として四日市・桑名周辺へ出しており、少なくとも敵対の意志がないことは新政府には伝わっていました。

大政奉還から戊辰戦争終了までの政治的な行動に理由を求めるのであれば、以下のように他の理由がいくつかあげられ、これらが積み重なっていくのだと思います。

藩主松平信古が間部詮勝の実子であった。
大坂城代であった時期の行動。
朝廷の上京命令に従っていない。慶応四年三月上京。
大政奉還後の行動。
王政復古後の行動。
鳥羽・伏見の戦いの時の行動。
藩士が彰義隊へ参加。
藩士が箱館戦争などへ旧幕府軍として参加。

現在では豊橋市となっていますが、「今橋市」や「関屋市」と呼ばれていたかもしれませんね。

 

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【三河武士がゆく】