「昭和のこころ」ノスタルジー世界のブログ

古い奴だとお思いでしょうが

【穂国東三河】
 
 


■牛久保の伊東家(2)訂正 2013年11月21日

■牛久保の伊東家(2) 2013年10月30日

■豊橋市の停車場通り 2013年10月3日

■東栄町の円空仏 2013年10月2日

■図書館資料展「失われた街・豊橋」 2013年9月15日

■東栄町グリーンハウスの有効利用について 2013年4月8日

■豊橋(トヨバシ)の親柱と読み方 2013年3月27日

■牛久保の伊東家? 2012年12月26日

■安久美神戸神明社(豊橋市) 2012年12月4日

■「シベリア抑留 悲痛な叫び−生きて返りたい−」をみてきました。2011年08月09日

■『新編豊川市史 通史編』について 2011年07月30日

■自然の恩恵を受ける産業の育成と保護・・・対価を払おう2010年07月11日

■豊橋空襲を忘れない・・・家を焼かれたケジメは 2010年06月21日

■パトネットあいち情報について 2010年06月20日

■吉田宿と豊橋駅の壺屋 2010年03月10日

■山を甘く見た(愛知県奥三河明神山) 2010年02月28日

■三州吉田城の天守? 2010年02月14日

■奥三河の方言「もうかんじい」、おばけは「もう」と鳴く?  2010年02月11日

■豊橋市図書館と『中島三郎助文書』 2010年02月08日

■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010年01月19日

■「ジロチョー 清水の次郎長維新伝」を見て 2010年01月13日

■日本史の常識に疑問? 地方史編纂にみる残念な点2009年12月20日

■「豊橋1980年代の青春」(2) 2009年11月19日

■「1970ぼくたちの青春」と「豊橋1980年代の青春」

■田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009年10月31日

■三河に興りし牧野一族 2009年10月31日

■東三河大学・穂国大学構想はないのか? 2009年09月23日

■愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果

■愛知大学よ、どこへゆく?三好移転は何だったのか! 2009年06月27日

■慶応三年、三河国吉田宿船町の御札降り 2009年06月26日

■愛知県内市町村人口、豊橋市第4位に転落 2009年04月22日

■春高バレー。あっぱれ!豊橋中央高校バレー部(2)2009年03月30日

■春高バレー。あっぱれ!豊橋中央高校バレー部(1)2009年03月25日

 
 

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■牛久保の伊東家(2)訂正 2013年11月21日

11月14日に、「240年前のお墓には伊東氏のみです」というコメントを頂きましたので、「牛久保の伊東家(2)」を訂正させて頂きます。

牛久保の伊東家について、わかっている情報を単純に並べてみました。整理のために西暦に直しました。

・1560年以後(永禄三年以後)  桶狭間の戦い以後、「伊東吉弥」が牛久保に移住
・1565年(永禄八年)から1569年(永禄十二年)養樹寺の近くに「伊東孫太郎」
・1588年(天正十六年)養樹寺創建にあたり大黒屋が敷地を寄進(「牛久保古城図」)
・1590年(天正十八年)家康の関東移封にともない、牛久保城主牧野康成大胡へ移る。
・江戸初期 大黒屋「伊東吉右衛門」が、江戸から牛久保に移住
・1652年〜1654年(承応年間) 伊東家(「古地図」)
・1761年(宝暦十一年)「伊東喜右ヱ門」歿、大黒屋の初代?
・1773年頃(安永2年頃)240年ほど前の「伊東家」墓石が養樹寺にある。

「三代目伊東吉右衛門」の墓標が、養樹寺お庫裡を立て直したときに発見されたということは、以前のお庫裡が建てられる前に「三代目伊東吉右衛門」は亡くなっていたことになります。

「伊東吉弥」と「伊東孫太郎」との間に何らかの関係があれば、例えば、伊東吉弥が全く関係がない牛久保に移住して農業を営むことができたとは考えにくく、同族を頼ったとも考えられます。伊東孫太郎がその同族であった可能性もあります。

「三代目伊東吉右衛門」と「伊東喜右ヱ門」の没年が判れば、初代吉右衛門、三代目吉右衛門、伊東喜右ヱ門の関係が少しわかるかも知れませんね。ところで、「喜右ヱ門」の墓石や過去帳で、名前をはっきりと確認できるのでしょうか?三代目吉右衛門と喜右ヱ門が同一人物である可能性は無いのでしょうか。

また、「元和四年三月廿一日、上州大胡より御引越之節の御人数」のなかに「伊東道右衛門」が見られますが、牛久保の伊東家との関係は明らかなのでしょうか?

 
■牛久保の伊東家(2) 2013年10月30日

牛久保の伊東家について、わかっている情報を単純に並べてみました。整理のために西暦に直しました。

・1560年以後(永禄三年以後)  桶狭間の戦い以後、「伊東吉弥」が牛久保に移住
・1565年(永禄八年)から1569年(永禄十二年)養樹寺の近くに「伊東孫太郎」
・1588年(天正十六年)養樹寺創建にあたり大黒屋が敷地を寄進(「牛久保古城図」)
・1590年(天正十八年)家康の関東移封にともない、牛久保城主牧野康成大胡へ移る。
・江戸初期 大黒屋「伊東吉右衛門」が、江戸から牛久保に移住
・1652年〜1654年(承応年間) 伊東家(「古地図」)
・1761年(宝暦十一年)「伊東喜右ヱ門」歿、大黒屋の初代?
・1773年頃(安永2年頃)240年前 「三代目伊東吉右衛門」歿

「伊東吉弥」と「伊東孫太郎」との間に何らかの関係があれば、例えば、伊東吉弥が全く関係がない牛久保に移住して農業を営むことができたとは考えにくく、同族を頼ったとも考えられます。伊東孫太郎がその同族であった可能性もあります。

1773年頃に三代目伊東吉右衛門が亡くなったのであれば、初代吉右衛門が牛久保に移ってきたのが江戸初期でも計算は合うのでは。大黒屋がどのように受け継がれてきたのかわかりませんが、「吉右衛門」から「喜右ヱ門」に大黒屋が受け継がれたとも考えられるのでしょうか?

また、「元和四年三月廿一日、上州大胡より御引越之節の御人数」のなかに「伊東道右衛門」が見られますが、牛久保の伊東家との関係は明らかなのでしょうか?

 
■豊橋市の停車場通り 2013年10月3日

私たちの年代は、まだ「額ビル」と言った方がピンと来るのですが、現在のカリオンビルから三角公園に向かって斜めに延びる道が、「どうして斜めなのか?」と、長いこと思ったことはありませんでした。ただ、三角公園は公園なのか?空き地なのか?誰の土地なのか?と思ったことはあります。

この斜めの道は、停車場通り(常盤通)といって、明治21年の豊橋駅(停車場)開設にともない新設されたものです。この辺りは西の足軽屋敷がありました。停車場から当時の繁華街であった、上伝馬、本町にむかって真っ直ぐに道を作ったわけです。当然、広小路の繁華街はなく、駅前大通、大橋通、259号線も無い時代です。

空襲で焼け野原となり、戦後の復興事業で、本町・萱町方面は松葉公園ができ、常盤通は広小路に直角に交わるように作り替えられた(ときわ通り)のですが、なぜかこの部分だけが斜めのまま残っています。額ビルが焼け残ったことによるのかもしれません。

ときわアーケードや松葉公園の北東の角にあった電話ボックスは、「1970ぼくたちの青春」(杉田成道演出)で出てきましたね。70年の日本で全く違和感がなかった。


 
■東栄町の円空仏 2013年10月2日

とうえい温泉に展示中の円空仏を見てきました。多くのサイトで宣伝していますので、詳細は省きますが、思ったより小さく感じました。もっとも、サイズなどは新聞やサイトに書いてあったのですが。ただ、お顔を見ると、何とも言えない、やさしいというか、おだやかな感じを受けました。いつまでの展示かわかりませんが、お早めに。

リニューアルしてから三度行っていますが、浅い寝湯ができたのはうれしい。今までの深い寝湯でうたた寝をして、浅い方ではごろごろできます。

 
■図書館資料展「失われた街・豊橋」 2013年9月15日

戦前の豊橋市の資料の多くは空襲で失われています。古文書だけでなく、写真はほんとうに少ないと思います。当時の写真は絵葉書で見るくらいです。

私の幼い頃は、大正時代の鉄橋「豊橋」(大正5年)や額ビル(昭和二年、額田銀行ビル、現在のカリオンビル)、豊川岸の蔵などが残っていましたが、現在ではもう見ることができません。

新資料はないと思いますが、大きく引き伸ばして見やすくなっています。

「豊橋まちなかマップ」(昭和十九年の豊橋市街図を元に展示会用に作成したもの)を頂いて帰ってきました。

9月30日まで。

 
■東栄町グリーンハウスの有効利用について 2013年4月8日

愛知県東栄町にあるグリーンハウスは、学校の宿泊訓練(宿泊研修)、オリエンテーションキャンプ、部活動の合宿などで利用されていました。

宿泊訓練やオリキャンでは一学年まるごと、部活動では複数の部活動の利用が可能でした。私の記憶では、陸上、野球、サッカー(またはラグビー)、弓道など同時期におこなっていました。

今はないとおもいますが、早朝ランニングの途中、スケート場が田んぼのようなところにあったのには少し驚きました。夜はとても星がきれいで、夏は涼しく、夜はクーラーが必要ないくらいでした。スイカや飲み物をグラウンド際の小川に沈めておくとよく冷えたことを思い出します。

現在は弓道場があるのか知りませんが、当時はなかった体育館があり、バスケ、バレー、バドミントンなども利用可能だと思います。

しかし、ドームができたことにより、グラウンドの利用が困難になり、ある程度の面積が必要な部活動は撤退していきました。それに伴って、これまで一緒におこなっていた部活動も他の場所を求めるようになったと推測します。

東栄町は東三河南部(渥美半島をのぞく)から1時間〜1時間半ほどで行くことができ、飯田線とバスを利用していくことができる、便利な場所だと思っています。

花祭りフェスティバルをおこなうためであれば、花祭り会館を活用したり会館の周辺にドームを作るのもいいと思います。

今はなき、あの広いグランドは、魅力的だったのです。
利用目的、ニーズに合った施設を整備すると、人が増えてくるのだと思います。

 
■豊橋(トヨバシ)の親柱と読み方 2013年3月27日

東海道吉田宿の入り口に架かるのが豊橋です。以前は、「吉田大橋」「吉田橋」とも呼ばれていました。

現在の親柱には、船町側に「とよはし」「昭和六十一年三月改装」、下地側に「とよがわ」「豊橋」とあります。

明治12年に現在位置へ掛け替えられた豊橋の親柱(花崗岩)の銘は、「豊橋」(船町側)、「とよはし」(下地側)とあります。
これは愛知県大書記官であった国貞廉平の筆によります。

親柱は大正5年に掛け替えられた鉄橋(キャメルバックプラットトラス式三径間鉄橋)にも引き続き使われました。
船町側から堤防上の道路を下流に少し歩くと、「トヨバシ遊園」があり、ここに保存されています。

私が幼い頃には残っていた川岸の石垣や蔵の跡のような昔の風情は旧豊橋とともに消えました。
昔の趣は船町の対岸の東海道沿いに一部残っていたように思います。
今はもう無いかもしれませんが、HPに画像を載せました。
時代は新しいかもしれません。

橋の読み方は「バシ」と濁っても、橋の正式な表記は「ハシ」のようです。
全国で62番目の市になって間もない明治40年発行の豊橋市街全図にも、豊川の「豊橋」のところに「トヨハシ」と記されています。

 
■牛久保の伊東家? 2012年12月26日

先祖が豊川市の牛久保から豊橋に移ってきたという友人(伊東氏、家紋「丸に横木瓜」、菩提寺花井寺)がいます。

牛久保の伊東家は大黒屋(家紋は「庵に木瓜」)が元になっているという話があります。江戸初期に牛久保に移ったのが、江戸で質商をしていた大黒屋「伊東吉右衛門」だそうです。

しかし、宝暦十一年(1761年)歿の「伊東喜右ヱ門」を大黒屋の初代とする話もあるそうです。

さらに、承応年間年(1652年〜1654年)に作成された古城図に伊東家の屋敷が明記されているそうです。この屋敷は牛久保町稲市場の辺りということですので、養樹寺の近辺です。

それより前の、天正十六年(1588年)、養樹寺創建にあたり大黒屋が敷地を寄進した話もあります。

永禄八年(1565年)から永禄十二年(1569年)の時期と思われる牛久保城下古図(牛久保古城図)には、養樹寺の近くに「伊東孫太郎」の名が見られます。これが、承応の古城図にみる伊東家の屋敷であるのかは私にはわかりません。

豊川市蔵子にある某旧家の系譜には、「伊東吉弥」という今川家家臣の名が見られます。永禄三年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで討たれた後、豊川市小田渕の佐竹氏方に寄寓し、その後牛久保村に居住して農業を営んだとあります。

牛久保の伊東家が大黒屋の流れとするのであれば、江戸時代以前の伊東家との関連はどうなるのでしょうか?

・大黒屋初代とされる「伊東喜右ヱ門」
・江戸初期、江戸から移住した「伊東吉右衛門」(大黒屋)
・天正期、養樹寺に屋敷を寄進した伊東家
・永禄期、牛久保城下にあった「伊東孫太郎」
・今川家家臣であった伊東家(農家)。

『山本勘助とその周辺』によれば、伊東家には三流あるという話もあるそうです。

【参考】
伊東宏『山本勘助とその周辺』PBU出版部 平成二十年(2008年)

柴田晴廣『牛久保の若葉祭』下巻二(PDF版分冊)(改訂版)常左府文庫 平成二十四年(2012年) 

 
■安久美神戸神明社(豊橋市) 2012年12月4日

あくみかんべしんめいしゃ

氏子 八町通3丁目・4丁目・5丁目、札木町(東部)、呉服町、曲尺手町、鍛冶町、西新町、中世古町

吉田城内には、東方に神明社(中央森林)・八幡社・秋葉社(東方森林)と西方に天王社(現吉田神社)があった。

跡地に石碑が建つ(豊橋公園内)

八幡社石碑・・・市民プールと武道館側のテニスコートとの間(通路)
神明社石碑・・・旧体育館跡地(現芝生広場)と旧市民プール跡地との間
秋葉社石碑・・・旧体育館跡地(現芝生広場)とその西側の駐車場との間
天王社・・・現在の吉田神社の位置

豊橋公園を訪れる機会があれば一度確認してみてください。
公園内にはいろいろな石碑や旧跡があります。

明治18年(1885年)陸軍用地(歩兵第十八聯隊練兵場)となったために中八町(八町通3丁目)に移転。

後、昭和21年(1946年)に、東八町に移転していた八幡社と秋葉社を合祀。

神主は司氏

参考文献:『豊橋百科事典』
 
 
■「シベリア抑留 悲痛な叫び−生きて返りたい−」をみてきました。2011年08月09日

豊橋中央図書館の、第20回「平和を求めて」図書館資料展、「シベリア抑留 悲痛な叫び−生きて返りたい−」をみてきました。

ガラスケースの展示品のなかに見覚えのある、飯盒、水筒、防寒帽がありました。そして振り返って見ると、兼井円成さんの写真が展示されており、東寧の駅舎やソ連軍と最後まで戦い抜いた勝鬨陣地の写真などが目に飛び込んできました。

私の父が降りたであろう駅舎の写真前でしばらく眺めていると、ジーンとしてきました。父が暮らしていた町、見ていたであろう陣地や国境。父がが内地に移らなければ、おそらくここで戦死したか、シベリアへ連れて行かれたことでしょう。そうなれば、私はこの世にはいなかったでしょう。

主力を南方へ引き抜かれ(そのうちの多くはたどり着くことがなかった)、民間人も銃をとり、圧倒的な戦力のソ連軍を相手に戦いました。

ソ連軍の侵攻により多くの悲劇が生まれました。しかし、ソ連軍の越境は予測されており、早期に対応をしておれば、悲劇のいくつかは回避できたのです。

戦記は太平洋戦線のほうが注目されやすいのですが、満ソ国境の戦闘についても関心をもって欲しいです。

平成二十三年八月九日

★2階展示コーナーで、8月23日までです。

◆父の足跡 砲兵情報連隊

 
■『新編豊川市史 通史編』について 2011年07月30日

『新編豊川市史 通史編』第1巻・第2巻が20011年7月7日から販売という記事を見て、閲覧してきました。

三点だけ気になる箇所をあげておきます。

1.戦国牧野氏について

牧野信成と成敏との関係や、牧野保成と牛久保の関係など興味深い点がありましたが、同時代史料に論拠を求めることを根本としながら、肝心な論拠についてよくわからない部分がありましたので、読み込んでからまた感想を書きたいと思っています。

徳川林政史研究所蔵の史料は戦国牧野氏の系譜や支配関係を知るためには貴重なものと思われました。

2.牛久保城下古図について

以前、「牛久保城下古図と牧野田兵衛」で、牛久保城下古図があらわしている年代を「永禄八年(1565年)から永禄十二年(1569年)」として、柴田晴廣氏の『牛窪考』を論拠に揚げました。

『新編豊川市史』でも古図が取り上げられており、参考になりますが、太子山養樹寺の創建に関して、『三河国宝飯郡誌』を引いて創建を天正16年(1588年)としていますが、 『牛久保密談記』にみえる、下地聖眼寺の太子像が牧野右馬允によって牛久保に移され、聖眼寺末寺である養樹寺太子堂の本尊とされたという内容をどうとらえるのか疑問です。

もっとも、聖眼寺から太子像が移された件や、永禄期と考えてきた養樹寺太子像に安置された時期を再考する必要性があり、年代の特定が明確になることで、牛久保城下古図であらわされる年代がより鮮明になってくると思います。

3.「ええじゃないか」について

「ところで、慶応三年のお札降りで全国でもっとも期日が早いのは、七月十四日の渥美郡牟呂村(豊橋市)の例である」(『新編豊川市史』)

として、『ええじゃないか』(渡辺和敏、あるむ、) を典拠としています。

しかし、牟呂村のお札降りと騒動は、「ええじゃないか」の発端と位置づけられているのであり、七月十四日以前のお札降りの事実は存在しております。

また、牟呂八幡宮神主と村役人で、「二夜三日」の正月をとりきめたが、

「三日過ぎても若者が「正月」をやめず、お札は降り続いた。こうして村役人の統制がきかない騒動へと展開したのである。これを「ええじゃないか」騒動という。」(『新編豊川市史』)

としていますが、「三日過ぎても若者が「正月」を」やめなかったという表現は不可解です。牟呂村内の各地にお札が降り続いたことで、祭礼が村内のさらに小さな村の神社などを中心として組織的に行われていたケースもあり、牟呂村全村の氏神的存在であった八幡宮が祭礼のすべてを統制していたわけではありません。

牟呂の小村での横のつながりは強く、地縁・血縁を基盤とする集団による組織が祭祀においてもじゅうぶん機能していたと思われます。若者がとりきめを破って行動したことにより、「村役人の統制がきかない騒動へと展開した」という表現とは少しかけ離れているように感じます。

さらに、「吉田宿萱町では七月十八日に降った」(『新編豊川市史』)としていますが、これは確定したものではありません。

 
■自然の恩恵を受ける産業の育成と保護・・・対価を払おう2010年07月11日

よくよく考えてみてください。

日本は古来から農業・漁業・林業をしっかりとやっていれば成り立つ国家なのです。

どこで間違ったのか、その古来の産業構造を大きく変えてたために、食料の自立ができない国になってしまった。

食生活を変え(無駄をなくす・捨てないような構造をつくる・もったいないの復活)、日本の技術力を背景に産業構造を変えていけば、食料安全保障の問題も解決できます。

山を守る人への対価
山の治水力への対価
酸素供給に対する対価

水をきれいにしてくれる人への対価
魚を増やしてくれる人への対価

化学物質に汚染されていない土壌を作ったり維持してくれる人への対価

自然に関しての対価はきりがありませんが、ただではないということを私たちはいつも頭に入れておくべきです。


ちゃんとお金を支払っていきましょう。
地方公共団体に一括で渡すのとは別に、個々に、対価を支払うことは可能です。おじいさんやおばあさんが何十年も前から大切に育て、守ってきた自然いたいする対価を税金で支払っても良いではありませんか。

なぜやらないのでしょうか?

 
■豊橋空襲を忘れない・・・家を焼かれたケジメは 2010年06月21日

昭和20年6月19日から20日にかけて、豊橋市は米軍の爆撃機B29による爆撃がおこなわれました。この爆撃により、判明しただけで624人が亡くなっています。

この空襲ではなかったと思いますが、母の家の近くに住んでいた人は、焼死したそうです。

そして、生まれてはいませんが、わたしの家も焼夷弾で焼かれました。

九十九里浜から復員した父は呆然と立ち尽くしたことでしょう。
家族は、疎開していたそうで、無事でした。

最近選挙が近いせいか、政党や政治団体の宣伝カーが通っていきます。偶々なのかもしれませんが、豊橋空襲について聞かれませんでした。

空襲の日くらいは、(豊川海軍工廠の空襲の日も)、アナウンスしてもよいのではありませんか。

昔、こんなことがあり、多くの犠牲者が出た。
その、犠牲の上に、今の我々の暮らしがあるということを、忘れないためにも。

ところで、わたしの家は焼夷弾で焼かれましたが、補償金はもらったのでしょうか?

負けたからしかたがないのでしょうか?

家を焼かれておいて、戦争だからしかたがないのでしょか?

それが戦争だという、言葉で片付けられないもやもやを持っている人はたくさんいたのではないでしょうか?

いまさら、アメリカがお金を出すはずもなく、日本政府も何もしないでしょう。

しかし、「戦争だから○○○」という、理屈のようで、実は理屈でない言葉で片付けられるのが、戦争であるということを、

戦争を知らない私たちは肝に銘じておくべきです。

地元新聞の『東日新聞』(19日・20日)に大きく取り上げられなかったのは、ちょっと寂しいです。

 
■パトネットあいち情報について 2010年06月20日

事件・事故、不審者などの警察情報を受け取ることができるメールシステムがあります。とても役立ちます。

しかし、前日や数時間前の情報よりも、リアルタイムに近い情報を得られることができれば、犯人逮捕や事件・事故防止に役立つと思います。

いくつかの問題をクリアできれば、可能です。

 
■吉田宿と豊橋駅の壺屋 2010年03月10日

豊橋駅の駅弁というと「壺屋」を連想します。「壺屋弁当部」という響は頭のどこかに残っています。

幕末の頃の吉田宿の史料を見ていますと、船町壺屋(つぼや、つぼ屋)という名前をよく見かけます。料理屋とか料亭のようなところだったと思います。

戦前の豊橋駅前の古写真のなかに、壺屋の画像を見かけることがあります。

船町は江戸時代、伊勢神宮への参宮船が出ており、また東海道筋でもあったことから、交通の要所でした。

明治なりステーションが宿場町から離れた現在の場所である西宿(現在の豊橋駅の住所は愛知県豊橋市花田町西宿)にできたことから、船町は客足を奪われていきます。

壺屋も豊橋駅前に移ったとは想像ができます。

しかし、吉田宿の壺屋と、豊橋駅前の壺屋(現在は西駅側にある)がつながりがあるかはわかりません。

いつか調べてみたいとここ数年思っています。
どなたか知っていたら教えてください。

【追記】2010年12月3日
今日、偶々『豊橋市及其附近』(大口喜六、大正五年・1916年)を見ていたところ、附録の「豊橋市内主なる旅館」に、「つぼや 加藤庄六 停車場前」と書いてあるのを見つけました。

幕末の資料に登場する壺屋の庄右衛門は、加藤庄右衛門と思われるので、吉田宿船町の壺屋と、豊橋停車場前の壺屋はつながりがあるようです。

スッキリしました。

【追記】2010年12月10日
《壺屋の歴史》(壺屋のホームページ)というページを見つけました。

以下引用
 
明治21年(1888年) 旧東海道船待ちの豊橋付近で豊川を上下する船頭旅行相手に回槽問屋と料理旅館を経営。

国鉄東海道本線開業の直前、東海道筋がさびれるのを見越して駅前へ移転進出し壺屋旅館開業。

明治22年(1889年) 前年の豊橋駅開業に伴い、豊橋駅構内営業を承認される。

これで問題が解決しました。
 
■山を甘く見た(愛知県奥三河明神山) 2010年02月28日

奥三河に明神という山がありますが、
10年以上前に、一人で気軽に登って、
道に迷ったことがあります。

当時、ハイキング気分で山を歩くことが度々ありました。

明るかったから助かったのですが、
道を見つけた時には、
普通では降りることのないような急斜面を
腹ばいのようにしておそるおそる下りました。

そこからしばらく歩き、最初に出会った人が小学生でした。
私はどうして声をかけようか迷いました。
なぜなら、「ここはどこですか」と言うのが恥ずかしかったからです。
「○○へ行くには?」なら、聞きやすいのですが、
その○○すらわからないのです。

考えているうちに小学生とすれ違う距離になったとき、
小学生は、「こんばんは」か「さようなら」と声をかけてくれました。
今でもそうかも知れませんが、
当時、奥三河の小学生は、そのように挨拶をしてくれました。

私は、挨拶を返したか覚えていません。
会話をした記憶もなく、その後誰とも会うことなく、
歩き続けて、登山口である、乳岩側(旧鳳来町)とは反対側の
東栄町三ツ瀬側に出ました。

今から考えれば、
最初に迷った時に来た道を引き返せば良かったのですが、
それができなかったのです。

明神では小学生が遭難したりしています。
山を甘く見てはいけないとつくづく思いました。

あれから、山には登っていません。

 
■三州吉田城の天守? 2010年02月14日

少し前になりますが、豊橋市美術博物館編集の『吉田城シンポジウム報告 検証・吉田城』(平成十八年・2006年)を読んで感動しました。

三浦正幸氏は、「今、よみがえる吉田城 ―その建物復元に向けて―」で、吉田城は未完成の城ではなく、完成した城であり、天守がなかったのではなく、「天守と呼んでいなかった」としています。天守と呼ぶか否かは、それぞれの事情によって異なるようです。そして、東海地方で吉田城を越える城は駿府城と名古屋城だと。

半谷健司氏は 『逐城解説 詳説・吉田城と池田照政』で、櫓・城門・惣構えなどを検証に基づいて考察しています。

吉田城の特徴は、以下の点にあるそうです。

@天守を設けない。
A本丸を中心に三重櫓を多配。

そして、

1590年代に完成した全国でも最初期の平城
当時の最新築城技術を駆使
実戦向け城郭

と位置づけています。

下に参考にした書籍を書きました。
この三冊をお読みになってから、もう一度吉田城を訪れてみませんか。

【参考】

1.高橋延年・柳史朗共著 『三州吉田城の石垣と刻印』 昭和47年(1972年)6月15日

2.豊橋市美術博物館編集 『吉田城シンポジウム報告 検証・吉田城』 豊橋市教育委員会 平成18年(2006年)3月31日

3.半谷健司 『逐城解説 詳説・吉田城と池田照政〜遂に判明!吉田城本丸天守(代用)鉄三重櫓の外観全貌とその最期〜』 オフィス・ハニー 平成21年(2009年)8月1日

 
■奥三河の方言「もうかんじい」、おばけは「もう」と鳴く?  2010年02月11日

「東三河の三河弁」(HP【三河武士がゆく】)で、「もうかんじい」について取り上げたことがあります(2007年)。

「言うことをきかんと、もうかんじいが来る!」というように、怖いものをあらわす言葉として奥三河で使われていたそうです。

少し調べてみましたが、さっぱりわからず、歴史と結びつけて、蒙古襲来の「蒙古人・漢人」がなまったのではないかと書きました。

これを見た、高校の国語の先生からメールをいただきました。

以前レポートで旧津具村の生徒が「もうかんじ」という言葉は、「おばけ」のことだと書いてきたとのことでした。

柳田国男によれば、東北地方や信州地方では、おばけは「もう」と鳴き、ここから「ももんがあ」などの言葉が出たのだそうです。

その国語の先生は、わざわざ出典を探していただいたのですが、わからないとのことでした。「妖怪談義」には載っていなかったそうです。

その他、「ももんじー」「がごじ」などの言葉もあり、関連があるのではと指摘してくださいました。

ありがとうございました。

★「もうかんじい」についてご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。ご了解を得てHPに掲載させていただきます。

 
■豊橋市図書館と『中島三郎助文書』 2010年02月08日

前回と今回のNHK大河ドラマ『龍馬伝』は、ペリー来航による日本国内の動揺を描いています。ペリー来航時に応接にあたった浦賀奉行与力中島三郎助は数奇な生涯をおくります。

豊橋市図書館には『中島三郎助文書』(中島義生編、1996年) が 所蔵されています。

最近では入手困難になり、所蔵している図書館も少なく、さらに禁帯となっていたりして、 めったにお目にかかることができません。豊橋市図書館の蔵書も禁帯で、借りられませんが、手に届くところにあるのはうれしいことです。

愛知県内市町村立図書館の横断検索で「中島三郎助」を検索しますと、豊橋市図書館が14件と最も多く、次に多い岡崎市立図書館は5件です。(2010/02/08現在)

三河国吉田藩士穂積清軒(清七郎)の母は、中島三郎助の姉にあたります。晴軒は洋学者として知られており、叔父三郎助との関係も深いものだったようで、三郎助の紹介で幕府軍艦操練所の翻訳方になっています。晴軒の弟が穂積寅九郎で、一時期三郎助のもとにいました。

吉田藩士(吉田藩は、のち豊橋藩となる)と福沢諭吉の関係は深く、丸善の社長や要職に吉田藩士の名が見られ、慶應義塾にも入塾しています。『慶應義塾入社帳』には、入塾のときの保証人として穂積寅九郎の名が見られます。

私は見たことがありませんが、穂積寅九郎により、中島三郎助が所蔵した洋書が豊橋市図書館に寄贈されたそうです。

箱館戦争で、二人の息子と共に箱館千代ヶ岡陣屋で討ち死にした叔父中島三郎助同様、穂積清軒も熱心な佐幕論者であり、吉田藩士の彰義隊参加事件に関係したとされ、藩により処罰をされています。

参考
「『穂積清軒略伝』について」
「吉田藩脱藩彰義隊参加者をめぐって」
『在村の蘭学』(田崎哲郎、名著出版、1985)

 
■勝負の退き際・・・止めるときの決断力 2010年01月19日

防空戦闘では、紫電改の海軍343空や飛燕の陸軍244戦隊などが有名です。陸軍の震天制空隊には、武装をはずしてB29に体当たりをする特攻機もあり、戦果をあげていました。

しかし、度重なる邀撃戦で戦死者が増え、出動可能な飛行機は減少していきました。B29の高度に達する高射砲の配備も不十分でした。

本土決戦にむけての兵力温存のために出撃を禁じられていた隊もありますが、命令違反をしてまでも、出撃した隊もありました。

防空戦闘を禁じておきながら、人や工場を移さずに地上にあらわしたまま戦争を継続するという考え方は、どこからくるのでしょうか?国民は死傷し兵器を作ることができない状況がわかっていてそうするのです。

現代人の私には理解に苦しむところです。

早く戦争を終える力が政府にあればと思うと残念でなりません。沖縄の戦闘や、広島や長崎の原爆、その他の戦場での戦死者もでなかったのです。私の身近なところでは、豊橋空襲や豊川海軍工廠の空襲もなかったのです。

あのまま、連合国軍が、徹底した空襲や艦砲射撃の後、上陸作戦を実行し、本土決戦がおこなわれ、日本政府からの停戦に応じなかったとしたら、どうなっていたでしょうか。

退き際を見極める力はあっても、実行に移すことができなければ、勝負に大きく負けることになります。

思い切って止めるときの決断力が問われるのだとあらためて思いました。

参考『丸 紫電改と五式戦 伝承の邀撃戦』


 
■「ジロチョー 清水の次郎長維新伝」を見て 2010年01月13日

清水の次郎長と祖母の昔話

私の母方の祖母は、中村雅俊さん演じる清水の次郎長のことを、あまり良くは思っていなかったのだろうと思います。

江戸時代の幕末の頃、平井村(現在の愛知県宝飯郡小坂井町平井)に、雲風事亀吉という親分がいました。雲風とは江戸相撲時代の四股名だそうです。この平井亀吉は佐野史郎さんが演じていた黒駒の勝蔵とは兄弟分で、次郎長に追われた勝蔵を匿ったことにより、次郎長と争いになりました。

祖母は、平井村の出身ではありませんが、比較的近い下佐脇で生まれて育っています。次郎長が船で平井に攻めてきたという話を昔話のように、私の母によくしていたそうです。

「鬼の子から見た、桃太郎」の話をふと思い出しました。

※水谷藤博氏の「原田常吉の生涯」(『東海近代史研究』第8号、1986年、知立市図書館所蔵)を参考にしました。探しましたが、第8号は近くにはないのです。

 
■日本史の常識に疑問? 地方史編纂にみる残念な点2009年12月20日

お金がたりないというのが、大きな理由なのかも知れません。

執筆担当者は、自治体職員のほか、大学教授や小中高の教諭が多いと思いますが、編纂スタッフの数が少ないのは大きな問題です。

日本史の専門家といっても、それぞれの得意分野があり、研究テーマは限られていることがあります。地域の江戸時代幕末をテーマとしたとしても、執筆責任者がひとりであるというのは危険なことです。地方史・郷土史といいますと、何十年も研究をしている在野の人がたくさんいます。その人たちの持っている情報のほうが、学者よりも確実で重要なばあいがあります。

『○○県史』に明らかな誤りをみつけ、出典をみてみると、執筆者が資料を全部、または該当する部分の前後を読んでいないことに気づいたりします。

『○○市史』で当然触れる内容が記されていないとき、不思議に思って執筆担当者をみると、狭い意味での専門外であったり、該当分野の専門家であっても、地理的に担当地域外を専門にしている人であったりします。地域外の専門家でも、地域の郷土史家や愛好家から情報を得る人であれば、問題はありません。

数十年に一度、大事な予算を使って作るのですから、じゅうぶんな予算をつけて作ってもらいたいです。購入する方も、一冊数千円のお金を払っているのです。

 
■「豊橋1980年代の青春」(2) 2009年11月19日


お腹が空いているときは、「伸友?」でカツ丼を食べ、ビールを飲んだ。親父さんの顔が恐ろしく、たまに麻雀で楽しんでいることがあるので、入りにくかったが、人命救助の表彰状が飾ってあり、悪い人ではないと感じた。いまだあのカツ丼以上のカツ丼にお目にかかったことはない。若い頃伸友のカツ丼に出会ったしまったのはある意味悲劇と言える。

焼き鳥は「しらい」で、キャベツばかりかじっていた。気っぷのいい女将さんだった。居酒屋は「やっちゃん」、「香車」、夜遅くなると「茶釜?」へ行き、牡蠣鍋の味噌だけすすった。私は牡蠣が駄目だった。

スナックはいろいろ行ったが、最終的には「吉田の宿」と「華」で落ち着いた。どちらももう無い。「吉田の宿」は美人の2代目ママがのれんを引き継ぎ奮闘中。昔の額ビルの近くにおある。ひとりで行ってもアットホームな雰囲気で迎えてくれるのではないかと思う。私もひとりで行くことが多かった。最近ご無沙汰している。

その後屋台のラーメンか、くるまや、龍鳳、たまに清和園へよって、歩いて帰るのだ。

もう昔のことになってしまった。

これが、私の「豊橋1980年代の青春」である。

 
■「1970ぼくたちの青春」と「豊橋1980年代の青春」

10代から20代にかけて、友人に誘われたりして、映画を見に行ったものだ。当時豊橋にもまだ映画館が数館残っていた。東映・松竹・東宝・ロキシー・シネマ?・名画座・スカラ座・銀座東映などなど。お酒を飲むようになると、屋台のラーメンを最後にすするのが、少し大人になったような気がしていた。三角公園や、東映の映画館の屋台のラーメンは特にうまかった。

どこがで書いたかもしれない。

ちょっと話が横道にそれるが、一杯飲んだ帰り道、「おっ、懐かしい映画がやっとるぞん」という友人の声で見上げると、現在駐車場になってしまった東映に《昭和残侠伝》《イージーライダー》の看板が書かれていた。「観て行くかん?」と言って二人で東映の前をうろうろしていると、ちょっと雰囲気がおかしい。

「すみません、ちょっとどいてくれませんか」という思ってもない声がした。何を失敬なと思って辺りをよぅく見回すと、撮影中だというのだ。

ちょうど、街のあちらこちらで、スキーのツアー客を乗せるバスが止まって人がたむろしているような季節だったので、酔いも手伝って、ロケバスや人は全く気にならなかったのだ。

吉岡秀隆よりも、萩原聖人や・番長役の筒井道隆がとても印象的だった「1970 ぼくたちの青春」(演出は豊橋出身の杉田成道氏)を観て、20年前の設定でじゅうぶん耐えられる豊橋は捨てたものではないと感心したものだった。松葉公園の公衆電話ボックスが懐かしい。あのボックスには多くの人の涙が染みこんでいた。かも

 
■田辺牧野家の祖は牧野成敏か? 2009年10月31日

講演会で、牧野田兵衛(伝兵衛)成敏が、田辺牧野氏(舞鶴藩)の祖ではないかというお話しがありました。

田兵衛成敏は、松平清康(家康の祖父)に通じて、吉田城攻めを助けた人物とされています。清康と戦った吉田城の牧野一族(田三の一族)は壊滅状態となりました。これが享禄二年(1529年)〜天文元年(1532年)のころです。清康の吉田攻めには諸説ありますので幅をもたせました。詳細はここでは省きます。

吉田城を落とした清康は、成敏を吉田城の城番として配置しました。成敏は守山崩れの後、戸田氏によって城を追われています。これが、天文六年(1537年)とされます。以後、成敏はどうなったのかわかりません。

成敏と田辺牧野家をつなぐ記述は、豊川市牧野町の牧野家に伝わる「牧野氏系図」にあります。この系図は、今回展示されています。問題の箇所には「成敏」について、「牧野田兵衛 傳兵共」「正岡住」とあり、朱書きで「舞鶴藩主之祖」とあります。

豊川市に伝わる牧野家の系譜は、このほかに熊野神社に伝わる系譜と辻村家に伝わる系譜の存在は知られていますが、わたしは牧野町に伝わる系譜もふくめて見たことがありません。引用されているものは見たことがありますが、原本がどのようになっているのかわからなかったので、たいへん貴重なものを見る機会を得たと思っています。

林氏によれば、牧野町に伝わる系譜は「牧野氏系図」の他に三本(三冊?)あるそうです。この三本をもとにしてまとめられたのが、「牧野氏系図」のようです。朱で書かれた部分は、他の三本にあったものではなく、「牧野氏系図」の筆者が考察して書き加えたとも考えられますが、その分量は何とも言えません。したがって、「舞鶴藩主之祖」は筆者の考察によるものであるようで、他の三本には「舞鶴藩主之祖」という記述はないそうです。では、何を論拠としているのかが問題になります。この三本を見ることができれば、「牧野氏系図」への道筋見えてくるかも知れないのですが、無い物ねだりはやめましょう。

成立時期は、田辺から舞鶴に改称されたのが明治二年だそうですので、それ以降であることは間違いなく、また系図中、朱で紀元(皇紀)が書き込まれていることから、紀元が一般的に用いられるようになってからと考えるのがよいのでしょうが、まったくわかりません。

牧野町に伝わる系譜と思われるものが、岡眞須徳氏による「弥彦神社末社「十柱神社」」(『長岡郷土史』第23号、昭和六十年)に一部掲載されています。これは、「三河牧野家系譜」としてあり、「牧野氏系図」と似ていますが、朱書きはなく、部分的にも違いがあります。これが、他の三本中の一本であるのかも知れません。また、『長岡の歴史』(昭和四十三年)の著者である今泉省三氏も「牧野町牧野家譜」の一部を引用しています。これについて、『三河に於ける牧野氏勢力の消長』(昭和三十八年)の著者である鈴木範一氏が今泉省三氏から資料の提供を受けていることを序に書いており、『三河に於ける牧野氏勢力の消長』所収の「豊川市牧野町牧野家系図」と『長岡の歴史』に引用された箇所を比べると、二ヶ所異なっているものの、両者の間で資料のやりとりがあったとも考えられます。「豊川市牧野町牧野家系図」は、「牧野町牧野家譜」のことをさすのか、家譜のなかに収められている系図であるか、あるいは家譜をもとに鈴木氏がつくったものであるかはわかりませんが、「牧野町牧野家譜」がベースになっていると思います。「三河牧野家系譜」と「牧野町牧野家譜」は別のものと思われます。

「牧野町牧野家譜」・「三河牧野家系譜」ともう一本(もしかすると「豊川市牧野町牧野家系図」にあたるものか?)をもとにして、明治以降まとめられたのが「牧野氏系図」ということになるのかも知れません。所有している方は当然わかっていることですが、想像するしかありません。あたっているでしょうか。

段々ややこしくなってきました。わたしも頭がボーッとしてきたのでここら辺で結論を。

『三河に於ける牧野氏勢力の消長』所収の「豊川市牧野町牧野家系図」に、「牧野田兵衛尉信成」「正岡ニ住ス 牛久保ヲ背 清康エ出ル」とあります。内容から考えて、この「信成」は「成敏」のことと思われます。そして、田兵衛につながるのが「牧野内匠」と「牧野八太夫」となります。田辺牧野の祖とされる牧野山城守定成(さだしげ)の通称は八太夫ということから、田辺牧野家、舞鶴藩主の祖を牧野田兵衛と考えたのではないでしょうか。

ただし、牧野田兵衛から牧野八太夫の親子関係がみられるのは、「豊川市牧野町牧野家系図」のみです。補強する資料が欲しいところです。また、「牧野氏系図」では、成敏の後には何も記していないのはどうしてでしょうか。かわりに、牧野出羽守保成の子に牧野成元をあげ、「山城守」としています。このためか、朱で書かれた法名は、田辺牧野家の祖とされる牧野山城守定成と同じです。どれが正しいのか確実なところはわかりませんが、成元と定成を混同しているように思います。

牧野田兵衛成敏は、三河牧野氏の動向に大きな影響を与えたにも関わらず、謎の多い人物です。もっとも戦国期の三河牧野氏については、わからないことが多く、成敏が特異ということではありません。しかし、牧野の系譜から意図的に切り離された様な感じを受けるのは私だけでしょうか。

 
■三河に興りし牧野一族 2009年10月31日

三河に興りし牧野一族(豊川市桜ヶ丘ミュージアム開館15周年記念特別展)

平成21年10月24日におこなわれた講演会へ参加しました。演題は、「牧野一族が築いた三河の城」、講演者は学芸員の林弘之さんでした。

戦国時代に三河牧野氏が築いた城を、考古学の立場から説明していただきました。牧野城に虎口防御と思われる堀があった話は知りませんでした。1946年に米軍が撮影した航空写真を使っての説明では、戦国時代の河道と城の位置関係がよくわかりました。現在の豊川の流れとの違いを航空写真で見ると感覚として理解できるのです。

その他、牧野右馬允康成(やすなり)と牧野讃岐守康成(やすしげ)の二人の「康成」のお話しや、豊橋市賀茂町にある照山城主を、牧野讃岐守康成ではないかとするお話しなど、興味深いものでした。時間の関係で、発掘調査によって全容が明らかとなった八幡砦についてのお話を詳しくお聞きすることができなくて残念でした。講演後に質問に答えていただきました。存続期間は永禄四年(1561年)から翌五年にかけての短期間であり、生活の跡がほとんど見られないとのことでした。また砦では戦闘はおこなわれていないそうです。砦で防御するのではなく、砦から出てた闘ったということです。文献資料でも永禄年間にこの周辺である「鷺坂・片坂」での合戦が確認できます。合戦場については、「越後長岡と東三河」(私設電子図書館 新・佐奈川文庫)で詳しく考察されています。(つづく)

図録は完売間近のため、増刷したそうです。
特別展は11月8日まで。

■豊川市桜ヶ丘ミュージアム
http://www.city.toyokawa.lg.jp/enjoy/sakuragaokamseum.html


 
■東三河大学・穂国大学構想はないのか? 2009年09月23日

「愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果」からつづく。

ただ、法科大学院は名古屋市にあります。豊橋ではありません。車道ですので、以前の名古屋校舎の位置になるのでしょうか。法学部も豊橋にはありません。以前は豊橋校舎にありました。

笹島キャンパスへの移転にともない、豊橋の愛大ではなく、名古屋の愛知大学というイメージが強くなっていくのでしょうか。将来的には本部も名古屋になる可能性は高いと言えます。

学部を切り売りのような格好で、失っている状態が続いています。手遅れにならないうちに豊橋市は手を打つべきです。早いうちに。(豊橋市だけの問題ではありません)

私は、愛知大学や名古屋が嫌いなわけではありません。愛知大学が名古屋へ大学の中枢をシフトしていくのであれば、豊橋校舎はもたないのではないかという危機感を持っているのです。

愛知大学豊橋校舎、創造大学、新城大谷大学、そして国立の豊橋技術科学大学と協力して、東三河の総合大学(名称は穂国大学でもいい)、としてあらたな出発をしても良い時期だと思います。

のんびりした東三河人の性格は好きです。しかし、気がつけば、文科系の大学が無くなっていたということにならないように。人がいなくなることを意味しています。早く手を打つべきです。教育・医療・福祉・産業など、各市町村が現在の地方行政レベルよりも大きな意識を持つべきです。
 
■愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果

受験者41名中合格者20名(平成20年は35人中16名合格)
合格率48.78%(全国5位)
私大のなかでは1位(平成20年は私大で3位)

受験者(既修者)21名 合格者12名
受験者(未修者)20名 合格者8名

既修者合格率 57.14%
未修者合格率 40%

愛知大学法科大学院のHPにも書いてありましたが、法科大学院を修了しても法曹に進む者が少ないという現実には違和感があります。育成のシステムに問題があるのか、司法試験のあり方に問題があるのか、それとも両方に。

法科大学院のありかたとは異なりますが、愛大の学部卒業生の人数が何人いるのかは気になるところです。元々、愛大の法学部は中部地区では最も長い歴史があるそうです。自前で育てる能力がどれくらいあるのか興味があります。

内訳はわかりませんので何とも言えませんが、関東の有名私大相手によく頑張っているという印象をもちました。分母によって大きく結果が異なるという見方をする人もますが、この場合、必ずしもそうとは思えません。

※データは関係機関発表のものをご確認ください。

 
■愛知大学よ、どこへゆく?三好移転は何だったのか! 2009年06月27日

愛知大学の横を通る国道259号線から、学部の笹島移転に反対する看板が見えます。

三好移転のときも反対がありました。

あの三好移転はいったい何だったのでしょうか?

三好移転は大学運営姿勢の大きな転換であったと思います。あの移転で、豊橋キャンパスのサークル活動の沈滞が予想されました。サークル活動はやがて低迷していくであろうと、多くの学生は予期していました。理由は明白だったのです。

サークルで活躍する先輩に憧れたり、先輩の勧誘などにより安定したレベルの受験者を毎年確保できます。学問においてもまったく同じことが言えます。サークル活動でも学問でも活発であり、優秀であればなおさら、就職活動もスムーズにいきます。ここにも、社会で活躍する先輩達が見えない力となります。就職先が安定することで、さらに人気が上がり、受験者数が増えます。はっきりしているのです。

一時しのぎのための、学部改編をしたり、入試システムや入試のレベルを変えれば、一時は受験者数が増えるかも知れませんが、長期的に見たら、マイナスです。

それを肌で感じている人たちは反対したのです。

今度の学部移転で、豊橋校舎に残る学部は?
これは豊橋市だけの問題ではなく、三河や遠州の問題でもあると思います。

行政はもっと真剣に郷土に残る人材を育てることを考えなければなりません。

このことを掘り下げていく新聞はあまり見られません。

もう先が見えているように思えてなりません。
これが杞憂となれば幸いです。

(つづく)

 
■慶応三年、三河国吉田宿船町の御札降り 2009年06月26日

慶応三年のええじゃないかの発端といわれる三河国渥美郡牟呂村(愛知県豊橋市牟呂町)の御札降りは、慶応三年七月十四日のことです。これよりも早い慶応三年六月二十一日に、三河国吉田宿船町で御札降りがあったことを知る人は少ないと思います。

わたしは、慶応三年のええじゃないかの発端を牟呂村御札降りとそれに伴う神事・賑わいから騒動にいたる過程に求めることは頷けます。しかし、船町の御札降りの取り扱われ方に疑問をもち、船町文庫資料と他の御札降り資料の確認を自分なりにしてみることにしました。

これが、2008年のことです。仕事の合間をみながら少しずつすすめていったので、最初のころ調べたことを忘れてしまったり、データの場所を思い出せなかったり、資料を集めるのにも時間がかかりました。豊橋市中央図書館、豊橋市美術博物館、そして愛知県史編さん室の方にお世話になりました。

ありがとうございました。

★三州吉田の御札降りとええじゃないか
 
■愛知県内市町村人口、豊橋市第4位に転落 2009年04月22日

周辺の市町村は合併をすすめてきましたが、豊橋市は合併をしない路線を選んでいるようです。はっきりとした理由はわかりません。

合併にも一長一短はあるものです。苦し紛れに将来計画なしに合併することは反対です。

しかし、このままですむとは思いません。
 
■春高バレー。あっぱれ!豊橋中央高校バレー部(2)2009年03月30日

全国に近いレベルになりますと、市外県外より有力な選手が集まってきます。

豊橋中央の以前のメンバー構成がどうだったかはわかりません。
しかし、今年に限っていえば、半分以上の部員は豊橋市内の中学出身者です。

市外だからいけないということではありません。

地方の市町村において、地元の子どもを地元の学校で育てていくことは困難な場合があるということです。

もっとも、地元の選手が育ってくるためには、地元の小学校や中学バレーが素地になていると思います。

 
 
■春高バレー。あっぱれ!豊橋中央高校バレー部(1)2009年03月25日

共栄学園に勝ったときには、久々にサブサブがでました。感動して。

勝てるとは思っていなかったので、第一セットを落とした後、放映が第二セットからだったので、これが最後かと思い、ビデオを早送りにしてみていたのですが、飛ばしすぎてびっくり。

たいへん失礼しました。

慌てて逆戻しにして、ゲームを見直しました。第三セットは、リードしていても、いつひっくり返されるかハラハラどきどきでした。

津商業が八王子実践に善戦したゲームの放映の後だっただけに、ここまでやれば、上出来と自分に言い聞かせながらの観戦でした。

ゲームが終わり、共栄学園の選手だけでなく、豊橋中央の選手の何人か顔を覆って泣いていました。

WBC決勝のイチローのタイムリーヒットはもちろん感動しましたが、想定内の期待。こちらはそうではありません。久々にサブサブがでたのもうなずけました。

 
 

【穂国東三河】

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