☆第一章 今橋城誕生(後の吉田城)

豊橋市は江戸時代吉田藩の城下町でした。古くは1505年長山一色城主牧野古伯が
今川氏親の命を受け築城した今橋城がはじまりです(古伯は出家後の名前であり、
牧野成時と言った)
築城翌年(1506年)松平長親に攻められ牧野古伯は討死、松平長親に当時それだけの
力があったか疑問で、北条早雲が攻めたのではないかとか諸説あリ定かでない。

☆第二章 吉田城に改名

その後田原城主戸田金四郎が城主と成っていたのを、1519年牧野古伯の一族が奪還
して吉田城と改めた。
岡崎の松平清康との戦で、牧野一族は敗れ衰退、一時今川氏が吉田城に城代を置いて
30年近く納めた。
今川義元が桶狭間にて織田信長に討たれ、吉田城は徳川家康は配下の酒井忠次に
(1565年)吉田城を与えた。

☆第三章 池田輝政入城と関ケ原後の吉田城

1590年~1601年池田輝政が152,000石で移封、豊臣秀吉による小田原城征伐の結果
北条家は(1590年)滅亡し、家康が北条家遺領の関東に転封となり、その時吉田城は
大幅に拡張されたのである、関ヶ原の戦いで東軍に属し(1600年)論功行賞によって、
1601年播州姫路520,000石を与えられ吉田城の戦国争乱時代は終わり、以降は中小
藩主となり天守閣も造らなかった。池田輝政がそのまま居たら、大大名らしく大きなな城郭を
構え立派な天守閣も建てていただろうと推察しているのは私だけだろうか。

第三章 石垣の刻印の謎と歴代藩主

1601年武蔵八幡山より竹谷松平家清氏30,000石で入城
その忠清に後嗣なく絶家となる(弟が宝飯郡中5,000石の旗本となり明治まで続いた)
吉田城の石垣には名古屋城創建の際の残石を転用したので、各大名家の刻印の石が
吉田城に多くあり、近年の調査で57種類発見された(注高橋延年・後藤清司調査参考
松平忠利の代の石垣)と思われる。
1617年~1632年三河深溝より松平忠利30,000石で移封となる、忠房三河刈谷転封
1632年~1632年三河刈谷より水野忠清40,000石で移封となる。(途中5,000石加増)
水野忠清信濃松本に転封。
1642年~1645年駿河田中より水野忠善45,000石移封となる、忠善三河岡崎に転封
1645年~1697年豊後杵築より小笠原忠知45,000石で移封、この年お茶の宗偏流で
有名な山田宗偏、小笠原家に仕官する。長重京都所司代から老中となり武蔵岩槻へ
転封となる。
1697年~1705年丹波亀山より久世重之50,000石にて移封となる、若年寄就任後、
下総関宿に転封となる。
1705年~1712年牧野成春下総関宿より80,000石にて移封となる、日向延岡に転封
となる。
1712年~1729年松平信祝下総古河より70,000石にて移封となる、信祝大阪城代となる
遠江浜松に転封となる。
1729年~1749年松平資訓遠江浜松より70,000石にて移封となる、京都所司代になると
同時に遠江浜松に転封となる。
(当時浜松城主は老中に任命され事が多く出世城と言われていた)
1749年~1869年松平信復(大河内松平)遠江浜松より70,000石より移封となる。
信古の時大政奉還となり(慶應3年)その後藩籍奉還を奏請(明治2年)して吉田藩の
大名家の統治は終わりを告げた。

☆第四章 近世(吉田)豊橋
明治維新後、吉田は豊橋と改名されると共に、城の敷地は兵部省の管轄に。
1873年に失火により大半の建物を焼失した。
1875年(明治8年)には大日本帝国陸軍歩兵18連隊が置かれ、豊橋は軍都として栄えた。
太平洋戦争後は一部を除き、豊橋公園として整備、1954年の豊橋大博覧会の時、隅櫓が
模擬再建されました。
戦後18連隊の木造建物を、現在の東館本庁舎が出来るまで、一部市役所庁舎と利用して
いて、松の巨木を使い頑丈な建造物で懐かしく思い出します。
豊橋公園には、18連隊時代の歩哨など一部遺構が残っています。


 
















我がふるさと吉田城の歴史