吉田城 |
■三州吉田城の天守 2010年2月14日 子供の頃、城跡の動物園(二川へ移転)へ行ったり、児童館のようなところで卓球をしたり、堀で滑って遊んだりして慣れ親しんだ吉田城であったので、愛着を感じていながらも、「すごい」というイメージは持っていませんでした。あの姫路城を築いた池田輝政(照政)がもう少しいれば、天守が完成して立派な城になったのにと感じている人も多いと思います。私もそう思っていました。 中学の頃歴史クラブに入り、やはり城跡にあった歩兵第十八聯隊(当時の中学校長は生存者)史に興味を持ちましたが、吉田城には、強く惹かれることはありませんでした。古い積み方の石垣があるとか、名古屋城に使われる予定だった石垣があるということで、刻印というものを見に行った記憶があります。 吉田城の刻印については、『三州吉田城の石垣と刻印』に詳しく書かれています。 あれから、大分年月が経っていますが、最近になり、吉田城に対する見方が変わりました。 少し前になりますが、豊橋市美術博物館編集の『吉田城シンポジウム報告 検証・吉田城』(平成十八年・2006年)を読んでからです。これは、平成十七年十月におこなわれた「吉田城築城五〇〇年記念 吉田城シンポジウム」 をもとに構成されています。 三浦正幸氏は、「今、よみがえる吉田城 ―その建物復元に向けて―」で、吉田城は未完成の城ではなく、完成した城であり、天守がなかったのではなく、「天守と呼んでいなかった」としています。天守と呼ぶか否かは、それぞれの事情によって異なるようです。そして、東海地方で吉田城を越える城は駿府城と名古屋城だと。 この感動をホームページに書きたいと思っているうちに数年が経ちました。 いったい、吉田城には天守がないという見方はいつの時代からあったのでしょうか? 吉田城には確かに「天守」という呼び方の建物はありません。現在、本丸の鉄(くろがね)櫓跡に復興櫓が建っていますが、この三重の鉄櫓が最も大きく、その他三重櫓がたくさんあります。よく明治古写真として採りあげられる、豊川対岸から撮影した写真にあるどっしりとした櫓は、鉄櫓ではなく、鉄櫓の下の豊川に面した川手櫓です。三浦氏は復元図をもとに川手櫓の構造を説明しています。 この川手櫓の規模は、丸亀城天守と同じだそうです。鉄櫓は川手櫓よりもはるかに大きかったので、吉田城鉄櫓は天守としての規模はじゅうぶんあったことがわかります。 半谷健司氏は 『逐城解説 詳説・吉田城と池田照政』で、櫓・城門・惣構えなどを検証に基づいて考察しています。 吉田城の特徴は、以下の点にあるそうです。 @天守を設けない。 A本丸を中心に三重櫓を多配。 そして、 1590年代に完成した全国でも最初期の平城 当時の最新築城技術を駆使 実戦向け城郭 と位置づけています。 下に参考にした書籍を書きました。 この三冊をお読みになってから、もう一度吉田城を訪れてみませんか。 【参考】 高橋延年・柳史朗共著 『三州吉田城の石垣と刻印』 昭和47年(1972年)6月15日 豊橋市美術博物館編集 『吉田城シンポジウム報告 検証・吉田城』 豊橋市教育委員会 平成18年(2006年)3月31日 半谷健司 『逐城解説 詳説・吉田城と池田照政〜遂に判明!吉田城本丸天守(代用)鉄三重櫓の外観全貌とその最期〜』 オフィス・ハニー 平成21年(2009年)8月1日 |
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