■山本八重のスペンサー銃?2013/01/06
■ウィンチェスター銃かヘンリー銃か? 2012年12月10日


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■山本八重のスペンサー銃?2013/01/06

山本八重が持っていたという七連発のスペンサー銃について、疑問があります。

それは、入手方法です。

山本八重がスペンサー銃(騎兵銃だと思いますが)を持っていたことは、『婦人世界』11月号(明治四十二年)の回想録によってわかっています。

銃の入手方法については、『会津おんな戦記』に兄の山本覚馬が長崎で購入し送り届けたとあります。しかし、元ネタ(原史料)がわかりません。

書名は忘れましたが、山本覚馬の長崎土産と書かれていた記憶もあります。

入手方法など気にしなくてもという方がいるでしょうが、入手経路が不明となりますと、存在自体が怪しくなるのです。

山本八重がスペンサー銃を持っていたことを確認しようと、手元にある本を探してみましたが、見つかりません。会津関係は数冊しかありません。

傍証も見つからないのです。(傍証があれば見てみたい)

本人の回想録でじゅうぶんということにしたいのですが、気になる記事があります。『史実会津白虎隊』に、昭和元年に八重から『会津戊辰戦争』(未見)の著者平石弁蔵に宛てた手紙の内容が載っています。これには、八月二十三日の夜襲に出るとき、高木盛之輔の姉に髪を切ってもらい、「両刀をおびゲベール銃で出て大いに打った」とあるのです。この内容はスペンサー銃の間違いではないのかと、『史実会津白虎隊』を読んだ方のうち何人かは私と同じ疑問を持ったと思います。

スペンサー銃とゲベール銃(前装式)とではまったく異なります。
       
ここでは次のように考えられます。

@ゲベール銃は記憶違いでスペンサー銃だった。
Aスペンサー銃は記憶違いでゲベール銃だった。
B八月二十三日の夜襲はゲベール銃だった。

明治四十二年と昭和元年の記憶とどちらが信憑性があるのかという問題もありますが、どうなのでしょうか?

この手紙には、白虎隊士として自刃した伊藤悌次郎にゲベール銃の使い方を教えた話や13歳の時四斗俵を四回も肩に上げ下げした話が書かれています。同じような内容の記事が、昭和十三年発行の『明治戊辰七十年を記念して』(福島県女子師範学校、デジタル版)にあります。ここでは、伊藤悌二郎は隣家とあります。平石弁蔵宛の手紙の内容は、昭和元年から十三年までの間に、どこかに公表されているのでしょうか。そうであるならば、八重がゲベール銃で戦ったという内容も出ている可能性がありますが、これはどのように取り扱われたのでしょうか?

会津藩は隊長(あるいは者頭とも)にはスペンサー銃を持つ者がいたそうですが、これも出典を知りません。

会津戦争の研究者や郷土史家の方であれば、ご存じかと思いますが、おわかりの方がいらっしゃいましたらお教えください。


ちなみに、会津城に籠もって戦った郡上藩凌霜隊の主となる銃はスペンサー銃であり、少数のスナイドル銃を予備としたそうです。

※会津城には三州吉田の人も籠城しています。

会津おんな戦記  史実会津白虎隊 

 
■山本八重のスペンサー銃(2)2013/01/11

私は30年以上疑問を持ちませんでしたが、確かに、会津藩の戦いは甲冑姿で刀槍が主であり、火力は旧式の大砲や火縄銃ばかりであったというイメージを強く持っている人にとっては、会津藩の一女子がスペンサー銃を所持して撃ちまくる姿はとうてい想像できないと思います。

山本八重のスペンサー銃の入手経路を調べていくと、政治的に敏感な京都で要職に就きながら、なぜ、会津藩は洋式への兵制改革をスムーズにおこなわなかったのかという根本的な疑問にぶつかると思います。山本覚馬はすみやかに兵制改革がおこなわれるように動いていたと思いますが。

時代の趨勢に反応する柔軟性の欠如と至誠がセットになってしまったが故の悲劇です。すばやく身動きの効く小藩であるか、長州藩のように一度でも西洋の大砲や銃によってコテンパンにやられていたら、あるいは違っていたのかもしれません。

 
■山本八重のスペンサー銃(3)2013/01/12

山本覚馬が元ごめ式の銃を買い付けに長崎に行き、その長崎から八重の元にスペンサー銃を送ったという話しと、長崎のお土産という話しがあります。慶応2年に長崎行きは藩命ですが、出典がわかりません。

インターネットで、調べていますと、『近代日独交渉史研究序説 最初のドイツ大学日本人学生馬島済治とカール・レーマン』(荒木康彦著、雄松堂出版、2003年)の書評(『日本歴史』第684号)にヒットしました。

★雄松堂出版のサイト
http://www.yushodo.co.jp/press/kindai/review.html

カール・レーマンは覚馬が交渉相手としたドイツの武器商人です。長崎運上所史料などに関係史料があるそうです。会津藩と桑名藩が契約したプロシア製のドライゼ銃(別名ツンナール銃)は世界初のボルトアクション式の元込銃で、普墺戦争(1866年)におけるプロシアの勝利に貢献したそうです。

さすが覚馬、最新式の銃を注文していたのですね。

山本覚馬を研究している人にはおなじみの史料なのかもしれませんが、いつか見てみたいと思っています。

★幕末の銃器のサイト
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/27/rifle-gun.html

こうしてみますと、スペンサー銃の入手経路は山本覚馬サイドから追ったほうが良いのかもしれません。

青山霞村『山本覚馬』同志社 1928
青山霞村『山本覚馬伝』田村敬男編 京都ライトハウス 1976(『山本覚馬』と内容はどうなのだろうか?)
竹内力男『山本覚馬覚え書』佐賀県立図書館 2002

あとは、同志社大学にあるらしい新島八重の回顧談か?

新島八重子回想録
新島八重子刀自懐古談


近代日独交渉史研究序説   

 
■山本八重のスペンサー銃(4)2013/01/14

書店に並ぶ山本八重関係の書籍(ムックも)に目を通しましたが、スペンサー銃の入手経路の出典がわかりません。図書館では貸出中が多く見ることができません。すごい人気です。

あきらめかけて、新書を手にしました。

それが、『八重と会津落城』(星亮一著 PHP研究所 2013)です。

書名を忘れましたが、慶応2年に藩命により中沢帯刀と銃の買い付けのために長崎に行ったという内容の文が載っていました。この出典もわかりません。

しかし、同書には、慶応3年2月に元込銃1000丁の注文に関する『会津藩文書』、山本覚馬と中沢帯刀がカール・レーマンと一緒に兵庫まで来たこと、その後の交渉の経過などが紹介されています。

注文した銃はドイツ製(プロイセン製)のドライゼ銃ですが、長崎から山本覚馬と中沢帯刀が持ち帰った7挺の元込銃のなかにはスペンサー銃が入っていたのでしょうか?それとも、直接長崎から八重の元に送られたのでしょうか?

武器を直接長崎から会津まで送ることは想像ができません。長崎で購入した銃を送り届けたというのは、京都までいったん持ち帰ったものを会津まで送ったという意味でとらえた方が自然ですが、どのような方法で送ったのかという疑問は残ります。

会津藩がカール・レーマンに注文した元込銃に関する文献が、同志社大学にあるそうです。文献名は記されていません。同志社大学には資料が豊富にありそうですね。

注文数の4300挺に関しては他藩も合わせてなのでしょう。内訳は次のようになります。

会津藩 1300挺
紀州藩 3000挺 内300挺を桑名藩へ

しかし、時すでに遅く、会津藩が注文した銃は新政府軍に押さえられてしまったそうです。
どこで押さえられたのでしょうか?

★八重と会津落城★

 
■山本八重のスペンサー銃(5) 2013/02/05

地方の人間がどこまで迫ることができるのかということで、
やってきましたが、
やはり同志社に求めているものがあるのかなと思ってはいます。

手詰まりになりましたのでここらでおしまいにします。

スペンサーの弾100発の話しも、本人しか知り得ないような情報なので、
『新島八重子刀自懐古談』
ここらへんだろうと思っていました。

最後に書店で手にとった一冊です。

『NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 八重の桜』

ムック的なつくりのなかでは、私はよいと思いました。
しっかりしていると。(ムックでなかったら失礼しました)

書籍でもムックでも、
取材元、出典
執筆者

最低限これらの情報があると使えますが、
今まで聞いたことのない情報であっても、
ネタ元がわからなければ、怖くて使えませんね。

大河ドラマは40年以上好きで見ている(見ないときは全く見ない)ので、
目くじら立てて内容を問題にすることはしません。(教養番組なら別ですが)
それよりも、これは史実か本当かと、調べるのがおもしろいのです。

NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 八重の桜

 
 
■ウィンチェスター銃かヘンリー銃か? 2012年12月10日

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公は新島八重です。

ある資料館でおこなわれた幕末の洋銃展での出来事です。

スペンサー銃と説明書きのある銃を見て違和感を覚えました。

丸毛利恒(靫負)が上野戦争で携えていた七連発の銃というものを記憶していたので、あーこれかとしばらく見とれていたのですが、アレッと思って何度も見直した。私は銃には詳しくないのですが、西部劇で見ていたウィンチェスターはさすがにわかりました。

その銃は、ウィンチェスターのように銃身の下に弾倉がありました。二段になっていたのです。

家に帰り、HPで調べてみますと、スペンサー銃の弾倉は銃床の中にあり、展示されていたものとは明らかに異なっていました。

そこで、すかさず資料館にメールを送ると、表示は誤りであり、ウィンチェスター銃のようだというメールが返ってきました。

しかし、どうもスッキリしません。

携帯で写真を撮る習慣が身についていないので、写メというものをまったく思いつかなかったのが悔やまれました。

記憶を思い出そうとするのですがどうしてもはっきりとしません。

弾丸を込める穴が横に付いていたかどうかが。

横に付いていれば、ほぼウィンチェスターに間違いがないでしょう。

付いていなかったとしたら?

調べましたら、ヘンリー銃の可能性もあるかと思うようになりました。しかし、長さが短いので違うような感じがしました。

弾を込める位置によってはヘンリー銃の可能性もあることを指摘し、判明したら教えて頂きたいという内容で再度メール送りました。

返事が無いまま半年以上が立ち、とっくに忘れていましたが、来年の大河ドラマのことでで思い出しました。


私としては山本八重が所持していたという七連発のスペンサー銃を見てみたかったのに残念でした。

 
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