◆報道のあり方◆
 

■余計な報道 2001/01/16
■マスコミよ!もうよいではないか!
■マスコミは人権を守れるか?
■何を考えているのかわからない 2001/06/18
■こんな暴力もある  2002年11月14日
■マスメディア評価の必要性 2002年11月15日
■「真実」という言葉の重さ 2002年12月27日 
■国家権力とマスコミと大衆組織(2003/08/11)
■マスコミと集団連鎖的ないじめ 2006年01月27日
■誰が個人情報を提供するのだろうか? 2

 

【三河武士がゆく】
 
■余計な報道

成人式で騒動をおこした若者たちの姿が、テレビ放映され、新聞でもさかんに取り上げていました。荒れた学校を知っている人であれば、多少の経験はあるでしょうが、似たようなことは、運動会や卒業式などの行事でよく見られる光景です。「何も、今更ながらに、大げさな報道をすることか」と、少し心配しながらニュースを見ていました。中途半端で余計な情報は悪い事態を拡大させる危険性があります。わたしが何を言っても、「どのように判断するのかは見る人次第です」と言われるでしょう。

校内暴力・学校の破壊・卒業式騒動・いじめ・自殺・少年の凶悪犯罪などのひろがりも同じようだとだと思います。騒動が起こる要素は他になります。しかし、情報がなければ、または乏しければ、騒動は最小限におさえることが可能です。

隣の学校がやったっとか別の学校に通っている友達がやったとかいった情報が教師に入ってくる頃にはもうすでに子どもたちは「よし、俺も」と虎視眈々と機会をねらっているのです。若いときは、刺激があるとすぐにやりたがるのは、私たちもそうだったからよくわかります。しかし、たとえば、北海道で起こったことが沖縄まで伝わるには相当の時間がかかるでしょうし、伝わった頃には他の地域の熱は冷めているようであれば最小限でおさまると思います。

報道によって同様な事件が連鎖的に起こることは確かだと思います。しかし、報道することで注意と対策を呼びかけて、騒動や犯罪を防止する意図もあると思います。確かに、報道によって人の命が救われることもたくさんあると思います。ですから、質の問題だと思うのです。

報道によって知識を得た人が、それを引き金として同じような事件をおこさないような内容の報道をしていただきたいのです。

もちろん、報道だけが悪いのではありません。ただ、世論を形作るのに大きな役割をもっている報道のあり方は決して軽いものではないということです。何をどこまで報道するのかを、もっと真剣に考えてほしいものです。?ここに報道の真価が問われるのです。

 ◆報道のあり方◆

 
■マスコミよ!もうよいではないか!
(平成13年6月8日におきた大阪の小学生8人殺害事件の報道のあり方を見て)

★心ないことをしているマスコミ関係者へ告ぐ

巨大マスコミよ!もういいだろう。そこまでするなよ。殺されたり殺害現場いたのが、たとえわが子であったとしてもマイクを向けるのか!なぜ、事件直後の大きな衝撃を受けている子どもたちに取材をするのか!商業新聞とはいえ、気持ちを思いやることはできないのか。思いやっても行動に移すことができないのか。心が無くても立派なジャーナリストか?私はそうは思わない。もうそこまでしなくてもいいだろう。もうじゅうぶんではないか。なぜ、そっとしておけないのか!

★心あるマスコミ関係者へ告ぐ

あなた達は、「心的外傷後ストレス障害」を熱心に取りあげることがあるが、心に傷を負ったばかりの子どもに対して、今後あのようなことをすることを止めさせていただきたい。表面上は動揺していなくても、心にはしっかり傷がついていることもある。その判断はあなた達にはできないはずだ。このようなときは、そっとしておいてあげるのが人としての情けというものだ。心ある人たちには、わかっているはずだ。
(2001年6月8日)

◆報道のあり方◆
 
■マスコミは人権を守れるか?

以前から感じていましたが、マスコミが商業性を帯びている限り、利益を追求する限りは、すべてにおいて完全で、純粋な報道はあり得ないと思います。当たり前といえば当たり前のことですが、今回の大阪の事件を見ても強く感じました。法務省にはぜひとも頑張って欲しいと思います。公平無私な報道が実現されない限りは「報道被害における(マスコミの)自主的努力での解決」などのぞめないことが、今回の報道のあり方でも明かです。「松本サリン事件」で良識ある報道をおこなったといわれる新聞社があったそうです。しかし、他社は一部の情報だけで、他社に先を越されるなという営利欲・名誉欲が手伝って何がなされたかは我々のよく知るところです。あれから何年たったのでしょうか。何が解決されたのでしょうか。我々民衆は、報道による情報をいかに正確に判断するのかという能力を要求されています。

別に、マスコミ不要といっているのではありませんよ。良識あるジャーナリストによって健全な報道がなされることをのぞんでいるのです。そのためには、マスコミもまさに構造改革がなされるべきなのに、当然のように報道関係者からその声が大きくなることはありません。ならば、政府機関が権力を行使するか、民衆が不買運動をおこすかしなければ、政治以上に変わるものではありません。政治であれば選挙があります。テレビはいいとしても新聞などは特定の新聞以外に購読できない地域もあるわけです。もっと多くの報道機関ができて、自由競争がさかんにおこなわれても、また余計な競争が生まれて、まともな報道が阻害されることになるでしょう。内側からの改革が困難であるだけに、体質をかえるのは至難の業と言えます。

◆報道のあり方◆
 

■人権救済制度の在り方についての答申(法務省)
 
■何を考えているのかわからない 2001/06/18

事件直後に子どもたちにマイクやカメラを向けながら、「こころのケア」「心の傷を癒す」と言う人たちよ。私はあなた達の気持ちがわからない。

「子どもたちの心の傷が想像以上に深いため、警察では詳しい事情聴取ができない」と言う人たちよ。警察でもできないことを見事に成し遂げたのはあなた達だ。

私はテレビニュースで、現場に居合わせた子どもが、同級生が殺されていく様を詳しくマイクに向かって話していたのを見て、事件とは別の激しい憤りをおぼえた。

この国は、そういったことに対して激しい反発はおこらないのだろうか?
「知る権利」「報道の自由」は、かくして守られていくのか。

己の姿を鏡に映して見てご覧なさい。
心がマヒしているのだ。はやく、正常な感情をお持ちなさい。
集団のいじめに直面したときに感じる感覚のマヒに酷似している。

◆報道のあり方◆
 
■こんな暴力もある  2002年11月14日(木)

ほんとうに余計なことをするマスコミの姿が目立つ。北朝鮮による拉致問題に限らず、報道の影響の重大さをじゅうぶん承知しながら、何の責任もとれない人たちが『自由』の名の下に英雄気取りの言動を為す。『権利』という名の権力を傍若無人に振り回す人たちがいる。マスコミは大きな力を持っているのだ。これを暴力と言わずして何が暴力なのか。 少なくともそんなものは自由でも権利でもあり得ない。そして、少しでもその権力を規制しようとするとギャーギャー騒ぐのだ。 まともなマスコミ関係者もいると思うが、よーく自分たちの持っている力の使い方を考えて欲しいものだ。

◆報道のあり方◆
 

 
■マスメディア評価の必要性 2002年11月15日

今回の拉致事件に関わる報道について、週刊金曜日は、国家権力に反抗することによって存在価値を示すことしかできないようなマスコミだと見受けられる。テレビでも著名なジャーナリストたちが、人権擁護と報道の自由は報道の永遠のジレンマだというようなわけのわからない発言をしていたが、この場合は答えは決まっているのだ。はっきりと評価しなければならない。誰のために取材をしたのかということだ。これで取材側の意図は、はっきりしているのだ。週刊誌の代表者は、取材内容を本人が判断したらいいという内容の発言をしていた。 なんたる無責任さ!

マスメディアは公共性を持っている。その組織が大きくなればなるほど、責任も重くなる。メディアの役割は、真実を伝えることと弱い者を守ることにあると思う。しかし、弱い者を踏みつけても真実を伝えようとすることがある。なかには真実ではないものを大衆に垂れ流すこともある。我々は情報が正しいかどうかを判断するだけのじゅうぶんな材料を持ち合わせることは少ない。

情報を流す時にその情報が正しいかどうかを確認することが必要なのだが、それをせずに垂れ流すことがある。わたしも実際確認したことがあり、非難したこともあるが。他社に先を越されることが、事実であるかどうかを確認するよりも重要なときがあるらしい。メディアが世論を作り出していくのに重要な役割を担っているのだから、これはほんとうに恐ろしいことだ。これでは民間による「大本営発表」ではないか。

学校教育の情報もこの手法でねじ曲げられたことがある。正確な情報だけなら問題はないが、教育に関わる間違った情報が少しずつ我々のなかに蓄積していくことが、次世代がもつ教育観に大きな影響を与えるということを忘れてはならない。

国家には、大手メディア業界を評価するシステムを作ってもらいたい。最低でも、事実誤認、事実確認をしないいい加減な報道、思いこみ報道、人権侵害報道などを点数化して国民が情報を得るときのわかりやすい判断材料を示すべきだ。そして、良識あるジャーナリストが生き残らなければならない。そうしなければ国民はいつまでたっても「大本営発表」から抜け出すことはできない。我々国民はより正確で良質な情報を得る権利がある。それは安っぽい知る権利よりもはるかに重い。その権利を国家は保障しなければならない。

◆報道のあり方◆
 
■「真実」という言葉の重さ  2002年12月27日

《ジャーナリスト》と言われる人たちは、よく「事実」を伝えることが仕事であるという。では、「真実」とは、何であるのか?「事実」との違いはあるのだろうか?

約10人ほどから取材をして、断定的な記事を書いた新聞記者に、
その根拠をお聞きして、根拠の薄弱なことを責めたところ、次のような言葉が返ってきた。
(※話のやりとりを一字一句間違えずに表現したものではありません)

記者「とても100人に聞くわけにはいかないでしょう!」

私「100人に聞いて欲しいと私が言いましたか?問題をすりかえてはいけません」

最後に、

私「この断定的な書き方は何とかならないのですか」
記者「別の表現を使っても、断定的な書き方になるでしょう」
私「しかし、根拠が弱すぎる」
記者「後は読者の方が判断されることでしょう」
私「それを無責任というのです」
記者「じゃあ、どのように書けばいいのですか?」
私「それは自分で考えることです。それがプロというものです」

問題になった記事の内容は今あかさない。
その理由は、きっちりとした裏をとってないからだ。(もちろんこちらが)
翌日、他社が同様の記事を載せたという話を聞いた。
結果として、この新聞社が一番だったわけだ。

購読者からお金をいただいて、ものを書く職業なのだからもう少し何とかならないものか。
新聞の重要性は強く認識しているからこそ、ハッパをかけているのだよ。

★私がお話しをした記者は善良な記者だと感じた。この記者を個人的に責めるのが目的ではない。私が質問した記者のなかには、横柄な態度の記者もいる。明らかに最初から逃げにかかる記者もいる。記者のなかには、他人に取材しておきながら、いざ自分が取材されるのは苦手な人もいるのだ。自分がされて嫌なことを他人にしないというのは人間としての生き方の基本であり他人に対する優しさなのだ。もちろん、本当に重要なことは嫌なことでも聞かざるを得ないことはある。しかし、どうでもいいようなさほど重要なことをほじくり回して、それが実態であるかのような書き方だけはやめてもらいたい。真摯な態度で市民の声に耳を貸すことができない記者もいるなかで、このような聞く耳を持っている良心的な人には、まともなジャーナリストになってほしいと強く感じた。

◆報道のあり方◆
 
国家権力とマスコミと大衆組織(2003/08/11)

昨日朝日テレビの「サンデープロジェクト」を見ました。森前首相が鹿児島でおこなわれた女性向けの少子化問題に対して「子供を産まない女性は・・・」と発言したあの問題につい司会者が突っつきました。その時、森前首相はテーブルの下から紙袋も持ち上げて中に入っていた大量の葉書をテーブルの上に置きました。教師からの抗議文だそうです。それも同じ文面のものです。すべてがそうなのかはわかりませんし確認したのではないのですが、明らかに組織的なものであることは誰でもわかりますね。コメンテーターのひとりが言論を抑圧するやり方だと批判していました。

森前首相の発言の全部を知らないので、私には断定的なことは言えないのですが、もし、前後の流れを考慮せずにこの一部の発言だけを取り上げて、マスコミが動き、組織が動いて政治的な圧力をかけることによって、個人(といっても発言に重みのある人ですから庶民とは違います)または、所属する組織(この場合自民党)を攻撃して、世論を形成しようとしたのであれば恐ろしいことです。このような手法が今までもおこなわれていたとすれば、われわれ民衆は踊らされていたということになります。

正確な情報に基づいて報道がおこなわれ、民衆が判断する材料が与えられていれば、大衆が異常な行動をする確率は低くなりますね。 誰がどんな思想を持とうとそれは自由なことです。しかし、取材の特権が与えられたマスコミには正確な情報を伝える義務と責任があります。森前首相はしきりに、前後の流れから考えれば私がそのような発言をすることはないと否定していました。森前首相によれば、発言から1週間も経ってテレビ朝日の「ニュースステーション」で取り上げられた経緯は、民社党の女性議員たちによるテレビ局への要請だとうことでした。民社党と「教師」の組織はどこかでつながっているのでしょうか。いずれにしても真実はいずこにあるのでしょうか。

そうです。もう一つ突っつかなくてはいけないのは、葉書を送った教師たちのことです。「あなたは葉書を全部見たのですか!」というつっこみを予想しながら書きます。個々の教師が何を考えようと自由です。言論の自由・思想の自由です。森発言の内容をしっかりと理解したうえで、「けしからん」ということで、個人の意見を書いて抗議するのであれば何の問題もありませんね。そうです。「やり方が気に入らない」のです。私なら絶対にそのようなことはしません。仮にも教師であるなら自分の頭で考えて作文してほしいですね。これが事実だとしたら、自分の子供は絶対にこのような人たちにはおしえてもらいたくありません。人それぞれ意見があるでしょうが、これは、人間としての生き方の問題です。卑劣な行為だと私は断じて言います。そうではないという人も当然いていいのです。

国家権力を背景として弱者である個人が不当につぶされようとしたら、その時はマスコミや民衆の組織が抵抗するべきです。しかし、マスコミや一部の大衆組織が自分たちの思想を具現化するためにマスメディアや組織を利用して個人に圧力をかけるとすれば、それは国家権力による不当な権力の行使と何らかわりがないということに早く気が付いてもらいたいものです。

私が恐ろしいと感じるのは、国家権力とマスコミと大衆組織が同じ方向にむかって、民衆を踊らせたとき、普通では考えられないようなエネルギーが生じて、目的にむかって一気になだれ込んでいった歴史があったということです。こうなると誰も止められません。良い方向であれば何の問題もありません。行きつく果てが天国ならよいのです。しかし、地獄だったら、誰が責めを負うのでしょうか?だれも責任のとりようがありませんね。最後に泣くのは個人なのです。

◆報道のあり方◆
 
■マスコミと集団連鎖的ないじめ 2006年01月27日

憲法のところでも少し書いたと思うが、どうにも受け入れられないことがある。
ライブドアの不正問題が取りざたされ、マスコミは総攻撃を仕掛けているように見える。

イケイケの上り調子の時のマスコミの取り扱いはどうだっただろうか?
ニッポン放送・フジテレビの問題が出る前はどうだっただろうか?
堀江氏が選挙に出馬した時の取り扱いはどうだったのか?
美人といわれる広報の取りあげ方はどうだったのか?
(新役員の会見でも一部マスコミ(数社)のカメラがが追追っていた)

辞めた社員のインタビューもどうなのだろうか?
辞める前とか、家宅捜索が入る前のものならそれはそれで良いとおもう。
勇気ある発言だ。

良心的なジャーナリストは存在すると思う。
落ち目になったり、敗色が濃くなった時に我も我もと、追い打ちをかけるようなやり方は好かない。

これはライブドア関連の報道に対する私の意見であり、その他の事柄すべてに対するものではないが、悪いことをしたから、悪だから徹底的に攻撃してかまわないというのだろうか?

集団連鎖的ないじめと本質は同じなのだ。

相手の大小や、善悪にかかわらず、強弱で対応を変える人間のサガ
弱いとなったら、徹底的にいく。
しかも、今までの自分の姿を反省しない。

これは教育によくない。

マスコミ関係者には子供の親もたくさんいるはずだ。
こういいうことは、わかっているのだろうか?

◆報道のあり方◆
 
■誰が個人情報を提供するのだろうか? 2008年5月5日

被害者の映像や作文・成績・出欠状況・家族構成・友人関係などの個人情報が流されることがあります。あの個人情報はいったい誰がマスコミに提供しているのでしょうか?謝礼をもらっているのでしょうか?遺族がぜひ流してほしいと言って提供するのであっても、被害者はどう思っているのでしょうか?

たとえば、卒業証書授与式の壇上からの撮影は学校関係者か業者によるものと思われ、映像記録は学校が卒業生に提供するか業者が販売するのだと思われます。したがって、映像資料の保持者は学校関係者か卒業生(業者撮影の場合は業者)と推測できます。

どんな思いで被害者や遺族は見ているのでしょうか?喜んでいるのであれば問題はありません。

映画「相棒」を見ました。内容を書くのはまずいと思いますので書きませんが、被害者・加害者ともに個人情報の取り扱いには慎重であるべきだと思います。報道する方は忘れてしまっても、「される方」の傷は深く残っているものです。犯罪被害でもいじめでもけんかであっても、された方がどのように思い感じるのかを想像する力を養う必要が私たちにはあります。

◆報道のあり方◆



 

【三河武士がゆく】