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お蔭様で、【ツーリバーズ袴田】{二川(ふたがわ)駅徒歩八分}は、満室です。
 市内のJR東海道本線・二川駅から旧東海道を東へ徒歩八分、県下最東端の宿場町である海道三河国二川宿の旧道の南で県道404号線に面する「ツーリバーズ袴田」(全八戸)は、現在、満室です。。

※場所 市内大岩町字西郷内(にしごうない)。二川の大岩神明宮下。2階建。警察署前。

管理会社は、東建コーポレーション株式会社。※参照 (サイト)。括弧内からリンクしています。

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室町公方と関東公方

 足利時代は、能や狂言など武家の日本文化が発達した時代である。足利氏は下野国足利(栃木県足利市)を本貫とする清和源氏である。ちなみに関東管領の上杉氏は丹波国上杉荘(京都府綾部市上杉町)を本貫とする勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏の武士である。
 この時代は、京(京都府京都市)の足利氏の義詮家の征夷大将軍の他に、東国にも基氏家の関東公方が置かれていた。15世紀、永享の乱の後、関東公方が足利成氏(しげうじ)公{八犬伝では(なりうじ)}が関東管領上杉憲忠(のりただ)公(山内上杉家)を殺害して相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)にいられなくなり、下総国古河(こが)(茨城県古河市)へ移る。これがまさに享徳の乱である。都の八代将軍義政{元は義成(よししげ)であり、成氏の成の字はこの人から下されたものである}公は異母兄政知(まさとも)公を関東に下したが、政知公は伊豆国堀越(ほりごえ・ほりこし)(静岡県伊豆の国市)にとどまり、伊豆国以東に古河公方(八犬伝では滸河公方)と堀越公方が両者いるようになる。南総里見八犬伝で知られる里見義実公は古河公方側であり、上杉氏や駿府(静岡県静岡市)の今川氏は堀越公方側である。しかし、これは元号が文明の時代に京の第九代将軍義尚公が古河公方を認めて乱は収まる(都鄙合体)。その後、明応の政変で堀越公方政知公の子義澄(よしずみ)公が京の第十一代征夷大将軍になり、また、駿河国興国寺城(静岡県沼津市)の北条早雲公が義澄公の兄茶々丸公を襲撃する。一時的には前将軍足利義材(よしき){義稙(よしたね)}公が将軍に戻るものの、それ以外は堀越公方てあった政知家が最後の第十五代義昭公まで山城国の京の征夷大将軍を世襲するようになる。
 こうやって、歴史を見ると関東の歴史と近畿の歴史はつながっているのだなと思う。

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三河国吉田藩

 豊川と朝倉川の合流地点の南に有る豊橋公園(愛知県豊橋市今橋町)は三河国吉田藩の吉田城址である。東国の江戸幕府が支配する徳川時代、吉田藩は全国に2つ有った。ひとつは本州島の豊橋のことである三河国(三州・参州)吉田藩で、もうひとつは1657年(明暦3年)に立藩{1696年(元禄9年正式立藩)}した四国の伊予国(予州・豫州)吉田藩(三万石)である。こちらの藩は愛媛県宇和島市吉田町の伊予国吉田陣屋を本拠地とし、本拠地が伊予国(予州・豫州)宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)である四侯会議に列席した本藩宇和島藩の伊達宗城(むねなり)公と異なり、戊辰戦争で佐幕派であった支藩の伊達宗孝(むねみち)公の藩である。無論、三河国吉田藩はこの伊達吉田藩とは関係無い。
 三河国吉田城ができたのは1505年(永正2年)のことである。豊川市牧野町(旧宝飯郡)を本貫とする牧野古白(成時)公が今橋城として築城した。そして、天正時代に太閤殿下によって入城した池田輝政(照政)公によって改築された。徳川時代に入って、小笠原壱岐守忠知公は城の周りに惣濠を造り、水濠にした。1869年(明治2年)、三河国吉田藩は豊橋と改名し、伊予国吉田藩は吉田の名を残した。

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日光

 栃木県日光市山内に日光東照宮が有る。ここは、徳川時代には下野国都賀郡日光という地名であった。何と言っても「日光見るまで結構言うな」の名文句で知られる。
 元和3年(1617年)、大樹公(徳川将軍の別名)の徳川秀忠公(台徳院)により、駿河国の久能山(静岡県静岡市)から改葬したと言われる。その後、徳川家光公(大猷院)によって絢爛豪華な現在の社殿ができたと言う。
 本来、東照宮は山王一実神道による東方の浄瑠璃浄土の薬師如来を本地とするお宮さんである。東国の守護神として祀られた。徳川家康公は三河国設楽郡の鳳来寺山(愛知県新城市門谷字鳳来寺)の本尊薬師如来に尾張国知多郡出身の於大の方(伝通院、菩提寺は武蔵国江戸の東京都文京区小石川の無量山伝通院)が祈願して生まれたと言う伝承も有り、この伝承の世界ではこの山の寺の本尊こそ戦国を天下泰平に導いた権現さまの正体とすることと成る。
 しかし、日光は、武蔵国江戸城(東京都千代田区)の真北に当たる。嫡々(チャキチャキ)の江戸ッ子からすれば、北に居る守護神のため、正統派の薬師信仰とは異なり、仏教の妙見菩薩信仰や神道の天之御中主命(アメノミナカヌシノミコト)信仰と重なった面も有るかも知れない。

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東京都南多摩(みなみたま)地区

 我が母校の中央大学は、東京都三多摩地区の南部の南多摩の東京都八王子市東中野に有ります。江戸時代は武蔵国多摩郡の一部でした。明治維新後は神奈川県へ編入され、明治22年(西暦1889年)の町村制施行の時は神奈川県南多摩郡由木村でした。明治26年(西暦1893年)4月1日に東京府へ編入され東京府南多摩郡由木村となり、昭和18年(西暦1943年)都制施行により東京都南多摩郡由木村になりました。昭和半ばに村民が八王子市合併派と日野市合併派に分かれたため住民投票を行い、その結果、昭和39年(西暦1964年)8月1日より八王子市へ編入されております。
 ちなみに、武蔵国八王子の中心部は次の通りです。明治維新後は神奈川県へ編入されたのは中央大学の校地と同じです。明治22年(西暦1889年)の町村制施行で神奈川県南多摩郡八王子町と成り、明治26年(西暦1893年)4月1日に東京府へ編入されて東京府南多摩郡八王子町となります。大正6年(西暦1917年)、東京府下では東京府東京市に次ぐ第2の市として市制施行し、東京府八王子市と成ります。当時の東京市は15区時代ですから、現在の品川区も目黒区も新宿区も渋谷区も東京市ではなく郡部(品川町や目黒町は東京府荏原郡、内藤新宿町や渋谷町は東京府豊多摩郡、但し、品川駅は現在の東京都港区高輪(たかなわ)なので当時は東京府東京市芝区高輪南町)の時代のことです。大正末期の郡制(法律)廃止後、昭和15年(西暦1940年)に東京府北多摩郡立川町が市制施行して東京府立川市となり、この時点では東京市(35区時代)や八王子市とともに東京府には3市が有りました。昭和18年(西暦1943年)都制施行により、東京市が廃止されて23区に分かれ八王子市は存続したため、東京都八王子市は東京都下では東京都立川市と2市となりました。その後、三多摩に次から次へと市が誕生しました。平成12年改革で特別区は市町村と同じ基礎的自治体と成って(地方自治法281条の2第2項)、八王子市は東京都下の区市町村として特別区と対等の立場です。
 日本の多くの地域の方々は南多摩と言うイメージが湧かないようです。東京都は47都道府県のひとつです。しかし、多くの方々は東京と言えばかつて東都と呼ばれた江戸を中心とする東京府東京市すなわち現在の23区のみ(杉並区や中野区は元は東多摩郡)を考え、三多摩や島嶼(とうしょ)部が忘れられております。三代住めば江戸ッ子の23区に振り回されるのは仕方の無いことなのでしょうか?三多摩はかつては武蔵国に所属しておりました。その意味では、基礎的地方公共団体となった23区でも、下総国葛飾郡であった隅田川の両国橋の東岸{江戸の趣きの有るかつての東京府東京市本所区・深川区(現在の東京都墨田区・江東区の一部)も含めて}の4区とは異なり、現在の皇居と成って居る江戸城(東京都千代田区)(武蔵国豊島郡)と同じ国です。しかし、どうも令制国では多くの方々は今一つピーンと来ぬようです。島嶼部は多分、江戸時代は伊豆国に所属しておったと思われます。




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