1985年、オートバイレース史上に今も語り継がれる伝説が誕生した
真夏の鈴鹿。グランプリを引退した"KING"ケニー・ロバーツと、誰もが認める日本のエース平忠彦のコンビは、圧倒的な走りで15万の観衆を酔わせ、そして劇的なリタイアですべてのレースファンに強烈な印象を残した・・・
この年以降、ヤマハはすべてのベクトルを平忠彦を8耐で勝たせることに向けたチーム編成を続けた。しかし、80年代のヤマハワークス唯一の勝利は、皮肉にもケガのために平が監督として参加した87年だけ・・・ヤマハの努力はことごとく悲劇を増幅させただけだった
いつしか平+テック21チームの優勝は日本のレースファンすべての悲願になっていた。毎年何十万という観衆が押し寄せては「テック21、ストップ」のアナウンスに悲鳴を上げた
1990年、ついにその男が8耐にやってきた。このシーズンのグランプリ序盤でケガをし、タイトル争いから外れたエディ・ローソンがAMA時代と同じゼッケン21の4ストロークマシンを走らせる
かつてない緊張感が鈴鹿サーキット全体を覆い尽くす。この異様なテンションのせいか、ワイン・ガードナーはまさかの転倒を喫してしまう
それでもローソンはペースを落とさない。そして205周という驚異的なレコードで平に8耐で初の栄冠をもたらした・・・
このあまりにも完璧なストーリーのエンディングは、一つの時代の終わりを感じさせるに十分すぎるものだった
翌年、8耐には平の姿もチームテック21の姿もなかった
ライダーはもちろん、ファンまでが”卒業”や”潮時”というものを感じ始めていた・・・
やがてGPのレギュラーは8耐を敬遠するようになり、国内ではJリーグが若者の注目を集め出していた。時あたかもバブル崩壊のこの頃から、サーキットに集まる観衆は急速に減少していった
あの夜、エディ・ローソンが受けたチェッカーは、80年代の日本で突如わき起こった”バイクブーム”が終焉を迎えたというサインだったのかもしれない
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