渥美半島の酪農の歴史

愛知県 田原市は日本列島の中部地方に位置し 太平洋に囲まれた半島であることから、渥美半島とよばれています。
農業が盛んで、市町村別の農業出荷額は、全国1位。酪農の生乳出荷量においては全国18位愛知県内では1位(平成30年)となっています。

今でこそ、農業や酪農が盛んな渥美半島の昔はどうだったのでしょうか。



渥美半島の酪農の始まりは、1924年(大正13年)以降の97年前

それまで、この地方は、気候こそ温暖ではあるが交通は不便で、そのうえ水利にも雇用の機会にも恵まれなかった。水田が少ないため、サツマイモや麦類を栽培しながら、酪農の盛んな静岡県地方から副業として子牛を買い入れて育成し、その畜肥で土地を肥やし、成牛にして売って生活費にあてる習慣が続いていました。

この年、村の村長がこの地方の地力のないやせた土壌を肥やし、農村の不況を克服するには酪農を取り入れるのが最善の方法であると判断し、
酪農講演会を開き、村人たちの目を酪農経営に向けさせたのがその発端となりました。

翌年には、他県より乳牛・種牛を導入し、分娩させ搾乳が開始

当時は法律により、共同搾乳所へ牛を連れていき、搾乳をしていました。


1926年(昭和元年)牛乳販売所を石神町に設置。 翌年には、同じ石神町にバター・市乳(流通するための牛乳)の加工工場が建設されました。

1935年(昭和10年)には、法改正に伴い、共同搾乳所から、自家での搾乳が可能となりました。

石神の工場は、馬伏に移転拡張、牛乳加工に力を入れ、クリームの製造も始めます。皇太后陛下にバターを献上したこともありました。

昭和13年には、当時酪農業界の発展を見越した中央製乳株式会社が豊橋市に建設され、三河地方の酪農の発展に拍車をかけました。

しかし、昭和20年の終戦後、極端な食糧・飼料不足・乳牛の疎開や不安や動揺などの悪条件が重なり、少しずつ増えていた乳牛頭数は次々と減りました。

1947年(昭和22年)には工場を拡張し、当時は集めた牛乳を、生クリームとさ乳(子牛に与えて育てるためのもの)に分離していました。また、市乳をビンにつめ、自転車で配達。また、当時は需要が少なかったバターは大きなビンに入れられ、穴蔵に保管されていました。

ですが工場経営は苦しく、昭和31年には雪印㈱渥美工場へと運営移管。練乳加工を行っていましたが、その後渥美工場は閉鎖となり、豊川工場へと移管されました。

何か新しいものをと多くの人が挑戦しましたが、やってみると難しく、また、温室のほうが儲かるなどとも言われ、やめていく人が多かった酪農。1957年 昭和32年には、188あった戸数も年々減少していきました。

ですが、苦難を乗り切り、世代に渡って酪農の知識・技術を身に付け、何よりこの仕事が好きで続けていく酪農家が多くあり、わずか数頭の牛を飼う酪農から、百頭単位の酪農経営へと移り変わっていき、出荷乳量は増えていきます

平成16年~17年頃には頭数、生乳出荷量はピークになり、現在はわずかに減少しながらも、平年並みを維持しながら生乳を出荷しています。

渥美半島の牧場の牛は、一頭当たりの生乳出荷量は他地域と比較すると多いのも特徴。

地元に根付いた優秀な獣医さん、知識や新しい技術を提供してくださる専門業者。様々な方々に支えられているこの地域の酪農牧場は、飼養管理の技術が高く、質の良い生乳出荷を続けています。

 


※以上の情報は、渥美酪農協同組合の創立50周年記念誌「あつらくのあゆみ」と、渥美酪農農業協同組合からお聞きした内容をもとに、編集しました。


畜産業と共に歩み、良質な農作物が豊富に栽培されている土地へと発展していった渥美半島の歴史も、うかがえますね。

 

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