教育・子育て・学習
 

■学校教育再生のために(3) 現場を無視した改革の犠牲者は? 2013年03月05日
■友だちが少ないことで悩んでいる若者が多いそうです 2013年03月04日
■学校教育再生のために(2) 子どもと接する時間を増やす発想はないのか 2013年03月01日
■学校教育再生のために(1) 道徳の教科化の問題点 2013年02月28日
■体罰とマスコミ(3) 2013年02月20日
■体罰とマスコミ(2) 2013年02月19日
■体罰とマスコミ(1) 2013年02月18日
■読書好きを悩ます読書感想文 2010年08月05日
■いじめ、なぜ気がつかないのか? 2010年07月16日
■私はカウンセリングを甘く考えていた 2010年07月05日
■「○○していれば」・・・カウンセラーの苦悩 2010年07月04日
■豊橋市立章南中学校のボート転覆事故 2010年06月23日
■子ども手当は景気回復のためではない 2010年06月20日
■親は学校行事をチェックしているか? 2010年06月19日
■自然の体験とは、自然の怖さを知ること・・・浜名湖でのボート転覆事故の報に接して
■子ども手当と待機児童の問題を同じレベルで報道しない 2010年06月13日
■学校での社会保障制度教育はどの程度おこなわれているのか?2010年06月13日
■動物や植物が子どもを育てる 2010年05月25日
■子どもを救う時、責任感やプライドは不要です 2010年04月05日
■いじめ・虐待から子どもを救う人は誰なのか?
■保育園の先生が退職されました
■教師も生徒のために体を張ることがある 2010年03月26日
■雇用創出を阻む合理的な考え方 2010年01月21日
■東三河大学・穂国大学構想はないのか? 2009年09月23日
■愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果
■短を以て敗を取るは、理数の常なり 2009年04月29日
■三重中京大学・短大廃止の方針か? 2009年04月23日
■白紙の答案 2009年04月13日
■大人の犠牲になる若者たち 2009年04月09日
■ガンバレ新城大谷大学の学生 2009年03月30日


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三河武士がゆく
 

 
■学校教育再生のために(3) 現場を無視した改革の犠牲者は? 2013年03月05日
 
社会科解体(地歴科・公民科)
世界史必修
家庭科共修
教科「福祉」
総合的な学習の時間

内容をいちいち書きませんが、

教師がいない
まともに使える教科書がない(当然副教材もない)

促成の短期講習で教師を間に合わせ
教科書を教師がつくる

という、事態が生じました。

まさか、思いつきの教育改革であったとは思いたくありませんが、
充分間に合うだけの準備も用意も計画もないのです。

不足分は、現場の教師が補いました。

机の上では、立派なものであっても、現状を認識していなければ、
その時点では、やらない方が良いのです。

最終的に、犠牲となったのは誰なのか?

 
■友だちが少ないことで悩んでいる若者が多いそうです 2013年03月04日
 
生涯のうちで、何人友だちがいたら、幸せなのでしょうか?

ちゃんと考えると、難しい問題です。

損得や感情の対立で離れていく友人は、本当の友人ではありません。

友だちとは、縁によって結ばれるものです。

良い友だちを増やすためには、

自分が相手にとって本当に良い友だちになることです。

相手のことを気にかけたり、真剣に話しを聞いたり、心配したりすることです。

そして、他人を馬鹿にしたり、羨んだり、悪口や陰口を言わないことです。

そうしていれば、一生涯の内にかけがえのない友だちができると思います。

あせらず、自分を磨くことです。

 
■学校教育再生のために(2) 子どもと接する時間を増やす発想はないのか 2013年03月01日


道徳の教科化によって、現職の講習時間が設けられるのでしょうか?

いつどこでするのでしょうか?

そのときの補充の教師はいるのでしょうか?

問題が多いのに、教師がたりない現場をどうるのでしょうか?

教師の努力に期待するだけでは、どうにもならないのでは。

いじめ、非行、体罰、不登校など多くの問題を解決する一つの方法は、教師が子どもと向き合う時間を増やすことなのです。

道徳教育とは、耳学問ではなく、実践です。
机の上で考えてもあまりうまくはいかないのです。
体験しながら学ぶ場のひとつが学校なのです。

よい教師と巡り会った子どもは、よい教師となって学校に戻ってくるでしょう。

 
■学校教育再生のために(1) 道徳の教科化の問題点 2013年02月28日


教育再生実行会議は道徳の教科化を提言したそうです。

誰が教えるのか?

という以前からの大問題をクリアできるのか心配です。

教師は、道徳教育のプロとして育ってきたわけではありません。

公立の学校で、人間性を第一義とした採用はないと思います。

現役の教師へ講習をおこなうのでしょうか?

その講師は誰がおこなうのでしょうか?

それこそ、人としてすばらしい人に依頼するしかありませんが、

どこに、何人、条件に合った人がいるのでしょうか?

そういうことを、よく考えた上で実施しなければ、

現場を無視して、教師から子どもと向き合う時間を奪ってきた理想教育?と同じ轍を踏むことになるでしょう。

どのような職業でも現場を体験していなければ絶対にわからない事があります。

実情に合った、準備をしっかりとすることです。


 
■体罰とマスコミ(3) 2013年02月20日

どちらも、地元の新聞社であり、ずっと豊川工業の駅伝の取材はしてきたと思います。

当然、周辺の情報も集めて記事を書いていたと思います。

豊川工業に限らず、どの学校・教師が厳しく(厳しいことが悪いとは限らない)、甘いということに対して、生徒がもっとも敏感なのではないか。情報を集めようとすればいくらでも集まるわけです。

問題が大きくなる前に修正ができていれば、今回のようなことは避けることができたかもしれません。

問題があれば、それに気付き、小さなうちに問題化、表面化させることで、早く対応ができ、修正ができるのは誰もがわかっていることです。

なぜできないのか?
どうしてしないのか?

NHKの放送と東愛知新聞の記事を合わせてみると、その理由の一端が見えてくるように思います。

 
 
■体罰とマスコミ(2) 2013年02月19日

東三河には、地方新聞が二つある。

多くの記事は、その方向性でおおむね一致していると思うのですが、今回の体罰問題に関しては、スタンスは大きく異なってはいないようだが、切り口が異なるように感じる。

断っておきますが、私は読者ではない。新聞のHPの記事を読んでいるだけです。

東日新聞は、「豊川工高監督続投署名3万7808人」いうスタンスをとっているように感じる。

いっぽう、東愛知新聞は、2月4日より「壮大な夢の果てに 豊川工陸上部の体罰問題を考える」と題して連載を続け、実態に迫ろうとしているようにみえる。

 
■体罰とマスコミ(1) 2013年02月18日

NHKの解説者?がスポーツの体罰について、見て見ぬ振り(知っていて良しとしていたということか)をしてきたマスコミ(自分自身)も反省する必要があると言っていた。

私は、とてもまともなことを言っていると思った。少なくともこの意見は健全だと感じた。

選手や指導者がどのような性格なのかわからない。指導方法も実際には知らない。

それでも、

勝てば、優勝すれば、金メダルをとれば、選手ばかりではなく、指導者がもてはやされ・指導方法が注目される。

マスコミが大きくとりあげて、視聴者の感覚も麻痺していく。

自分たちがしてきた責任を痛感して、素直に反省し、メディアに露出していくことができないようでは、問題は繰り返されると思います。

指導者が選手に「鉄拳制裁」「愛のムチ」などと、書いて商売にしてきたのであれば、それが主義主張であれば、もっと、マスコミから反対側の意見が出てきてもいいと思う。

それがないのは、どうしてか?

国民がしっかりと考えなければならないところなのだと思います。

 
■読書好きを悩ます読書感想文 2010年08月05日

夏休みの宿題の定番のような読書感想文。

私は学校が提出する読書感想文の宿題が嫌いでした。

ブログの記事を見てもおわかりのように、短いコメントや本の内容からはみ出てもよいのであれば、何とか書くことができます。

大人になっても、このような具合ですから、子どもの頃は、四苦八苦でした。友達に頼み込んで見せてもらったり、あとがきを見てアレンジしたりしました。ちゃんと書いたこともありましたが、やはり内容から逸れていました。

提出日に出すことはまれだったので、当時はとても強く叱られるわけです。

提出期限を破り、他力本願で宿題をやる私が悪いのですが、何回夏休みが来ても、叱られてまで、本を読む気にはなりませんでした。本は自分の意思で楽しく読むものと決めていました。

私は本を読むことが大好きだったのです。


読むことが好きな子ども。

文章を書くことが好きな子ども。

いろいろな子どもがいます。

私のように、読書が好きで、文章を書くことが苦手な子どももいるのです。

中学・高校であれば国語の教員が国語の力を身につけさせようと、または、読書の楽しさを味わってもらおうとして、課題を出す場合もあると思いますが、事前と事後の指導がしっかりしていれば、それはそれでよいことだと思います。

しかし、必ずしもそうではありません。

感想文コンクールのようなものがあり、それに応募するために子どもに書かせ、担任が応募する作品を選定して推薦する学校もあります。

自分の作品が選ばれて、自信がついたり、読書が好きになる子どもがいれば、それはたいへん良いことなのですが。

学校の裏側をのぞいてみると、ちょっと疑問がのこります。

 
■いじめ、なぜ気がつかないのか? 2010年07月16日

学校は責められますね。

気付いていて、手を打たなければ責められてもしかたがない。

ただ、学校の肩を持たせてもらえば、

本当に気がつかないいじめもあるのです。

教育者であろうが、親であろうが、気がつかないこともあります。

巧妙に隠蔽されるいじめ
当事者同士(または被害者)に強い自覚がないいじめ
被害者が言わない、認めないいじめ
(一見)仲良しグループ内のいじめ
校外のみのいじめ
他校の生徒同士(または相手が有職者)のいじめ
周囲の気がついている者が言わないいじめ
第三者が関心を持たないいじめ

すぐに思いつくだけでも、いくつもあります。

いじめを見つける努力を教師が怠ったのであれば、これは責められて当然です。

しかし、個々のいじめの問題がどこにあるのか、そして解決方法はどこにあるのかを論議・模索せずに簡単に学校を責めても、真の解決には至りません。


一部のマスコミは、スケープゴートをつくりだして問題の本質をうやむやにします。

一部のマスコミは、やり玉に挙げて攻撃していたかと思えば、手のひらを返して賞賛します。または、矛先を変えます。


これって、おとなのいじめではないですか?

このいじめになぜ気がつかないのか?

いじめている側が、自覚がないのか?

被害者は自覚していると思います。

被害のない第三者が、関心を持たないパターンか?


職場でも、町内でも、PTAでも同じです。

 
■私はカウンセリングを甘く考えていた 2010年07月05日

情熱ややる気があれば何でもできると思い、深く考えず我武者羅になった時期がありました。

しかし、全部を請け負えるわけではなく、背負い込むことはできないことを、段々と知るようになるのです。

家庭環境や障害、病気・事故のような、運命ともいうべきことは、どうにもならない。どう受け止めていくかということを話すのが精一杯で、それ以上は・・・

絶望というほどの相談内容に対して、言葉が出ないときがありました。これは背負えないと思いました。「背負う」という思い上がりが間違っていたのですが、逃げることしか考えなくなてしまったことがあります。相談とはこんなに重いことなのかと。

しかし、ここで逃げたら、自殺するのではないかと、この人は死んでしまうのではないかと思えるほど、私自身が追い込まれていたのです。相手は、それほどまでではなかったかもしれませんが、どうかなってしまうと恐ろしくなりました。

それでも、いくら振り絞っても出てきません。頭で考えることをやめて、何とかしなければ、何とかしなければと思い、必死の思いで絞り出したのが、「うんち」の話です。

 
■「○○していれば」・・・カウンセラーの苦悩 2010年07月04日

先日、何かの本かテレビで(実にいい加減な記憶)、公的施設の相談員の方のお話しが載っていました。

担当をしていた人が自殺をしてしまったと。

カウンセリングという横文字を使うとスマートなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、相談を受けるということは、相談者の人生のある部分を請け負ってしまうことがあり、その重圧やストレス、肉体的な疲労などで、自分がつぶれてしまうこともあります。

共感的態度は必要であるけれども、共感しすぎると、いつの間にか重圧がかかっていることがあり、気付いた時には抜け出せない。でも解決方法がない、と言うような蟻地獄状態になりかねないときがあります。この仕事に携わる人は、冷静に状況を判断するためにアクセルとブレーキを踏み間違えない能力が必要なのだと思います。

切り替えや前向きな姿勢も大事です。

このような資質または後天的に修得した能力なしに、カウンセリングをするのは危険です。

精神的な病になるカウンセラーが増加していると、どこかで?言われていましたが、同様に教師も増加しているそうです。

いっぽう、カウンセリングをしない精神科の医師がいるといいます。どうやって患者と意思の疎通を図るのでしょうか?

 
■豊橋市立章南中学校のボート転覆事故 2010年06月23日

■豊橋市立章南中学校のボート転覆事故・・・行事の危機管理はどうなっているのか?

昨日(6月22日)の『東日新聞』は、事件の報道のために社会面を一面半使っていました。

新たなこともわかってきました。


青年の家所長は、ボートを曳航するのは、はじめてだったそうです。(『中日新聞』)

曳航の練習はしていなかったのでしょうか?

ボートには青年の家職員が乗っていなかったのはどうしてなのでしょうか?



11時40分ころ
降雨のため、学年主任から依頼された教諭が所員に確認。

所員:これくらいの雨なら大丈夫という返答して、インターネットで注意報が出ていないことを確認。

教諭→学年主任→校長(正午ころ報告を受ける)

だが、
正午ころ同地域に強風や雷などの注意報が発令されていた。

発令直後:所員→所長らに注意報を報告・・・教員には伝えず。

午後2時35分ころボート出発→20分後に波が高くなる。

(『東日新聞』)


豊橋市の加藤教育長が、市内の小中学校長の前で「自然体験学習など危険だと判断した場合は思い切ってやめる勇気も合わせ持ってほしい」(『東日新聞』)と述べたとあります。

しかし、管理職が危険だと感じなかったから、今回の事件がおきたのかもしれません。危険だと感じたら、いくら所員が大丈夫と言っても、校長が中止するでしょう。

そうであれば、システム上の問題が大きいのだと思います。


★中学校の実施要項には雨天時はどのようすると書いてあったのでしょうか?「雨天決行」であったと一部で報道されましたが、わたしにはよくわかりません。

海・山の天候は急変することがあり、危険が予測されますが、もし
「雨天決行」であったのならば、理由は?
「雨天中止」であれば、学校側の方針として中止になったのでは。

※私には雨の状態がわかりませんが、雨が降り続いていたのであれば、学校側として情報を収集するのではないでしょうか。

※立案の段階で教員が疑問をもたなかったのでしょうか?

※要項を見ていないので、想像の部分が多くなるのでやめます。


★特に降雨(状態がわかりませんが)が認められているのに、なぜ学校側が大丈夫だと判断したのでしょうか?

★学校側の、気象情報のチェック体制はどうなっていたのでしょうか?

★なぜ、ボートに所員が乗らないことを、学校側がOKしたのでしょうか?

★転覆時、投げ出されたときの対処方法は事前に説明されていたのでしょうか?

★事前に報告をすると思いますので、教育委員会も実施要項は把握していたと思いますが、誰も疑問には思わなかったのでしょうか?


疑問は尽きません。あまりにも、不可解な点が多すぎます。

一つ一つのマイナス条件が積み重なっていくと大きな事故につながるのです。

どこかで、防ぐことができたと思います。

私は臆病なので、心配が先に立つ方です。心配しすぎて、身動きがとれなくなるのも問題ですが、今まで大丈夫だったから、次も安全ということはありません。

前にも書きましたが、この事故は、一中学校だけの問題ではありません。どこの学校でもおこりうることなのです。

個々の人間を責めるのではなく、どうしたら、このような事故を防ぐことができるのかを考えていきましょう。

野外実習や体験型の修学旅行などで、悪天候時に予定通りプランを実施して、事故にあったり危険な目に遭ったりしたことはありませんか?

すべての学校で、行事の安全性をしっかりチェックしていただきたいと思います。


犠牲となった生徒のお父さんは、訪れた教育長と学校教育課長に、

「3人で静かに家に帰りたい。自己の責任を考えても花菜は戻ってこない。こんな悲しい思いをしないようにしてください」

と切望したそうです。(『東日新聞』)

やりきれないですね。

私もこれで最後にしようと思います。

おわり

 
■子ども手当は景気回復のためではない 2010年06月20日


子ども手当は景気回復を目指したものではありません。

子育ての経済的支援なのです。

子ども手当を必要としない人のためではなく、

子ども手当を必要とする人のためにあるのです。

ただし、しわ寄せが他の社会保障に及ぶのはよくないことです。

 
■親は学校行事をチェックしているか? 2010年06月19日

■親は学校行事をチェックしているか?・・・学校は融通が利かないものです

学校の行事のなかには、よく練られた行事もたくさんありますが、普通に考えて、本当にこれが必要なのかというものもあります。

また、不測の事態がおきたときどのように対応するのか疑問に思うこともあります。

今回のような行事を計画するときは、立案・下見・打ち合わせを通して教員が何回か意見の交換をするものです。湖上でのカッター経験となれば、教員の中で危険を含む問題点が指摘されているとおもうのです。

そして、必ず以下のことを再チェックして、前回よりも今回の方が良くなるように考えるものです。

1.システム上の欠陥がないか?

2.危機管理はできているか?

しかし、無事故で何回か行事をおこなううちに、危機管理意識が薄れていきます。最初に行事を始めた時の管理職や教員が異動で変わると、じゅうぶんな引き継ぎがおこなわれないこともあります。

また、年間行事計画のなかで過密スケジュールがあれば、少し無理をしてしまったりします。思い切った変更ができないものです。

計画通り進めなければならないという、意識が教員に強いときはこのようになりがちです。

このような意識があちこちで働くと、マイナス要因が重なり、事故がおきやすくなるのです。

お子さんがいる人には、チェックしていただきたいのは、学校行事の中に、1、2のような問題がないかということです。

「もしも」のときに、どのような対応をするのか?

ということです。そこまで考えて行事を立案しているかということです。

危険を伴う行事で雨天決行は、どれだけの理由があるのかということです。

そして、気になったことは、質問してみることです。
ちょっとでも不安だと感じた時、ご自分の直感を信じてください。
結果として何もなければよいのです。
子どもの命を守ることがいちばん大事なことなのです。

対応ができない点があれば、当然、改善を要求してください。
特にPTA役員は教員と接することが多いので、その機会を生かしてください。

もう一度、行事を確認してみましょう。


※学校の危機管理については以前より強く考えるところがあり、特に池田小学校の事件で強いショックを受けました。一度は消したHPですが、以前の内容をまた掲載しようかと思っています。


 
■自然の体験とは、自然の怖さを知ること・・・浜名湖でのボート転覆事故の報に接して

静岡県立三ヶ日青年の家に宿泊し、野外活動をおこなっていた豊橋市立章南中学校の一年生が乗っていたカッターボートが強風のため転覆し、女子生徒一名が亡くなるといういたましい事故がおきました。

詳細は他で多く語られていますので、感じたことを書きます。


教員も青年の家の職員も事故がおきないように行事をすすめているわけです。そのなかで、なぜ事故がおきるのか?

※個人を責めるのではなく、一般論として書きます。

事故がおきるときは、マイナスの条件がいくつか重なるものです。指導者側、運営側はマイナスの条件を減らす努力をするものです。

今回、事故を防ぐことができたポイントはいくつもあるのです。

その一つ一つの回避ポイントで、危険を防ぐことができなかたのは、以下のような問題があったからです。


1.システム上の欠陥

2.危機管理意識の欠如


以上二つの問題が、クリアできなければ、少なくとも、危険を伴う行事内容を変更するべきです。

この場合、できないのであれば、やってはいけないのです。

経験と命のどちらが大事か、考えるまでもありません。水産高校のように海に出て行く為の訓練ではないのです。自然の体験とは、自然の怖さを知ることであるのです。これは命がけになります。この点を指導者側が理解せずに、自然体験学習をおこなう事はとても怖いことです。

山でも海でも川でも、みんな同じことが言えます。

危機意識が必要なのです。

二度とこのようなことがおこらないように願うばかりです。

どんなに悲しんでも、失われた命はもどらないのです。《涙》

 
■子ども手当と待機児童の問題を同じレベルで報道しない 2010年06月13日

2010年4月1日より施行された子ども手当法に賛否両論あるという報道がなされています。

保護者の所得制限なしに、中学3年生までの子どもの保護者(養育者)に毎月支給されるもので、所得制限のあった児童手当は廃止されました。

財源の問題
受給者の範囲の問題
使途の問題

など色々ありますが、結果として経済的に保護者が助かるのであれば、細かな問題は少しずつ改善していけばよいことです。

メディアが子ども手当の問題を取り上げるときに、保育園などの施設不足・待機児童の増加の問題を一緒に取り上げることがあります。

この問題は、よく整理して別の枠で考えなければならないと思います。

・働きたい。
・生活レベルを向上させたい、維持したい。

という人には、緊急性は少ないので我慢してもらうとして、

・今日の生活に困っている人には現金支給が必要です。

・今日の生活には困らないが、働きに行かないと生活ができなくなると言う人には、保育施設が必要です。

それぞれ立場が違うのですから、支援の方法が異なるのは当たり前のことです。


 
■学校での社会保障制度教育はどの程度おこなわれているのか?2010年06月13日


政府の医療・年金・福祉政策は明らかに間違っていました。残念ながらそれは、歴史が証明しているところです。

政治のミス、政治家のミスリードの《ツケ》を将来の若者に追わせるというようなやり方を放置するべきではありません。

国民の生命と健康を守るためには、社会科・家庭科・体育の教師はすべて責任を持って、社会保障の変遷を説明し、少なくとも日本の医療保険・年金・介護保険の三つの仕組みを理解できるようにつとめなければなりません。特に社会科は中学では公民、高校では現代社会、政治・経済という科目がありますので、その機会は多いのです。

そのためには、

・教師の知識と教育技術レベルの向上
・授業時間の確保

が必要です。

 
■動物や植物が子どもを育てる 2010年05月25日

A君が学校から帰り、いつものようにチビをみにいくと、
犬小屋からチビの姿が消えていました。

母親に尋ねると、吠えずに穴を掘ってばかりいて役に立たないから、保健所に引き取ってもらったとのことでした。A君の母親は大切な物であっても役に立たなくなったり、手狭になると捨ててしまう性格でした。

A君の心は怒りと悲しみで一杯になりました。


B子さんが学校から帰ると、大切に育てていた果実がほとんど鳥に食べられていました。母親はそれをみると、鳥に食べてもらった(鳥のためになった)と思えばいいんだよと言って慰めました。

それでも、B子さんは怒りと悲しみがおさまらなかったということです。

私にも二人と同じような悲しい経験があります。

このやり場のない怒りと悲しみは、ふたりにどのような影響を与えたのでしょうか。


A君の母親はその後も同じことをしたそうです。A君も母親と同じようなことをしたこともあるそうです。しかし、後味が悪く、おとなになるに従って生きものや物を大切にするようになりました。


B子さんは、母親の言った言葉をすぐには受け入れることができませんでしたが、その後は、ひとつのものだけを大切に育てるのではなく、鳥や虫に食べてもらおうという気持ちで、予め余裕持ち、たくさん育てるようになったそうです。全部食べられても、不思議と悲しみや怒りはないそうです。

親がどのように子どもと接するかということと、子どもがどのように感じるかは、決まったかたちはありません。同じような親であっても、A君やB子さんのようになるわけではありません。

心の育ち方は複雑です。

ペットや植物は、接し方によっては、癒しであったり、生き甲斐となったりします。

子どもにとっては、生と死・無常を学ぶ場でもあります。

かわいがっていた犬を箱に入れて、父と穴を掘って埋めた時の情景は薄れていますが、40年経ったいまでも思い出す時があります。



 
■子どもを救う時、責任感やプライドは不要です 2010年04月05日

学校で教師が毎日のように子供を見ていても、
いじめ、虐待に気付かないことはあります。

気付いてからの対応には、教師によって差があります。
これは、教師の性格に左右されるからです。

私は、ひとりで問題をかかえこんで、
自分で問題を解決しようとする教師でした。
このため、問題解決を遅らせ、判断を誤ったことがあります。
責任感やプライドが問題解決を邪魔したのです。

子どもたちは、何を望んでいるのでしょうか?

なりふり構わず子どもを助けようとする教師を、
子どもは待ち望んでいるのです。

失敗や批判をおそれると、
できそうで、できないものです。

失敗しないために慎重になって、
かえってそれが失敗を招くこともあります。

機先を制しなければならないときに、
後手後手にまわるときは、このようなときでした。

一人で問題を解決できる教師よりも、
皆で解決していく教師の方が優秀だと思います。

まず、身近な人に相談してみることです。

 
■いじめ・虐待から子どもを救う人は誰なのか?

以前、HPに「真面目な上司と水木しげる」という文章を書いたことを思い出しました。

我々は、真面目で職務に忠実な人が人を救うと思いがちです。
しかし、それだけではないようなのです。

かつて、ある雑誌でゲゲゲの鬼太郎の作者である水木しげる氏が、以下のようなことを書いていました。

《真面目な人ほど、上の命令に忠実であり、部下に『死んでこい』と言えるものだ》

わたしは、この言葉に少しショックを受けました。

戦記や戦争体験記などを読むと、軍紀に反したり、命令違反をしたりする人が、人の命を救う話が出てきます。

上官に逆らって、無茶な命令(部下を危険にさらすような命令)に従わなかったり、従うフリをして、実行しなかったりして、部下の命を救うような話が。

職務上、子どもを救うポジションにある人たちは、真面目で、勤勉で、善良で、良心的な人たちだったと思うのです。

不思議です。わからない。

水木先生に逆らうようだが、真面目とか不真面目という問題ではなく、人の命の重さと自分の立場をどのように考えているのかということと関係しているのかなとも思うのです。

水木しげる先生の言葉のなかには、子どもを救うヒントがあるのだと思います。
 
■保育園の先生が退職されました

「K先生が引退したよ」

昨日、保育園のK先生が退職されました。

子どもが5年間の保育園生活で、最初と最後の年にお世話になった先生です。

右も左もわからぬ不安で一杯の父親一年生(ひよこ組)から卒園まで、鍛えていただいたという思いが強く、その話を聞いた時、子どもよりも寂しい感じを強く抱いたような気がしました。

子どもの学年は、窓やベランダの塀に柵が追加されたような学年で、たいへんだったと思います。毎日のように生傷をつくり、時には青アザや歯形をくっきりつけて帰ってくることありましたが、安心して保育園に預けることができたのは先生がいたからです。

ひとりひとりの子どもたちの特性を把握して、舞台をしっかりとつくってくれました。ほんとうに見習う面が多く、勉強させていただくことばかりで、弟子になりたいくらいでした。私は、保育園から教職を始

めたら、もっと長続きしていたと思ったくらいです。

話を聞いた子どもたちが保育園に集まったようです。卒園から5年が過ぎて、先生を慕いお別れをすることは珍しいように思います。

これだけでも、先生の人柄が偲ばれるのではないでしょうか。

私もぜひお会いしてお礼が言いたかった。

本当にありがとうございました。

春は別れの季節。

 
■教師も生徒のために体を張ることがある 2010年03月26日

聞いたお話です。

学校を一歩出ると、生徒が危害を加えられそうになることが多々あります。

通常、警察に連絡して、生徒の親には被害届を出すようにアドバイスをし、生徒には登下校時の注意を促す程度で済みますが、それだけでは済まないケースもあります。

よく、警察に連絡をしたらよいとか、警備を依頼したらよいと思いますが、それも対策の一つなのですが、

事件発生時には警察官はいないのです。

とくに、警察が近くになかったり、人が少ない地域では、対応は後手に回り、被害は大きくなる可能性が高まります。

生徒の生命の危険につながるようなことに対しては、教師である以上、生徒を守らなければなりません。

教師のなかには、柔道や空手など武道の猛者もおり、侵入者を撃退したという武勇伝も聞いたりしますが、ほとんどは、私のようにひ弱な教師ばかりなのです。

そんな教師たちが生徒を守るために、いろいろな「モノ」を車に持ち込んで、警備をしたことが何度もあったそうです。「職務質問を受けたら、こちらが何て言えばよいのでしょうか?」と冗談を言いながら。

モノを持っていようが、戦う訓練をしているのではないので、こちらの生命が危険なわけです。それでも、子どもたちのためにできることをしようと。

幸い、犯人と出くわすことがなかったそうですが、こういう学校や教師もいるのだなあと感心しました。

生徒や親の知らないところで、教師も体を張ることがあるのです。

 
■雇用創出を阻む合理的な考え方 2010年01月21日

雇用創出と聞いて、ずっと前に聞いた話を思い出しました。

場所はどこか忘れましたが、公園としましょう。公園では、設置されたいくつものゴミかごからゴミがあふれて散乱するくらいゴミを捨てる人が絶えなかったそうです。

そこで、公園設置者は思い切ってゴミかごを撤去するという画期的な方針に切り替えました。

ゴミかごが無くなれば、ゴミを捨てる人が減るという考え方があり、実際に効果があがったそうです。

しかし、今までゴミの片付けや公園の掃除をしていた人たちが一気に仕事を失うことになりました。もちろん掃除をしていた人たちの家族もその影響を受けることになりました。

税金の無駄使いと言われる大きな組織ではなく、はたから見ると、何をしているのかよくわからないけれども、ずっと続いてきたような目立たない仕事は合理的な考え方によって、どんどん減少してきたように思います。

あの仕事にどうしてお金を支払うのか?
ほんとうに必要な仕事なのか?
正規に採用されているのか?
合理化できないのか?

合理的と思えるようなことは必ずしも、道理にかなっているわけではありません。

雇用創出のカギはこのようなところにあるのだと思います。ややこしい理屈をつけなければ本当に簡単な事だと思います。





 
■東三河大学・穂国大学構想はないのか? 2009年09月23日

「愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果」からつづく。

ただ、法科大学院は名古屋市にあります。豊橋ではありません。車道ですので、以前の名古屋校舎の位置になるのでしょうか。法学部も豊橋にはありません。以前は豊橋校舎にありました。

笹島キャンパスへの移転にともない、豊橋の愛大ではなく、名古屋の愛知大学というイメージが強くなっていくのでしょうか。将来的には本部も名古屋になる可能性は高いと言えます。

学部を切り売りのような格好で、失っている状態が続いています。手遅れにならないうちに豊橋市は手を打つべきです。早いうちに。(豊橋市だけの問題ではありません)

私は、愛知大学や名古屋が嫌いなわけではありません。愛知大学が名古屋へ大学の中枢をシフトしていくのであれば、豊橋校舎はもたないのではないかという危機感を持っているのです。

愛知大学豊橋校舎、創造大学、新城大谷大学、そして国立の豊橋技術科学大学と協力して、東三河の総合大学(名称は穂国大学で

もいい)、としてあらたな出発をしても良い時期だと思います。

のんびりした東三河人の性格は好きです。しかし、気がつけば、文科系の大学が無くなっていたということにならないように。人がいなくなることを意味しています。早く手を打つべきです。教育・医療・福祉・産業など、各市町村が現在の地方行政レベルよりも大きな意識を持つべきです。
 
■愛知大学法科大学院、平成21年新司法試験結果

受験者41名中合格者20名(平成20年は35人中16名合格)
合格率48.78%(全国5位)
私大のなかでは1位(平成20年は私大で3位)

受験者(既修者)21名 合格者12名
受験者(未修者)20名 合格者8名

既修者合格率 57.14%
未修者合格率 40%

愛知大学法科大学院のHPにも書いてありましたが、法科大学院を修了しても法曹に進む者が少ないという現実には違和感があります。育成のシステムに問題があるのか、司法試験のあり方に問題があるのか、それとも両方に。

法科大学院のありかたとは異なりますが、愛大の学部卒業生の人数が何人いるのかは気になるところです。元々、愛大の法学部は中部地区では最も長い歴史があるそうです。自前で育てる能力がどれくらいあるのか興味があります。

内訳はわかりませんので何とも言えませんが、関東の有名私大相手によく頑張っているという印象をもちました。分母によって大きく結果が異なるという見方をする人もますが、この場合、必ずしもそうとは思えません。

※データは関係機関発表のものをご確認ください。

 
■短を以て敗を取るは、理数の常なり 2009年04月29日

学習でも、スポーツでも、子供の長所をみつけて、伸ばすことをよくいわれます。しかし、この言葉には大きな落とし穴があります。

短所はどうするのでしょうか?

長所を伸ばしただけで、すべての大きな短所が無くなるわけではありません。バランスが大事なのです。

政治家、官僚、教師、芸能人、財界人、スポーツ選手などの考えられないのような不祥事はいったいどこからくるのでしょうか。子どもたちの行く末が不安になります。

「羽(※関羽)は剛にして自からほこり、飛(※張飛)は暴にして恩なし。短(※短所)を以て敗を取るは、理数の常なり」『三国志』

 
■三重中京大学・短大廃止の方針か? 2009年04月23日

1982年(昭和57年)の開学ですので私が高校を卒業した年になります。

出生率の低下による18才人口の低下の予測はすでに指摘されておりましたが、どのような将来設計であったのでしょうか。

在学生卒業するまでは廃止にはならないようなのですが、一部の職員は職を失うことになるでしょうし、結局もっとも割を食うのは学生といえるでしょう。

受験生やその親は、大学の定員と在学生をしっかりと把握する必要があります。

 
■白紙の答案 2009年04月13日

白紙の答案用紙から

何を読み取るのか?
何を見るのか?

言ふは易いけれども、その奥に潜むものをしっかりと見つけることはそう簡単ではありません。

見つけようとする姿勢が大事なのです。

 
■大人の犠牲になる若者たち 2009年04月09日

愛知大学野球連盟では、引き抜き対策として、転学した選手のリーグ戦出場は認められていません。

新城大谷大学硬式野球部員13名のうち、9名が同朋大学へ、1名が愛知学泉大学へ転学したそうです。残り3名はどうなったのかわかりません。

今回の場合は、引き抜きではなく、廃部による選手救済のための転学であり、特例の措置が期待されていましたが、理事会で2校が反対したために、春季リーグ戦への参加は認められないこととなりました。

ただし、秋季リーグへの参加は認められるそうです。大いに感謝だと思います。

わたしは、春季リーグ戦への参加を認めないという措置はやむを得ないと思います。規約に沿っているのですから。不都合があれば規約を変えるべきですね。

彼らがこの経験から何を学ぶかが大事なのです。春季がどうなるかわかりませんが、上へ上がるための原動力となり、起爆剤となれば、無駄ではありません。


かつて愛知大学野球連盟分裂騒動の時も、いろいろあったようですが、硬直的な体制のため、結局学生が犠牲になったように思います。規約を作るときは、あらゆる状況を想定して救済的な抜け道を設けておくべきです。

大人の思惑によって若者が犠牲になるのです。

 
■ガンバレ新城大谷大学の学生 2009年03月30日

2008年創部の新城大谷大学硬式野球部が、今年廃部になりました。大学の経営難が理由ですが、集められた一年生たちはどうなってしまうのでしょうか。

これは、野球部だけの問題ではありません。他の学生についても同じようなことがいえます。

新城市のバックアップの元に、1999年に誘致されて短期大学としてスタートし、2005年には4年制大学となり、社会福祉学部社会福祉学科を設置しました。

学校法人尾張学園は経営難を理由に手を引き、困った新城市が何とか存続させようと頑張っているとこです。経営が目的の学校法人ですから、やって行けなければ手を引くのは仕方がないと思います。

最終的には自分で選んだのですから、仕方がないとは思いますが、現役の学生には罪はありません。

人生の高い授業料だと思って、学業に専念してもらいたいものです。日本の将来の福祉のためにも。

新城大谷だけではなく、このような問題がおきたとき、いつも疑問に思うことは、経営サイドがどの時点で、あるていどダメだという判断をしたのかということです。決定的となってからではなく、それ以前の段階で見通しがつくと思うのです。博打ではないのですから。募集と関わってくる問題なので、とてもデリケートな部分ですが。

新城市が引き受けるのだということであれば、最後までしっかりと面倒を見てもらいたいものです。

そして、知恵を出して多くの人に協力していただいて、存続できるのであれば、奥三河唯一の大学として頑張ってもらいたいと思います。でも、福祉だけではしんどいのでは。

道を探すためには、人を見つけることです。

 
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