「想人」第十四話 悲恋

(1)
 ユウは手足をばたばたと何かに抵抗するように動かしていた。呼吸できず、水を飲んでは吐いていた。どうしたら、この水底から脱出できるのかを冷静に考えることができず、何度も水を飲み込んで、手足をバタつかせていた。冷静に考えれば、通常の海では、すぐに溺れてしまっている状態であるのに、今のユウには、恐怖だけが先になって、何も考えられる状態になっていた。何度も水を飲んで、ゴホゴホむせて、口から感じる塩味の感覚だけが頭の中を行き来していた。


「どうも、塩水の中で尋問をするボラー式がこの地球人には合わないようですね。このままでは、ショックで死んでしまうこともあります」

「通常、羊水の中に近い環境で行うこの方法は、人にリラックスを与えるはずなのですが、水に対して恐怖心がある者に対しては、不向きです。この地球人は、過去に、よほど水に対する嫌な記憶があるのでしょう。別の方法に切り替えますか?」

「一旦停止して、体調を整えた方が良策だろう……」
 スヴァンホルムは、目の前の水槽で、何度も溺れている体験を繰り返しているユウを引き上げるように手で合図を出した。無造作に引っ張り上げられたユウは、まな板のように硬そうな簡易ベッドに乗せられた。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ、お父さん……」
 かなり狭い間隔で、息を吐き続けてユウの言葉を聞き取ったスヴァンホルムは、もう一度ユウの姿を見た。小さい子どものようにうずくまって、震える体を両手で抱きかかえている姿は、必死に何かに耐えているようだった。

「少し、温めてやれ」
 スヴァンホルムは、そう言うと、尋問室を後にした。



 
「引き止めたこと、心苦しく思っております」
 進は、招かれたガルマン・ガミラス戦艦の一室で、一人の男と対峙していた。
「ですが」
 男は言葉を続けた。
「ボラー側と交渉したあなたを、総統のもとへこのまま行かせることはどうしても出来ませぬゆえ……、私・個人の考えの上でのことと理解していただきたい」

 ガルマン・ウルフと呼ばれ、昔、旧ヤマトで出会った旧敵を目の前にして、進は、男の行動の真意を探っていた。

 その黙る進の様子を見ながら、フラーケンは、言葉を続けた。
「ボラーとどのような話をされたのか、あなたの裁量の内で結構です。話していただきたい」
 目を伏せ、小さく礼をすると、フラーケンは唇を閉ざした。フラーケンの実直そうな姿は、何も裏がないことを進に感じさせた。

「何も進展はありませんでした。ボラーとガミラスと地球の関係は、そのままです。地球は同盟を組む意思はなく、逆に防衛目的以外の攻撃もありません」
 そう言いながら、進は、フラーケンの反応をうかがった。
 希望通りの答えだったのか、想定範囲内の答えだったのか、フラーケンは、失望も喜びもせず……ただ、小さくうなづいていた。

(いい武人だ)
 言葉どおり、このままガルマン・ガミラス本星へ危険因子を持ち込みたくないという個人的な考えからだと判断すると進の気持ちは楽になった。
 
 進は小さな礼をし、一番素直な気持ちを言葉にした。
「ありがとうございます。先ほどの戦闘のこと、ガミラスの庭のようなこの空域を航海させていただけること、ガミラスと何も条約のない我々へ過分な計らい、感謝しております」
 

 
「あれだけでよろしかったのですか?」
 進を見送ったフラーケンに、若い将校が声をかけた。

「これ以上の時間のロスを、彼らに与えるわけにはいかない。無駄な戦闘や行動ばかり強いられる……我々もよく体験した……地球連邦も彼らヤマトの乗組員も不安なのだ。不安は一つ一つ消していかなければならない。たとえ時間がかかっても。大きな視野に立てば、その無駄に見えたことは些細なこととなる」
 若い将校はまばたき一つせず、熱心に、フラーケンの言葉を聞いていた。
「先ほどの戦闘も……無駄ではないのですね」
 その言葉にフラーケンはにこりとした。
「そうだ。ヤマトの武器や戦闘パターン、またはボラーの戦力の調査に十分役立つ」
 若い将校は、キッと背を伸ばした。
「では早速、分析の者へ先ほどの戦闘資料を送ります」

 若い将校がすっと手を上げ敬礼する姿にうなずいたフラーケンは、スクリーンを見上げた。そこには、ヤマトの全形が映っていた。
「あなたに直接会えたこと、これ以上の収穫はない……古代艦長」



(2)
「艦長、この航路図のおかげで、かなり時間短縮できます」
 次郎は、進が持ち帰った航路のデータを見て、歓喜の声を上げた。
 第一艦橋の操舵席でデータを確認していた次郎は、すぐ横で、一緒にデータの確認をしていた進が少し微笑んでいるような気がした。
「ガミラスの司令官はどんな方で……すみません。でしゃばりすぎました」
 そこまで言葉に出したものの、自分がかなりはしゃぎすぎているのを感じて、次郎は話を止めた。
 次郎は、パネルのキーを押す動作をしながら、顔を伏せた。
 
「いろいろな戦場を知っている武人だ。そして、死んでいく部下を何人も看取っただろう」
 進が語った司令官像は、次郎が抱いていた進そのままであった。しかし、次郎は、そのことを言えなかった。
「危険因子をガミラス本星に送り込みたくないのだろう。確かに、ガルマン・ガミラスの中枢がどこにあるか、わからないようにしているからな」

「あの、艦長……」
 顔を上げた次郎は、次の言葉を続けることができなかった。聞きたい事があった。しかし、進の指先が、いつくしむように戦闘指揮席のイスの表面をやさしくなでているのを見ていると聞くことができなかった。
 戦闘班長の席……ユウの席だけでなく、若い頃の進の席でもあった。

「そうだ、次郎。島の、お前の兄貴の最期の話をしたことがなかったな」
 進は肘掛にもたれるように座ると次郎と向き合った。
「島大介は、ここで死んだ。私の手を握って……命が消えていくその瞬間をここで……。死んでしまった彼は、どんなに揺り起こそうとしても、目を開けてくれなかった。もう悪態もついてはくれなかった。直前まで人のことばかり心配して、偉そうなことを言っていたのに……」
 進は、自分の手のひらを眼前に持っていった。
「あいつは、最期まで、自分の操艦のことを自慢していた。弱音を吐けばいいのに、いつも踏ん張っていた。だから、俺も最期まで、あいつの操艦を信じていた」

 次郎は目を閉じた。

「なぜ自分は生き残ったのか、生きていく者は、その答えを出すために、自問自答を繰り返す。死んでいったもの達への唯一できることだ。失敗を成功の糸口にし、今、出来る限りのことをして、同じ過ちは二度と繰り返さない。二度と」
 自分に言い聞かせているような言葉をつぶやく進に、次郎は何も言えなかった。次郎はゆっくり顔を起こして、進を見た。

「まだうまく言えなくて、すまない。ただ、ここにお前がいることがうれしいし、お前が航海長になってくれてよかった。そこに座るのは大介だけだとずっと思っていたからな」
 少し恥ずかしそうに笑う進がいた。

(艦長が言葉に出して言うのは……)

「兄の最期のことを聞くことができて、よかったです。最期までおせっかい焼いていたなんて、兄らしい……」
 次郎は、涙を流していた。我慢すれば出来たのかも知れないが、素直に泣くことが、大介への供養であり、進への感謝の気持ちだあるような気がして、お構いなしで泣いてみた。
「ばかだな、大介に笑われるぞ」
 進の手のひらが、次郎の頭をやさしく包んだ。



(3)
 頭の奥に、音楽が流れている。その音は、聞きなれない音階のために、調律をしそこなった楽器がいくつも重なりあっているようにも聞こえた。音の一つ一つが明確になっていく。
 聞きなれない音は次第に、ごぼごぼと鼓膜に強い風があたるように、かき消されていった。音を聞いていたユウの体が硬直した。音は聞いたことのある音になった。海に潜った時の音。ぶくぶくと口から息が漏れる音。

(あっ)
 体ががくりと落ちる感覚で現実に戻る。体は床ではなく、少しクッション性のあるものの上に置かれていた。感覚が戻ってきたユウは、首を軽く絞められていることと、ヤマトの乗務員服ではないものが素肌に触れていることに気づいた。
 手首や足を少し動かしてみる。自由に動くそれらと体に感じる感触から、不自由なのは、首の部分だけだと気づいた。しかし、その首の部分も動くことは可能で、絞められていると感じているのは、首に何かが巻かれているからだと認識した。そうして、ユウは、いくつか確認したあと、目を開けるべきか、そのまま寝たふりを続けた方がいいのかを考えた。

(えい、なるようになれ)
 ユウは、顔を少し傾け、目を少し開けた。
 周りは静かだった。部屋は天井からのライトの明かりで明るかったが、部屋の中は誰もいないようだった。さっき聞こえた不思議な音階の音楽も、水の音も、機械のたてる無機質な音も、動物たちの騒ぎ声や木の葉の触れ合うようなかすかな自然な音もない。部屋は、空気がとまっているような閉鎖的な空間だった。異臭も芳しいにおいもないが、成分は地球とほぼ同じなのか、息苦しさはなかった。

(誰かが見張っているのか)
 ユウは、それ以上、目を開けることも、体を動かすことも自粛した。ただ、ひたすら、横たわった体を動かさないことに集中した。しかし、そう思えば思うほど、心臓の鼓動は強くなっていった。

(捕虜……)
 ユウはため息を飲み込んだ。
 つかまって、閉じ込められている……そう考えた方が今の状況をすんなり理解できた。

(暴れても、ただ、体力を消耗するだけ)
 音が聞こえてくるまで、寝たふりを決め込もうとした。
 
 ユウは、「まわりを見ろ」と言っていた進の言葉をふと思い出した。
 心臓の音がじわじわと静かになっていく。ユウは自分の手首をもう片方の手で握り締めた。感覚だけは、いつものとおりだった。
(頭はいかれてないらしい)
 それだけで、不安が半減した。


 

5年前、トナティカへ両親とともに行くことが決まったあと、ユウは射撃の訓練を受けたことがあった。進は、基本的な訓練をユウに受けるように勧めた。それも、撃つことではなく、よけること、逃げることを中心という特別のメニューだった。
 ホログラフで写しだされる作り物の戦場の中を逃げたり、模擬戦闘の訓練の中に入ったこともあった。非戦闘員の子どもであるユウが訓練するときには、常に進がいた。

「まわりを見ろ、歩(あゆみ)」
 いつになく厳しい進の声に、ユウは顔を上げた。
「本当の戦闘じゃないんだ。もっとリラックスしなさい」
 ユウに話しかける進は、いつものとおりの優しい顔をしていた。だが、ユウの手首を握る進の手にはいつもより力が入っていた。

「まずは、耳をすます。音がしたら、それがどんな音か考える。自分にとって危険な音なのか、それとも危険ではない音なのか」

 模擬戦闘の時は、2チームに分かれて戦闘をする中、第三者として参加した。直接の攻撃がないとわかっていても、ユウは、模擬弾の大きな音で驚き、目を閉じ、体を伏せてしまっていた。その横で、進は、ユウの手首をいつも握っていた。

「目は閉じるな。どんなことがあっても、目は閉じないで、必ず周りを観察する。自分の目でちゃんと確かめてから行動するんだ」
 怖いと思っていた銃や模擬弾の音になれていくにつれ、動く人の気配を感じ、逃げるために、どっちに走った方がいいのか……言葉ではなく、自分の感覚で考えることができるようなっていった。
 いつも進がいた。眼光するどく、遠くで起こっていることも感じ取ろうと、アンテナを張っている進が、ユウの手をつかんでいた。横にいる進の姿を感じながら、ユウは安心した。心臓の音さえも聞こえるほどに神経を研ぎ澄ませて、あたりの様子を伺う。逃げそびれても、必ず、進がフォローしてくれる。
 安心の記憶……そのおかげだろうか、一種、条件反射のように、危険なことに面すればするほど、その時の安堵感に浸ることができるようになっていた。



 ユウは、もう一度目を開けた。今度は、目を開き、細部まで部屋の様子を確認した。
 部屋には、大きなベッドの中心あたりに置かれており、ユウはその中心に体を横たえていた。ベッドの周りの壁は、360度、ガラスのようなものに覆われていた。ガラスは、鏡のように、向こう側が見えないように加工されているようだったが、見続けていると、均一ではない向こう側の影がうっすら浮かび上がってきた。
 
 ユウの体中にピリッと電気のようなものが走る。もやのような影の重なりは、数人の人影をかたどっていった。そして、その中の一人の人影が、まるで獲物でも狙っているかのように見すえているのをユウは感じていた。

(実験……)
 明らかな反応をせずに虎視眈々と見つめる視線に負けまいと、ユウは自分の手首をぎゅっと握った。


(4)
「目覚めたようですね」
 ガラスの向こうのユウの様子を眺めていた男たちの一人がにやりと微笑んだ。血管が浮き出た細い手が伸び、スイッチに触れると、ユウの体がびくりと小さく動いた。
 
 スイッチに触れた男が、スイッチの横のパネルの数字を確認していく。
「体の反応も正常値に近くなってます。この後、どうしましょうか?」
 一番前の位置でみていた男に判断を仰ぐ。男はじっと見た後、
「眠らせることはできるのか?」
と、ユウの姿に視線を向け続けながら答えた。

「では、スヴァンホルムさま、そのようにいたします」
 
 今度は、いくつかのスイッチに細い指先が動く。その動きに連動するかのように、ユウの開いていた瞳が一瞬大きく開き、そして、閉じた。

「これで、数時間眠り続けるはずです。後は、どういたしましょうか?」
 まるで、料理の仕方でも問うように、楽しげに質問する。
 その笑顔に嫌悪感を抱きながら、スヴァンホルムは、目の前にいる捕虜<ユウ>の使い道を考えた。

「もし、お考えがなければ、私のところにいただけませんでしょうか?」
 スヴァンホルムは、考えを申し出た隣の男の顔をけげんそうに見た。

「お前の所には、トナティカの子どもが一人いるのだろう」

「ええ、しかし、そろそろ親元に返そうかと」

(その気もないくせに)
 少年好きの男が、今、側めにしている少年を手放すはずがないことをスヴァンホルムは知っていた。しかし、この男の希望をくじくことは難しい。スヴァンホルムには、これ以上尋問できないユウを、実験動物のように扱うだろう学者の手に置いておくことよりましかもしれないと一瞬思ったからだ。

「どういたしましょうか?」
 再度、学者が答えをせっつくように同じ言葉を繰り返した。
 捕虜をどのように扱っても、ボラーの国の法では、違法ではなかった。しかし、二人の男の嫌な思惑のことを考えると、スヴァンホルムは口を出さずにいられなくなった。

「私のところであずかろう」

「小間使いとしてですか? そ、それならば、私がしかるべき少年を探しましょう。捕虜にしたばかりのこの少年がお側ですと、な、何をしでかすか…わぁ、わかりませんです。はい」
 男は、しどろもどろになっていた。

「小間使いだけではない。私のすべての世話を……少年は体で仕込むのがというのがお前の持論ではなかったか」
 スヴァンホルムの言葉に、恐縮するかのように、隣の男が小さくなった。

「では、装置の使い方を説明いたしましょう。スヴァンホルムさまの首をかかれては大変です」
 くくっと声を立てずに笑うと、学者は丁寧に頭を下げた。
 


(5)
 ざわざわ、ざわざわ……
 開いた窓から、木々の葉の重なりあう音が、流れてくる。時折、甲高い鳥の声と羽ばたきの音が混ざる。どこかできいた、懐かしい音たち……

 ユウは、音の記憶をたどっていた。地球の言葉と違う言葉。それでも、会話の範囲なら、ユウは意味を理解していた。

<かわいそうに>
<病気なのかな>
<かわいそうに>
<つかまってしまったんだね>

 歌うようにやさしく流れてくる言葉は、ユウを心配する言葉だった。やさしくなでるように響く言葉と、いくつもの手が肌に触れている感触。

(ここはどこ?)
 ユウは、彼らの言葉で問い返そうとした。
<いけない!>
 びんっとユウは、何者かに体を突き放されたように拒否された。

 ユウは、体を起こした。誰かに聞かれていたら、なぜ、そんな言葉を発したのかを詰問されるに違いないと、ユウは思った。
 心を落ち着かせようと、体を丸くし、自分の腕をなでた。そして、そっと、目を開けてみた。

(ここは?)
 半分開いた窓から陽が差し込んでいたが、窓の形状は地球の住居のものではない。不規則な形の窓は、トナティカにいる時に住んでいた家と同じだった。 特定の星を見るため、太陽の光を無駄なく取り込むために最善の形をとっているのだと説明された、トナティカの窓だった。
 部屋の中央のベッド、天蓋からの薄っすらした布がベッドを繭のように覆っている。ユウはその中にいた。

(トナティカだ)
 ユウはため息をついた。最悪の結果である『死』からかろうじて逃れているが、もう、ヤマトや地球に戻る術がない場所に自分がいることをユウは知った。
 
 ごろりと体を横にすると、ユウは、小さく丸まった。これから、自分はどうしていくのか、自分で決めていかなければならない。体は、まだ半分覚醒していないかのように、気だるい。薬づけにされているのか、それとも、体が別のダメージを受けているのか……
 
 キュウーン、キュウーン
 甲高い鳥の声が、遠くから聞こえる。懐かしい音に抱かれ、ユウはまた眠りの中に入って行った。

 キュー、キュウーン
<どう? 見えた?>
 ユウは、うなづいた。羽を閉じていると暗く、周りの色にかき消されてしまうのに、伸びをするように広がった翼は、青くつややかに光っていた。真上の月の光を吸い取っているかのように、羽先がきらきら輝く。

<きれいだろ?>
<き・れ・い>
 ユウは、少し不安げにトナティカの言葉を発音する。
 相手はにこりと微笑んだ。自分の意思が初めて伝わった瞬間だった。

 臆病で滅多に姿を見せない鳥の所に異星の友は案内をしてくれた。まだ、言葉をあまりしゃべることができない頃から、いつも側にいてくれた友。うれしい時、寂しい時には、必ず側にいてくれた。いつも笑顔だった友。
(プファン……)
 
 

(6)
 進は澪の寝顔を見ていた。顧みると、こんなに長く澪の寝顔を見ていることはなかった。

「艦長、彼女はたぶん起きません。今日も少しですが、安定剤飲んでますから」
 横で進と澪の様子を見守っていた桜内真理が、しびれを切らしてか声をかけた。

「ああ」
 進は、小さくうなづいた。
 真理は、進が寝顔を見ているだけで満足していることにも気づいていた。それは、ここ数日の自分も同じだったからだ。ただ、進にはするべきことが多すぎて、ここで時間を取っていると、睡眠を減らすだけなのを真理は心配していた。

 かたん
 進は、ベッドの傍らのイスから立ち上がった。
「毎日、ありがとう。澪のことをたのむよ」

「あの、艦長……」
 
「ん?」

「艦長は全部知っていらっしゃるのでしょう」

「うん?」

「私の両親のことです」

「あ、ああ。私は澪の実質上の保護者だし……」
 進はその次の言葉を飲み込み、真理を見た。
「あの時、君が澪を助けてくれたのだと聞いているよ。澪が虐待にあいそうだと通報してくれたのだろう。訓練学校で君と一緒になる時も、澪にとっていいことだと思っていた。ただ…」
 
「ただ、何ですか?」

「ただ私たちは、澪のことばかりに気をとられていて、君のその後のことを考慮していなかったことを、後悔しているんだ。君が一番苦しかっただろうに、僕たち大人は、気づいてあげることができなかった」

「そんなことないです。私、訓練学校すら入れないと思っていましたから……入れただけよかったと思っています。教官に『ここは実力しか評価しない』ってよく言われていました。教官たちは、父のこと、知っていたんですよね」
 真理は下を向いた。

「よくがんばったね」
 進の言葉で、真理の目頭は熱くなった。真理は今まで、誰も自分の事を見ていないと思っていた。
 
 進は、真理の両肩に手を置き、真理の目をまっすぐ覗き込んだ。
「もう一つ、君にちゃんと伝えなければならないことがあるんだ」
 



 息を荒くして相原義一は、ドアを開けた。そこには会議が済んだばかりの真田志郎が書類を再確認していた。

「桜内武彦が亡くなったそうです」
 義一は、何箇所か探した後だったのか、そう言い終ると息を整え始めた。
「桜内武彦? 桜内って、まさか」
 志郎は書類からすぐに顔を上げた。

「桜内武彦。禁止されていたクローンの実験を密かにして捕まっていた桜内武彦です」
 義一は、立て続けに、言葉を吐いた。
「最初のクローン実験体は、4歳で死亡。その子が亡くなると、又一体クローンを……極悪人ですよ、人が人を作るなんて。妻が、子どもに虐待を加えていたらしいじゃないですか。理想の子どもを作れば、妻の虐待が軽減できるとでも思っていたのだろうか」

「相原、推測で人のことを言わない。桜内武彦は、結局詳細を語らずに亡くなったのだろう」

「そうですよ。死ぬまで黙秘です。どうして、真田さんはそんなに冷静に言えるんですか? ヤマトには、桜内武彦の娘も乗っているっていうし、古代もあなたもこの件に関してはどうかしている」
 
 進や志郎から明解な説明を受けていない義一は、ずっと抱いていた不満を爆発させていた。

「桜内の娘には、罪はない。彼女は両親のことを通報して、澪を守ってくれたんだ。確かに、私も古代も、澪のことを初めて知ったときはショックだった。古代は特に、桜内武彦とは、その前から大学の研究室が一緒だったから……」

「二人は、知り合いだったんですか」

「ああ、古代が学生の頃、同じ研究室の助教授だったらしい。で、対立というか、意見を異にしていたらしい。桜内武彦は何も言わないし、古代も争点が摩り替わる可能性があると、この話を持ち出しはしなかったけれど」

「もしかして、親しかったのですか?」

「さあ、そこまでは……。澪は、滅んでしまったイスカンダルの血を唯一持っている。だから、ただ単にその血に興味を持ったのか、それとも古代に対する逆恨みからなのかはわからない。でも、古代はそのことをうらんでいなかった。それは、私も同じだ…きっと……もう一度澪に会えたことが、私の中で、だんだんうれしいことになっていった。再び、澪を預かった時、神様からやり直しの機会をもらえたような気がした」

「真田さん……」




「君のお父さんは、私の先輩でもあってね。目標が同じだったが、その手段はずいぶん違っていた。人からは反目しあっていると思われていたかもしれないけど、私は尊敬していた。私が行き詰っているとよく声をかけてくれた。『自分の考えを最後まで信じろ』と」
 進の記憶の中には、無邪気に笑う幼い真理とその母親の姿とまじめな桜内武彦の姿しかなかった。どこでどのようにずれてしまったのか、もうわからない。進自身も同じ頃、『絶滅』という文字が常によぎって、道を失いかけていた。同じような間違いを自分もしていたかもしれないと思うことがあるからこそ、真理の父親のことを憎むことができなかった。
 
「泣いていいですか」
 真理の震える言葉に、進は小さくうなづいた。


(7)
 ユウは、ようやく目を覚ました。体から不自然なだるさが消えていた。開放されたように体の感覚が戻ってくると、腹がすいていることに気がついた。
(ま、ようやくまともな体調に戻ったってことか)

 体を起こすと、自分の体にいくつかの傷と拘束されている現実が見えた。ユウの両手首・両足首と首にリングがつけられていた。

(まるでペットか実験動物だな)
 進が大学で実験していた動物たちを思い出した。固体識別と体調と居場所がいつでもわかるように、動物たちにつけていた識別マーカー……

 首に密着したリングに手をやり引っ張ろうとするが、引っ張れば引っ張るほど、首にきつく絡み付いていくように感じた。完全に自分は管理下に置かれているとユウは感じると、観念してベッドの上に大の字になって、天井を見つめた。
(この天井のどこかに、監視カメラがあるのか?)

 繭のように覆っている布に手を伸ばす。滑らかな布肌が指先に当たる。
(ただの布か)

 布に興味を持ったユウは、起き上がると手を伸ばし、ゆっくり、時計回りに布切れ目を探るように指先を滑らせてみた。重なりあった布の切れ目を見つけると、指先でそっと切れ目を寄せた。ベッドと小さなテーブルだけの部屋。不規則な形の窓から、光が差し込んでいる。

 ぐ、ぐるるる
 腹の音が部屋に響く。ユウは、そのことがおかしくて、小さく笑った。

(生きている!)
 そして、ベッドから布の切れ目から飛び出して、窓へ近寄った。
 おそるおそる窓枠に手を伸ばす。
 指先が窓枠に触れると、ユウは手を引っ込めた。
 そのあとは何も起きなかった。

 キュウーン、キュウーン

 窓の外から、鳥の声が聞こえる。

(ああ……)
 ユウは耳をすました。鳥の声だけでなく、木の葉の揺れる音や風の音まで、実際聞こえるわけではない音までを想像して思い出していた。
(トナティカだ)

 大きな声で叫びたかった。だが、言葉は聞かれてしまい録音されてしまい、解析されてしまうかもしれない。

(もしかしたら脳波まで?)
 
 壁を触れながら、叩きながら、壁伝いに歩いてみる。
(自分は自分のことをぺらぺらとしゃべってしまったかもしれない。ボラーの連中は思考の段階のことを脳波で読み取ることができるのかもしれない)

 ユウはドアの前に立ち止まった。ドアだけは、トナティカの住宅のものではなく、近代的な火気などにも充分対応できそうな金属でできたドアだった。きれいな長方形はこの部屋の中で特異な存在になっており、フリーなラインで形作られた部屋の中で、唯一幾何学的なものであった。

(ここは、牢屋?)

 ギギィ
 ドアから音が聞こえてきた。
 ドアの片端がゆっくりと壁とずれていった。ユウは、数歩下がって、ドアの動きをじっと見ていた。近代的に見えたのはドアの板だけで、構造は、トナティカのそれに近く、手で開けるという原始的なもののようである。
 
 ギ、ギギ
 ユウは固唾を飲んで、身構えた。



(8)
 
 
「……ここまでの話は、理解できたか?」
 耳にはめた翻訳機から、少し固めの言葉が流れてくる。ユウは小さく首を動かした。ユウの様子を部屋に入って来た三人の男がそれを見ていた。トナティカでの生活で、ユウは異星人には見慣れていたが、自分の立場を慮ると、体が素直に反応して硬直していた。夢ではなくちゃんと生きていたという喜びより、捕虜としての自分のこれからに不安を感じていた。慣れない翻訳機を耳に押し込められ、捕虜になるいきさつを説明され、当分この部屋からでれないことをカタコトの言葉で聞き取ったユウは、自分の気持ちをうまく表現できなかった。

「言葉で表現しろ」
 ユウの動作を見ていた男のうちの一人が、間髪を入れず言う。その男を、一番後ろからじっと見ていた男が制した。
「きちんと説明をしてやれ」

「すみません……動作では、誤解が生じる。返事ははっきり言葉で表現しなさい」

「はなし…話は理解できました」
 ユウは、三人の内、一番後ろの男に向かってゆっくり話した。その男がこの三人うち一番権力があると判断したからだった。それは外れてはいないようだった。

「君たちはもういい。あとは私一人で大丈夫だ」
 その言葉で、他の二人の顔色が変わった。
「しかし、まずは……」

「なんだ? 私が聞いた説明で十分なはずだろう。ならば、私がこの続きを説明をする」
「確かにそうですが……」
 
「彼は、トナティカの少年ではないのですよ、スヴァンホルムさま。戦闘員です。どんな訓練を受けているのかわかりません。非常に危険です」
 黙って聞いていたもう一人が口を挟んだ。だが、スヴァンホルムと呼ばれた男は睨んで、言葉を制した。

「わかっている。説明も、使い方も、先ほど聞いた。もう、いいだろう? これ以上、君たちがここにい続ける必要はあるのか?」
「いえ、……それではスヴァンホルムさま、我々は退出します」
 スヴァンホルムは、下に向けた手のひらをゆっくりと下へ動かす。残りの二人は、目を閉じ、軽く顔を伏せると部屋から出て行った。
 その様子見ていたユウは、スヴァンホルムの手の動きが、他の男たちに部屋からの退出を促したものであったことに気がついた。

「はじめまして……だな。私は」
 そうスヴァンホルムが名前を言う前に、ユウにはこの男の名がわかった。
(スヴァン……偶然だ。さっきいた男たちが読んでいたからだ)
「スヴァンホルム・カカジ。君の名は?」
 ユウは一瞬、どう名乗ろうかと迷ったが、
「ユウ」と一言だけ答えた。
(調査の時は、もし、尋問があったとしたら、自分はなんと名乗っていのだろう)
 ユウは、つばを飲み込んで、スヴァンホルムの反応を見ていた。
「それでは、ユウ、説明の続きをしよう」
 スヴァンホルムの言葉は好意的であっても、スヴァンホルムの視線は、ずっと、ユウの目を捉えていた。ユウは、視線をはずすことができなかった。しかし、名前については、別段、何も言われなかったので、そのことだけはホッとすることができた。

「君の首についている輪は、認識票でもあるし、君のいる場所は逐一チェックできるようになっている。登録された場所以外のところに行くと、君が苦しくなるように設定されているし、主の死、または危険を感知すると、君にも死またはそれに相当する苦しみが与えられるようになっている」

 スヴァンホルムは、ユウのあご下に手を伸ばすと、ユウの体を近づけさせるように強引に引き寄せた。
「ようするに、君は、私の奴隷なのだ」
 ユウは、首を振り、スヴァンホルムの手を振り払った。

「セティ…」
 つぶやくように小さなスヴァンホルムの声と共に、ユウの首から体に激痛が走った。その痛さに、ユウの体は崩れるように倒れた。スヴァンホルムは後ろからユウの体を抱きかかえると、上腕をぐっとつかんで、ベッドまで引きずっていった。

(これじゃまるで、孫悟空だ)
「う、おぇ」
 頭の痛さと吐き気がユウを襲った。ユウは両手で頭をかきむしるように頭にはまっているだろう輪を探した。しかし、実際にはそんなものは頭にはなかった。

「グ、セ……」
 スヴァンホルムは耳元でささやいた。
 
 頭を抱えて丸まっていたユウは、フッと我に返った。顔を上げるとユウの背中をさすっていたスヴァンホルムの顔が間近にあった。
その顔をユウは無言でじっと見ていた。さっきまでの痛さはいつの間にかなくなっていた。

「いい子にしているんだ、生きたければ」
 
(生きたければ……か)
 体から力が抜けていった。ユウは、不覚にも、スヴァンホルムの腕の中で気を失った。


(9)

 豆を焦がしたような香ばしい香りと温かな感触。目を覚ましたユウは、飛び起きた。横には、意識を失う前に見た男が寝ている。
(スヴァンホルム……スヴァン?)
 その名を聞いたとき、どこかで聞いたような気がしていたが、ユウははっきり思い出せなかった。

 ユウは、自分の衣服を見た。この部屋にきた時と同じ、軽装な服……トナティカの成人前の子どもたちが着ているチュニックだった。着ていた服を脱がされ、異星の服を着ていたのにもかかわらず、違和感を感じなかったのは、トナティカにいた頃に着慣れていたせいだった。

(昔、ここにいたことを悟られてはいけない)
 理由は言葉にならないが、ユウは、そう思った。トナティカを知っていると知られたら、監視は厳しくなるだろう。
(地球から、サーシャからますます遠のくことになる)
 何者かが観察しているかもしれないことを想定して、ユウは、服を触ったり、自分の姿を確認するしぐさをした。

(あとは、これが何なのかわからないだけに、やっかいだな)
 ユウは、首についているリングに手を持っていった。力を入れて引っ張れば引っ張っただけ首が苦しくなるだけだった。

(ここから出ることができたら、なんとか……)
 トナティカのどこにいるかわからないが、逃げ込む所は探せるだろうとユウは少しタカをくくっていた。だが、捕虜である身分なのだから軟禁状態ではないだろうことは、覚悟せねばならない。
(ここを出る方法を考えるのが第一目標だな)

 クルックルックッ
 遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。ユウは目を閉じた。トナティカの森を走る風が、木々の葉を揺らす。窓の外の揺れる葉をイメージして、ユウはすべての神経を葉の動きと葉に触れるたびに喜びの声を上げる風に向けた。その横をすっとよぎる鳥。鳥はそのままユウに向かって飛んできた。まるでちょっと様子を見に来たように、そして、ふわりと羽を揺らしゆっくり降下してくる。ユウは思わず手を伸ばした。手を伸ばせば触れることができるほど、鳥は近づいていた。
(あと少し……)
 伸ばした指先は届かなかった。鳥は大きく羽を上下させ、上昇する。去り際に少し振り返り、努力が無駄になったことをあざ笑っているようにユウを見た。
(あっ)
 伸ばしたユウの手は、誰かにぐいっと引き上げられる。

「何をしている?」
 男の声がさっきまで目の前にあった光景を一瞬でかき消した。ユウはせわしくまばたきをした。
「すみません。寝ぼけていました」

「寝ぼけていた? ほう」
 ユウは、スヴァンホルムの視線に耐え切れず、目を伏せた。
(思い出せないこの顔……見たことあるような、ないような……)
 ユウはあせった。

「では、こうして一つのベッドに、男同士で寝るのはどうだ?」

「え、あっ、わ、私は、男の人が好きなわけではありません」
 ユウはそう言いながら、進の横でよく寝ていた昔を思い出していた。つい寄り添うように寝てしまったことを勘違いされたのかもしれない。顔を赤らめたユウを見て、スヴァンホルムは笑った。

「ははっ、私だって男が好きなわけではない。お前の体にも興味がない。だが、今のようにただ一緒に寝るのはどうだ、これからもできるか?」

「寝るだけ?」

「ただ横に寝るだけだ。できるか?」

「どうしてですか?」

「おもしろそうだからだ。お前の体に興味があるわけではない」

「寝ている間、私があなたに危害を与えるとは思わないのですか?」

「それもおもしろい。お前がどうしたいか、何をするのか、これから楽しみだ」
 スヴァンホルムは、何かを思ったのかフフッと笑った。ユウは、それ以上、会話を続けることをやめた。
 無意識のうちに、尋問を受けて、すべてをしゃべっているかもしれない。進と親子であり、トナティカにいたことも知っているかも知れない。ユウは、捕まった鳥のように肩を落としてうなだれた。

(どういう人だ。この男は)
 ろくに言葉を交わしたわけではなく、敵の捕虜に危険を感じていないかのように振舞っているスヴァンホルムの飄々たる様子にユウは、驚嘆していた。
(鈍いのか、それとも、自分の力をよほど信じているのか)

(飛びかかって、先に気を失わせれば、もしかしたら、自分の力でねじ伏せることもできるかもしれない)
 ユウは、ベッドの微小の揺れを感じた。
 男はベッドの傍らのテーブルに置かれたカップを取ると、乾いた唇を潤した。

(ああそうだ、イシュタルムの館でこの香りを知ったんだ)
 香ばしい香りは、カップの中の飲み物の香りだったとユウは気づいた。銀の婦人と呼ばれていたイシュタルムの館に、トナティカでの一番の友・プファンとよく出入りしていた。体の弱いイシュタルムの荷物運びをプファンとしていた時に、時々見かけた男の姿……
(ボラーの服……あの時の男は、この男なのか?)



(10)
 それから、ユウの毎日は、繭のように布にくるまれたベッドのあるゆがんだ八角形の部屋での生活となった。簡単なボタンで、隣接するシャワールームとトイレに行き来するだけで、一日の大半は部屋の中心に置かれたベッドで寝ているか、窓辺から外の風景をぼんやり眺めていた。窓は開けることができるが、目に見えないほどの細いピアノ線のようなものが張られていて、外界への道を閉ざしていた。窓から離れていれば、何もないように見えるので、窓を開けていれば、外の風を感じることもできるようになっている。
 イシュタルムの館で見た男の顔をどうしても思い出せないユウは、自分のことを覚えているかもしれないスヴァンホルムの存在が一番の脅威だった。

 すっきりしなかった体と頭は、二日ほどのんびり寝ているうちに、感覚を取りもどしつつあった。部屋にある壁や布を触り、感触を確かめた。感覚が戻ってくると、いろいろなものに興味を持ち始め、部屋の装飾物を一通り触ると、次は窓の外が気になった。窓枠より外に指先すら出せない状態だとわかると、今度は、目を閉じ、建物の外の何かを感じようと体の感覚を外の空気に集中させてた。
 
 トナティカでは、動物も人も物にも、思念波が強いものがある。特殊な能力がないものでも、トレーニング次第で強い思念にリンクすることができることをユウは、トナティカにいた時に体感していた。しかし、それは、常に思念の強い友が近くにいたために安易にできたことだと知った。囚われの今は、この部屋に来たばかり時にできただけで、その後一度もできていない。
(あの時は思念の強い誰かが側にいたのか、それとも、あの木か鳥の波長と自分の波長が偶然符合したのだろうか)
 体の快復にともない、集中力がついてきているはずなのに、ユウは、あれほど感じることができなくなっていることに、あせりを感じていた。

 三度の食事は必ずスヴァンホルムが部屋に戻ってきて、いっしょに食事を取った。ユウへの礼儀のように、忙しくても、時間が短くなっても、部屋に戻ってきた。それ以外の時間に、他の者が単独で部屋に来ることはなかったが、食事時のスヴァンホルムとの会話が一日の中心であり、ユウはその時間は最大に神経を使った。

「体の調子はどうだ? 昨日から、よく食べるようになったな」
 ユウは、出されるトナティカ風の食事の味付けに少し慣れていたが、地球にない味のものは、わざと食べないようにした。それでも、体の回復を考慮して、体によさそうなものは、積極的に食べていた。

「ええ、よくなりました」

「そうか。顔色もよくなってきたな。表情も豊かになった」
 スヴァンホルムは止めていた手を動かし、口におかずを運んだ。ユウは食べながら、スヴァンホルムの様子をさりげなく観察していた。スヴァンホルムは、細かいことを気にしている風ではなく、短い時間にがつがつ食べ、その合間に、ユウにつぎつぎ質問していた。
 それだけではなく、必要以上に干渉もした。

「トナティカの食事は、地球の食事の味付けと似ているのか。私の知っている地球人は、どんな料理でも、躊躇せずに食べていた」

「苦手な味の料理は食べることができません」

「なるべく何でも食べるのだ。どんな所でも生きていける者は、好き嫌いせず、体のために食べるのだ」
 スヴァンホルムは、ユウが一度も手をつけない皿を差し出した。
 はじめは、不満に思ったが、スヴァンホルムのおせっかいも彼なりの気遣いなのかもしれないと思うようになった。

(そう、あの人もそうだった)
 子どもの頃、嫌いな食べ物を皿の端に追いやるユウに、「体のために食べてあげなさい」と三分の一だけ元の位置に戻して、食べるように促した父の姿と重なる。
 
「そうですね。少しずつ、どんなものでも食べるように努力します」
 見慣れない料理だったので手を出さなかったが、ユウは一口分だけつまむと口の中に押し込んだ。
(よかった。まずくない)
 ユウは、支障がない限り、素直な反応をした。スヴァンホルムは、時折、ユウの行動や言葉を観察しているように、じっとユウを見ているからである。親しげなスヴァンホルムの言動に心を揺さぶられながら、何度も自分は捕虜の立場であると言い聞かせ、一線を引くように心がけても、スヴァンホルムという人物に好意を抱いていることもユウは自覚していた。


「明日は、音楽を聴かぬか? トナティカの音楽だ」

「トナティカの音楽ですか?」

「そうだ、身の回りの世話をするトナティカの少年たちの中には、音楽を得意とする者がいる。彼らもそれぞれの主人たちの世話だけでは気がめいるだろう」

「彼らはどうして、気がめいるのですか?」
 
「身の回りの世話をしている者の中には、夜の世話をしている者もいるのだ。彼らは、お互い会う機会が少ない。仲間と言葉を交わす機会はほとんどないのだよ」

「スヴァンホルムさまは、どうして、私や彼らのことをそのように気になさるのですか」
 ユウは自分の主人であるという証として、『スヴァンホルムさま』と呼んでいる。

「以前は、こんな統治の仕方ではなかった。私がトナティカから離れている間、私の仲間は、何でもしてもいいのだと、奴隷のように少年を狩り、労働や奉仕をさせるようになった」
 スヴァンホルムは以前住んでいたときと比較をする。ユウは、その頃のトナティカを思い出しながら、話題をスヴァンホルムへ向ける。

「スヴァンホルムさまは優しいのですね」

「いや、そうではない。このように弾圧的な支配をしていれば、いつかはしっぺ返しを食らうだろう。身近の者は大切にせねばならぬ。私もお前に首をかかれる。ふふ」
 スヴァンホルムは笑い、ユウの反応を確かめているかのように、じっとユウを見ていた。
(スヴァンホルムが優しいからなのか、それとも、よりボラーの安定的な支配を求めているだけなのか)

「よし、音楽会を開こう。この星の人々は、本来歌が好きなのだ。小鳥がさえずるように歌いながら会話をし、歌い踊りながら労働していた。なのに、使えている少年たちは、歌を歌わない。踊らない。無駄な行動を禁止しているからだ。これではいけない」
 スヴァンホルムは自分に言い聞かせているようにつぶやいた。
  
「ラ、ダー、ラララ……ラッダーララララ……」
 
ユウの頭の中に、いつも歌を歌い、リズムに合わせてステップを踏んでいた友の姿が浮かんだ。振り向く友の顔はいつも笑顔だった。



(11)
「今日の夕食後、この部屋に数人来てもらって、歌をうたってもらうことになった」
 スヴァンホルムは、香ばしい香りのお茶を飲むと、まだ食べているユウに声をかけた。昨日の話を、もう、具体的にしている。

「私は何をしたらいいのですか?」

「私の横で音楽を聴いているだけでいい。それから、エフスキアのところのトナティカの少年から、この星の生活や仕事をきけるように、明日から部屋にきてもらうことにした」

「この星の生活や仕事? ですか」

 スヴァンホルムはうなづいた。

「私の副官のエフスキアから、側めの少年たちに作法を教わった方がいいのでは? という提案があった。私はお前に何かを求めているわけではないのだが、仕事があったほうが、ここでの生甲斐になるのではないかと思う。地球とトナティカは、昔のように交易しておらず、地球の船がここに来ることもない。地球に帰ることができないお前は、ここでずっと生きていかねばならない。お前が生きたいのなら」
(地球に帰ることができない……か)
 スヴァンホルムの話はすばらしかった。しかし、ユウは、その言葉の裏には、他の意図が潜んでいるのではないかと思うと怖かった。それでも、生きるために、ユウの選ぶ道は一つだけしかない。

「ありがとうございます」

 新しい日々が始まる。スヴァンホルム以外の人との接触。側めの少年たちは、自分の味方になってくれるのだろうか。それとも、心許したとたん、自分の正体をばらされるのかもしれない。
 ユウの手が止まった。

「どうした? もう食べないのか? 苦手な味だったか?」

「いえ、そうではありません。ただ、スヴァンホルムさまが私のことを気にかけてくださるのが、うれしいのです。自分の星へ帰ることができない自分は、どうしたらいいのか、途方にくれていました」

「その割には、よく寝るし、よく食べる」

「すみません。卑しくて」

「生きる力があればいい」
 
(人がよすぎる)
 スヴァンホルムが部屋から出て行くのを見送ると、ユウはため息をついた。
 スヴァンホルムは優しいが、どれほど情報を握っているのか、何が目的なのか、ユウにはわからなかった。そのために、彼のやさしさが、逆に重荷になっていた。
(100パーセントだまされていると思えれば、楽なのに……)
 
 ユウは、ベッドに横たわった。天井からベッドを囲むように流れる布に体をくるみ、記憶の奥底に潜めた感触・匂いを、あらゆる神経を感覚を集中させて、思い出していた。柔らかい肌の感触、絹糸のように細く輝く髪、そして、まだ花開く前のつぼみのようなさわやかな香り、声。

(サーシャ……君に必ず会いにいく。それまでは、どんなことがあっても、僕は生き抜く……)



(12)
「おい、艦長は?」
 
「艦長室でシ・ゴ・ト」

 第一艦橋に入ってきた島次郎の質問に、橘俊介がキーを打っていた手を休めて答えた。
「艦長、あれでいて、いい患者なんだ。医者の言うことはよく聞くし、自分の体については過信もしていないし、無理もしない」
 そう言葉を続けると、俊介は再び手を動かした。

「いい患者……か」
 
「ああ、さすが。いい感じで力の調整ができている人だな。精神的にも。息子のことを信頼しているか、よっぽど生きていると信じ込んでいるのか、よく寝ている。あのタフさは、真似できん」
 俊介は顔をあげると、ぐっとイスにもたれかかった。

「で、精神的な部分は無理だけど、見習って、いい感じで力調整して仕事をこなすことぐらいは、俺でも真似できる。ま、こういう時は、誰かが気を張っていないとね。いくら成功した手術の後だっていっても、急変することがあるから、力は抜くけど、気は抜かないのさ……ん、どうした?」
 俊介は、ぼっと立っている次郎の顔をのぞいた。目が合うと、次郎はにこりとした。

(お前らしい考えだな)
 看護師である俊介らしい言葉だと次郎は思った。次郎は、背伸びをし、肩を動かし、肩の関節を鳴らした。
「そうだな。艦長の代わりに起きていることぐらいは、俺でもできる」
 
 自分の席に座り、航路予定表を出した。
 



「これでどうでしょうか」
 数人が部屋にやってきて、家具の配置を少しずらした。
 ユウは、この部屋から出ることができるかもと少し甘い考えを抱いていた。中央のベッドを動かせばいいという誰でも考えられることは、ユウには思い浮かばなかった。

 部屋の隅に置かれたゆったりとしたイスに座って見ると、部屋の真ん中から下りている布が演奏者の座る位置の後ろに、風が吹くたび流れるように波打っていた。

「意外ときれいにおさまった。エフスキアからこのイスを勧められたが、確かにこの部屋の雰囲気に合う……あの男はこういうところの智恵が回る」
 スヴァンホルムはご機嫌なのか、言葉が多かった。大したことがないことなのに、自分の部屋ということだろうか、家具を移動させる時も、細かな指示を出していた。
 
「楽しみです。スヴァンホルムさま」
 
「私もだ」
 スヴァンホルムの言葉を聴いてユウは微笑んだ。気落ちした気持ちがわからぬよう、顔をさげないようにしていた。
 
 窓から入る風で、布が揺れる。その瞬間、実際聞こえぬ部屋の外の木々の葉の揺れる音をユウは聞いたような気がした。

「どうした?」
 ユウは、肩に触れるスヴァンホルムの手に驚いた。
 
(もう少しだったのに)
 外からの呼びかけの糸口が消えてしまった。


(13)
 少年たちが五人、部屋の中心に並んでいる。ユウは、スヴァンホルムと並んでイスに座っていた。
 天井からの布は、邪魔にならないように真ん中に置かれたイスの肘掛にかけられていた。真ん中のイスには、一番年上らしい副官エフスキアの部屋子(側め)が座っていた。

「それでは、はじめましょうか」
 エフスキアがスヴァンホルムの了解を求めるように、目を伏せる。

「ああ、いいだろう。エフスキア、私の部屋子に説明をしてくれ」

「はい、それでは」
 エフスキアの口元のしわが、いやらしい笑いを浮かべているように見える。

「トナティカの音楽は、人の声が中心です。恋の歌など歌詞に意味のあるもの、または、昔からの歌で音の重なりを楽しむものと2種類あります。楽器は、歌声のそえもののように入ります。弦を爪弾いて音をだしたり、抱える木の板を打ったりします。芸術的というより、生活に則した音楽で素朴でありますが、私は彼らの音楽を聴くと、心が高揚いたします」
 エフスキアがそう言うと、小さく手で合図を出した。少年の一人の指先が木の板の表面をはじく。その音がベース音になって、少年たちは、リズムをあわせて声をのせていった。

「ラーナンディ、ラーナンディ、ラーナンディッヒル。ラーナンディ、ラーナンディ、ラーナンディッティ……」
 
(小鳥、小鳥、小鳥よ。小鳥、小鳥、小さな小鳥……か)
 単純な歌だが、トナティカでよく歌われていた歌。繰り返す言葉に、窓から吹き込む風が混ざり合い、ユウの周りを渦巻くように響く。

  ビンッ
 弾かれた弦が鳴ると、今まで重なりあっていた声が急に消える。
 トンっと板を弾く音が合図になって、一斉に歌いだす。

「ラーナンディ、ラーナンディ、ラーナンディ、ラーナンディ、ラーナンディッヒル……」
 美しく重なりあっている声が、少しずつずれていく。曲は不安定な音になっていった。

<しっているだろう、きみは>

 繰り返している言葉に中に不意に入ってきたトナティカの言葉。ユウはどきりとした。誰がその言葉を出しているのか、一人一人の口元を見た。けれど、誰も小鳥の歌以外を口ずさんでいるように見えなかった。

<よくおきき、わたしたちのうたを>

 ユウは背中がゾクゾクした。それに呼応するかのように出た腕の鳥肌を気づかれないよう、姿勢を正した。
 トナティカの歌遊び……聞きなれた歌の中に別の歌を織り込んでいく。恋する人への歌、呪詛の言葉、そして暗号のような言葉。トナティカの歌は単純のようで、この星の人々は、歌で言葉を伝え、歴史を伝えてきた。リズムや原曲はシンプルだが、それを複雑に混ぜあい、微妙に崩し、耳が慣れたもののみが真の歌の意味やよさを知ることができるようになっている。

<みみをすませよ、もりからのこえをきけ>

 この詩が自分だけに発せられたものなのか、それとも、この単調な小鳥の歌に織り込んでいる歌なのか、ユウにはわからなかった。

<たくさんのひとびとのこえがきこえるだろう>

 エフスキアが気持ちよさそうに指を小さく動かしながら聞いている。スヴァンホルムは、弦の楽器が気になるのか、弦を弾く少年の指先を見ている。声はまたきれいに重なりあうようになり、まだ未成熟な少年たちの高い声が徐々に一つの音になっていった。

 ダララン
 弦の音がすべてを断ち切るように大きくなると、声が止んだ。

 スヴァンホルムが足を鳴らす。スヴァンホルムの国では、拍手の代わりに足を鳴らすようだった。

「どうだ、この音楽は」
 スヴァンホルムに声をかけられると、ユウは大きく息を吸って吐いた。

「声の重なりが美しくて、息をするのももうしわけなく思ってしまいました」
 少しは、自分の驚きをかくせただろうかと、ユウはスヴァンホルムの様子を見ながら話しをした。



(14)

<こころのなかにあるみみできけ!>
<さけびはきこえるだろう>
<だいちにからだをゆだねて……>

(やめろ! それ以上入り込むな!)
 ユウは、目を開けた。
 横には、スヴァンホルムが寝息を立てて寝ている。夕食後の音楽会のあと、ユウは、極力、普通を装った。時折、誰かの笑い声が頭の中に響いてきた。誰が、何のために言葉を投げかけてくるのか、それがわかるまで、ユウは知らぬ顔をしようと決め、なるべく平静を保っていた。

(スヴァンホルムたちが何か仕掛けたのかもしれない。それとも、別の第三者?)
 

<きけ! かぜのうたを。われわれのことだまを>

(また、始まった……)
 ユウは少しうんざりしてきた。寝ている間は周りを気にせず済むと思っていたが、睡魔が来るたび、揺さぶり起こすように、声は話しかけてくる。夢の中でも今日聞いた音楽が鳴り響き、歌に織り込まれた言葉が、ユウの頭の中をかき回していった。助けを求める亡霊のように、こちらの意向お構いなしに、意識の中に言葉が入ってくる。

(誰?)
 
 ただ、窓から風がするすると流れ、ベッドの天蓋からの布は、それに答えるように揺れているだけだった。
 ユウはベッドから降りると、窓へ向かった。外からの声を少しでもさえぎるために。ユウは祈るように、窓に手をかけた。

「ふう」
 小さくため息をつくと、窓を閉め、側のイスに腰を下ろした。

<ずっと、みているよ。われわれはきみをみているよ>

(だめか……)
 ユウは、がっくり肩を落とした。

「悪い夢でも見たのか?」
 ユウが顔をあげると、半分体を起こしたスヴァンホルムがベッドの上からユウを見ていた。
 
「え、いえ……」
 言葉に詰まったユウは、もう一方で、先ほどまでの言葉たちがまったく聞こえなくなったことにも気がついた。風も押し黙ったように静かになった。

(助かったぁ)
 
「すみません。今日聞いた音楽が頭から離れなくて、眠れないのです」
 ユウは、喜びの顔を見られまいと、顔を伏せた。
 
「音に飲み込まれたな」

「飲み込まれる? どういうことですか?」
 ユウは、スヴァンホルムの言葉に驚いたフリをした。

「あの音楽を心地よいとして熱狂的に指示し、とりこになる者がいる。逆に、変調したり、不安定になる曲だから嫌だという者もいる。私はどうも苦手だ。真剣に聞いていると心をかき回されるような気分になる」
 スヴァンホルムの話を聞いていて、ボラーの人々は、なんらかを感じることはできても、曲の詩の真意や曲と共に思念で送られてくる言葉については、知識がないかのように思えた。

(スヴァンホルムではないのか? では、誰が、何のために、声を送ってくる?)

「私のために、苦手なことをさせてしまったのですね」

「いや、苦手だが、最近は聞いてなかったので、私も聞きたかったのだ」
 スヴァンホルムは、完全に体を起こし、ベッドの上に片ひざ立てて座った。

「すみません。小さな子どものように、興奮してしまって」

「音楽はやめるか。音楽を聴いたあとからずっと、顔色が悪い」
 
(やはり、見られていた……)
 ユウは、スヴァンホルムが、自分のことをよく観察していることを確信した。

(気をつけなければ。声を送っているのは、やはりスヴァンホルムたちなのだろうか?)

「大丈夫です。すぐになれます。たぶん……ですが」
 
「わかった。音楽のことは、エフスキアに相談してみよう。明日は、エフスキアの側めが来る。今日は、もう寝なさい」

「はい」
 
 ユウは、ベッドの中に戻った。
 スヴァンホルムの横は温かく、勝手に頭の中で鳴り響く言葉もなく、ユウはすぐに眠りに落ちた。

 深い眠りに入ったユウは、温かさを求めてか、スヴァンホルムにちかづき、スヴァンホルムの背中に顔を寄せた。

(わからぬ男だな。神経質そうに見えて、無垢な子どものように素直な所もある)
 スヴァンホルムは、目を閉じた。


(15)
「ティスタです」
 ユウに紹介されたのは、昨日、真ん中で曲の出だしの合図をだしていた少年だった。縛った髪の先は長いが、毛先はそろっていない。トナティカの、特に中央部に住んでいる者たちの未成年の髪型である。美しい顔立ちだが、それゆえに、冷たい感じがする少年だった。
 ユウにとって、美しいトナティカの人といえば、イシュタルムだった。母も美しい人だったが、イシュタルムの銀の髪、白い肌は、光に透けそうなくらい今にも消えてしまいそうな、透明さをもっていた。しかし、彼女は、優しく、知らぬ者に対しても、知っている者と同じように心を向けることのできる人だった。だが、目の前の少年は、名を名乗っても、ただ、口だけが動いているだけで、美しいお人形が口を動かしているようである。

「私は、ユウです」
 ユウが名乗ると、ティスタは小さくうなづいた。

「こちらは、私用のスペースです。この建物は、ボラーのトナティカ統治のための事務機関が置かれています。その一部がそこで仕事をする者の居住区になっています。建物は全部つながっていますが、私たちボラー人以外の者は、許可がなければ、居住区内だけしか移動できません」
 ティスタに説明されたユウの移動できる範囲は、今までの部屋とその扉の外の廊下、あとは、誰も使っていない貴賓室とそこにつながっている建物の中にぽっかり開いた空間だった。他の居住区は、スヴァンホルムが執務をとり行なう区域を通らねばならず、ユウは、許可がなければ、その区域には入ることができない。

 壁に囲まれた中庭部分は、天井がなく、自然の光が四角の空から注がれていた、また、中庭の中心には、ユウの背丈の2倍ほどの高さの木が植わっていた。木の側にはテーブルとイスがあり、貴賓室の主(あるじ)は、少しだけ、トナティカの空気に触れることができるようになっていた。

 キュウー、キュー
 鳥の声がし、羽音が聞こえたような気がした。ユウは、小さな空を見上げた。

 キュウィー
 鳥を確認できなかったが、空から、何かが舞い降りてくる。
 ゆら、ゆらっと鮮やかな青色のものが、確かに降りてきていた。ユウはそれを逃さまいとじっと目で追った。

<かわいそうに>

<かわいそうに>

 いくつもの言葉たちがユウの頭の中に入ってきた。ユウは、ひざまづき、声を振り払おうと頭を振った。

「どうしましたか?」

 ティスタの声に顔を上げると、言葉と裏腹の冷めた目をしたティスタがいた。
 ティスタの手には、さっき舞い降りてきた青色の物があった。ティスタは、それをユウに差し出した。ユウに手に取れと、ティスタは促した。

(青色の羽……)
 指先で羽をつまむと、ユウは、光にかざしながら、羽を見た。

「久々の外の空気はどうでしたか? 部屋の中は、空調で、花粉やホコリを除去していますが、目にホコリでもはいったのでしょう。今日は、ここまでにしましょう」
 そう言うと、ティスタは、貴賓室に向かってすたすたと歩いていってしまった。ユウは、青色の羽とティスタの後姿を交互に見た。

 貴賓室に入いる前に、ティスタは振り返り、
「時間はたくさんあります。私は、これで失礼します」
 と言うと、目を伏せ、顔を下に向けた。トナティカの挨拶だった。地球の日本式の会釈と使う場面は似ていて、ユウは、トナティカにいる間、体まで曲げて挨拶してしまうので、プファンにいつも笑われていた。

(プファン……)

 ティスタが顔を上げると、唇をゆっくり動かした。

(えっ)

「待って」
 ユウは叫んだが、ティスタは足早に歩いていってしまい、部屋に入っていってしまった。

 ユウは、もう一度青色の羽を見た。
 顔を上げたティスタは、唇の端を上げ、美しい笑みを浮かべた。そして、その均整のとれた美しい唇はゆっくりと動き、ユウが見間違いしてなければ、確かにこう動いていた。
『あ・ゆ・み』。

 プファンは、『あゆみ』という名は、いい名前だと言っていた。ユウにとって、恥ずかしい名前だと思っていたのに、プファンは、好んでこの呼び方をした。
(期待してもいいのか? それとも、自分はすべてを自白していて、周りの人はすべて知っているのか? それとも……)
「いい名前だね。『あゆみ』というのはね、僕たちの部族では、友だちという意味なんだよ。それも、とても大切な友だちのことなんだ」

 (プファン、君の言葉を信じていいのか。希望を持っていいのか)



(16)
「どうだった? 楽しかったか?」
 スヴァンホルムは部屋に入るなり、ユウに声をかけた。

 ユウは、スヴァンホルムの明るい声に、少々戸惑いを感じていた。ティスタの最後の言葉がずっと気にかかって、部屋に戻ってから、そのことだけを考えていた。

「ティスタさんに、別の部屋を案内してもらいました。小さな庭を持った部屋です。久々に地面を歩くことができて、気持ちよかったです」

「貴賓室のことか?」

「はい」

「あそこの庭に出たのか。そうか。それはよかった。では、明日の天気がよければ、その部屋で昼食をとろう」

「わかりました」
 ユウは従順に答えた。

 物静かなユウの様子を見て、スヴァンホルムは、ユウに何かあったことを察し、話を続けた。
「ティスタは美しい少年だが、誰にでもニコニコ笑顔を振りまいているわけではない。言葉もきついかもしれないが、エフスキアの側にいるだけあって、いろいろなことを知っている。仲良くなれるといいな」
 ユウの浮かない顔を見て、スヴァンホルムは、ティスタから意地悪を受けたと思ったのだろう。ユウはスヴァンホルムの気遣いに答えるため、作り笑いを浮かべた。
「そうですね」
 スヴァンホルムの勘違いのおかげで、ユウはそれ以上詮索されずに済んだ。

 羽は、ベッドのシーツの下に隠していた。ベッドメーキングの時に、そっとはさんだので、カメラにも気づかれてないはずだった。ユウは、はさんだあたりに手をさりげなくもっていった。
 
「どうした?」
 ごそごそしているユウに、スヴァンホルムが声をかけてきた。
「いいえ、今日は、ベッドでゴロゴロしていたので、まだ、眠たくなくて」

「少し話をするか。一日の大半は一人でさみしいだろう」

「ここへ来て最初の頃は、体の調子も悪かったせいか寝ている時間が長かったのですが、今は、いろいろなことを考えると、なかなか眠れないことがあります」

「では、少しずつ、お前のできそうな労働を考えておこう」

「ありがとうございます」
 ユウは目を閉じた。

 少しの間の沈黙が続いたあと、スヴァンホルムは話し出した。
「古代……古代艦長は、どんな男だった?」
 
「古代艦長ですか?」
 突然の質問にユウは驚いた。ただ、驚きの声を上げない努力だけはできていて、ユウは息を整えた。

「スヴァンホルムさまに似ています」
 ユウは天井を見つめていた。
「私が不安になると、察して、その不安を解いてくれます」

「先日、会ったとき、昔と違っていた。あれが本当のあの男の姿か?」

「そのようにおっしゃられる方もおりますが、以前はとてもやさしい方だったと聞いています。若い頃は、孤独な人だったという人もいました。きっと、全部、当てはまっているのでしょう」
 ユウの記憶の中の進は、夜空を懐かしそうに見上げていた進の姿だった。時には寂しく、時には、悲しげな目をしていた。そして、ひとしきり眺めた後、優しい笑みを浮かべた顔で、ユウを抱きしめてくれた。

「孤独?」

「少年時代は天涯孤独だったそうです。奥さまと結婚をし、軍人を辞めたあとは、穏やかな人生を送っていたようです。トナティカを去られる時、奥さまとご子息を亡くされるまでは。それから、またお変わりになったのだそうです」
 ユウは、進から直接、地球防衛軍に戻ると聞いた時の進の変貌に驚いた。顔の筋肉が硬くなってしまったように無表情に話す進の姿に、前は抵抗を感じていたが、今思うと、悲しみや喜びといったすべての感情を、押し隠していたのだと思うようになっていた。
(今の自分といっしょだったのだ……たぶん)

 スヴァンホルムは驚いたようで、ユウにそれ以上は聞かなかった。
 ユウは、スヴァンホルムに、進の息子であることがばれないよう、わざと死んだことにして話した。スヴァンホルムとは、直接会った記憶はなかったが、すぐ側にいたことは確かで、とにかく、思い出させないように、自分の口で葬り去った。

(家族を亡くしていたのか……)
 スヴァンホルムは、一番最初に進の家族を紹介された時のことを思い出していた。
 美しい女性と、まだ、子どもの域にから抜け切っていない少年……美しい女性は鮮明に思い出せるのに、少年の顔を思い出せなかった。
(いや、一度は、きちんと紹介されたはず。いつ、どこで、だったか?)
 
(生き延びなければ。この地で、どうにか生き延びなければ、次のステップはない)
 ユウは、再び、目を閉じた。


(17)
「今日は、天気が悪いな」
 スヴァンホルムは窓の外の様子をうかがった。

「少し、暗いだけですよ」

「いや、このあたりはそろそろ雨季の季節に入る。天候の変化が激しくなる。今日は、雨になるな」

「そうなんですか」
 ユウはそう答えながら、頭の中で、トナティカの暦を数えていた。
(デディアスの月に入るのか)
 トナティカの月は、季節と連動している。長い月、短い月があり、月ごとに日数が大幅に違う。デディアスの月は、一番短く、雨季の月であり、25日間であった。もちろん、雨季がこのデディアスの月にぴったり重なる訳ではないが、ユウの知る限りは、ほぼ重なっていた。
 雨季は、一日雨が降る日ばかりになるので、外で遊べなくなるが、この月の間、村人や放浪の語り部たちが、老若男女集めて昔話を語り、また、音楽が得意な者は、音楽を披露していて、娯楽に事欠かなかった。仕事も室内中心になるので、この月は、織物や彫り物などを家で作る者が多かった。デディアスは、家籠もりの月であるが、普段垣間見ることができないトナティカの人の内面の豊かさを見つけることのできる、心聡(あきら)かなる月でもあった。
 ユウはこの月が好きだった。

「今日も、ティスタに来てもらった方がいいか?」
 スヴァンホルムは、ユウの顔色をうかがって行った。

 ユウは、スヴァンホルムの心配顔を見て、
「はい、ティスタさんが忙しくなければ、お願いします」
 と、笑顔で答えた。

「そうか、では、エフスキアにきいてみよう」
 スヴァンホルムの声が大きく響く。
(こういうところが……)
 「父に似ている」とユウは思った。人がいいのか、計算づくなのかわかならない。しかし、父の場合は、ヤマトの艦長としては定かではなかったが、普段はそれが素であった。

「うまく人と付き合うのも、努力が必要だ」
 そう、スヴァンホルムが諭すように言うと、ユウはうなずいた。
 (ティスタは、何が得意なのだろうか)
 プファンは、小さい小刀で、トナティカの鳥を彫るのが上手だった。木の形にあわせて、止まり木に止まっている鳥の姿をよく彫っていた。警戒している鳥たちは、そうそう人の近くで羽を休めることはないので、ユウは、頭上に飛んでいる鳥たちがどんな姿なのかを知ることができた。
 ティスタから得意なことを見せてもらえれば、少しは、心が打ち解けるかもしれないという期待もあった。それだけではなく、昨日の意味ありげなティスタの行動を知るには、いい機会である。

 待つことが楽しいは、久々だった。スヴァンホルムが仕事へ出かけた後も、ユウは一人でティスタが来るのを待っていた。ベッドをなおし、ドアに何度も近づいたり。自分のしていることは、なんと子どもっぽいかとユウは思った。
 いつの間にか、雨がぽつりぽつりと降り始め、やがて、外の木々の葉を激しく打ちぬくような音になった。
 
 少しうつらうつら意識が遠のいた時、その眠りをかき消すかのように、重いドアが音をたて開き始めた。ユウは飛び起きてドアに駆け寄ったが、隙間が大きくなるにつれて、後ろに一歩二歩と下がっていった。
 隙間から見えたのは、エフスキアであった。

「スヴァンホルムさまは、今日、この館から離れて仕事をしているのですよ」
 優しい言葉だが、ユウはどうにもこの男の言葉が信じることができなかった。
 
「今日の昼食は、こちらで用意しております」



(18)
 エフスキアに案内されたのは、昨日、ティスタに案内された貴賓室だった。ただし、中庭に続く扉は、今日は閉ざされていた。ユウは、天気がよければ、中庭で昼食を食べようと言っていたスヴァンホルムの言葉を思い出した。

 豆を炒ったような匂いが部屋に充満していた。

「ティスタも、仕事が済めば、こちらに時期、来るでしょう。飲み物でも飲んでお待ちください」
 エフスキアのやけに丁寧な言葉に、ユウは緊張した。

「私は、仕事に戻ります。ごゆっくり」
 エフスキアと目を合わせる気になれず、ユウは顔を伏せたままの姿勢でいた。

 エフスキアが立ち去ると、ユウは、テーブルの上のカップをのぞきこんだ。香ばしい匂いは、ユウに空腹を思い出させた。前にトナティカにいた時に、食前食後の飲み物……自然に出てきたつばをごくりと飲み込んだ。




 スヴァンホルムは、会議が終わると、時計を見た。少し遅くなるが、ユウと昼食を取るのには支障がない時刻だった。昨日、約束したのに、朝になって、視察の仕事が入っていたことに気づいたスヴァンホルムは、館に残っている部下にユウの夕食をたのんでいた。

「イサダイネ、私は、森の館へ戻る」
 スヴァンホルムは、隣で書類を調えていた男に声をかけた。

「食事の用意はできています」

「すまない、忘れ物をした」

「では私が…」
 という声をスヴァンホルムは打ち消した。
「いや、私室に忘れた」
 言った後、子どもじみた言い訳をしたことをスヴァンホルムは恥じた。

「実は、私から少し、お話したいことがありまして、今、少しをお時間をいただけないでしょうか?」
 普段は従順なイサダイネが粘っている。
 スヴァンホルムは、そういう時は、どんな話が出るか少しは心得ていた。特に、いつも自分にくっついているエフスキアがいないことから、なんとなく、エフスキアに気兼ねする話題なのだろう。

「話? 聞こう。その程度の時間は、私は気にしない」

「はい、それでは二つほど。一つは、不穏分子の動きが活発化しております。表面上、トナティカ支配は我々の意に沿っているように見えますが、トナティカの男たちのかなりの数が姿を隠したという話も入っております。それぞれの民族の特定の地域内での移動ではなく、大きく動いているようです。届け出有りの移動もありますが、届け出なしで移動している場合もありそうです。もう一つは、森の館で使っている少年たちです。トナティカ人の中には、特殊な能力を持っている者がおります。非科学的な能力を持っている者たちです。少年たちの中に、その能力を使って、外部に情報を漏らしているのではないかと言い出した部下がおりまして」

「特殊な力のことは、わかっている。トナティカの体の不自由な者たちの持っている力だな」

「はい。今までは、体が不自由な者が持っている……というのが、私たちの定説でしたが、微弱な力の持ち主でも、アンテナのようにたくさん並べれば、外部に言葉を伝達することができるのではないと、言い出した学者がいます」

「また、実験でもさせたのか」

「え、はい、少々」
 イサダイネは、目を閉じ、頭を下げた。
 人での実験は避けるようにと達しを出したのだが、興味をというのは底知れず、学者たちは何かにつけて、人体実験を続けていたというのをイサダイネは、自分の不安もあってか黙認していたようだった。
(そういうボラーのやり方が、彼らを刺激しているのだ)とスヴァンホルムは思った。少年たちについては、エフスキアに反対されると思ってか、エフスキアのいない今、報告をしているのだろう。

「学者たちは、実験をまとめているのか」

「はい、これは数日前の草稿ですが、昨日、私のところに持ってまいりました」
 イサダイネは、新しい書類をファイルから取り出した。

 思っていたより量が多いため、スヴァンホルムは、最後の数枚をめくって読んだ。
「これは、ゆっくり読んで検討しよう。それから、トナティカの男たちが移動しているという話は、気になる。前に調査したときに調べた地点で再度調査し、どの程度いないのか、チェックしよう。そうだな、トナティカの者たちには、定期的な動態調査をするので、前の調査で登録したところから移動したものは、速やかにもとの場所に戻るように、とでも言っておくか……何かあれば、動きだす」

「それだけでよろしいのでしょうか?」

 イサダイネの言葉にスヴァンホルムはうなづいた。

「何年に一回の巡礼に行っているとか、いろいろ言い訳がでるだろう。言い訳と人数を分析することで、何か見えてくることがあるかもしれない……これでいいかな? エフスキアには私から伝える。動態調査の件では、なるべく刺激しない文言を考えてくれ」

「わかりました。では、さっそく……」

 スヴァンホルムは、時計をもう一度見た。
「午後は遅れて開始にする。エフスキアにも連絡を取って、午後は参加するように伝えてくれ」
 スヴァンホルムは資料を小脇にかかえると、足早に部屋を出た。



(19)
 コトッ
 
(しまった……)
 ユウは、コップをテーブルに置くと、そのまま、テーブルに片手をついた。
 ここは敵地であるという意識がなくなっていたことを後悔した。
 テーブルの天板につかまっていた指の感覚がなくなってくると、ユウはますます後悔した。
 ごろりと床に倒れ込むと、ユウは、うつぶせにならないように右腕で体を持ち上げようとした。しかし、体は上がらず、額に右手の拳があたっていた。その拳さえ、顔からずらすことができなかった。
 
 消えゆきそうな意識のなか、ユウの耳に、足音が聞こえた。ゆっくり近づいてくる足音が、スヴァンホルムの足音ではないことだけは、ユウにも判断できた。

 まぶたが落ち、意識が途切れる寸前に、ユウの体は起こされた。それだけが幸いであった。首筋に柔らかい感触が走る。ユウは、反射的に、体の力を左足に集中させた。
(なんとか、一蹴り……)

「うう」
 相手は、小さくうなる。
 ユウは、上半身を両手で支えた。まだ、立ち上がる力はない。さっきの一蹴りに力が込めることができたのは奇跡のようだった。
(どうにかしなきゃ)

 ユウの様子を見守ろうとしているのか、相手は少しユウから距離をおいて、立ち上がった。

(エフスキア……)
 ユウは、その言葉も、声にならなかった。助けを呼ぶ言葉も発することができない。
 エフスキアの口元が小さく笑った。
 両手で支えて起こしていたユウの体は、再び床に転がった。
(たすけて……)

「あっ、ぃっ」
 再びエフスキアに抱き起こされたユウは、動かぬ体はあきらめて、せめて声だけは出そうと努力したが、声は喉で止まって、声にならなかった。
 体をよじるが、エフスキアの唇は、首筋から胸へ向かう。エフスキアの手は、ユウの衣服を剥ぎ取っていく。油のような液体がユウの体を流れていく。
 ユウは、再び足に力を入れるが、足先は宙を力なく動くだけだった。

(犯される……)
 落胆が意識を更に朦朧とさせる。
 
(ティスタ……)
 エフスキアの肩ごしに立っている誰かの姿が、ユウの視界に入ってきた。
(助けて、ティスタ)
 ユウは、もう一度、大きく体をよじって抵抗したが、両手を取られ、体も完全に押さえ込まれていた。
(助けて……)
 


「どうしたのだ? 何があったんだ」
 次に意識が戻った時、ユウは、スヴァンホルムに体を揺さぶられていた。目を開くと、周りは赤い血が、ペンキの缶をひっくり返したように大きく広がっている。血の真ん中には、エフスキアとティスタが倒れていた。

「おいっ」
 スヴァンホルムの服にも血がついている。ユウは、自分の手や体、顔にも返り血を浴びたように、たくさん血がついていることに気づいた。ユウの体についている血がスヴァンホルムについていた。

 ユウは、記憶を戻してみた。あの時、エフスキアの後ろにいたティスタの手には、果物ナイフのような、そんなに大きくない刃物が握られていた。そして、その刃物は、エフスキアの背に振り下ろされていった。何度も振り下ろされるナイフと共に、声にならないどす黒いイメージがティスタから流れ出てくる。叫び声、うめき声、そしてため息。
 ユウは、何度も振り下ろされる刃を見て、ただ、叫ぶだけだった。「ティスタ、やめて」と。無表情のティスタの顔と、エフスキアの声。飛び散る血。ダイレクトに届くティスタの感情に圧倒され、ユウの脳は、拒否をするため、すべてをシャットダウンして、閉じてしまったようだった。ユウの意識はそこでとまっていた。

「ああっ」
 思い出したユウは、スヴァンホルムにしがみついた。
「ティスタ、やめて。ティスタ、やめて……」
 ユウは、錯乱したように泣き叫んだ。スヴァンホルムは、無防備に飛び込んできたユウに驚いた。スヴァンホルムの体をつかむユウの力は尋常ではない。痛さで離れたいとユウの手をはずそうとするが、指先はスヴァンホルムの肉にますます食い込むように硬くなった。

「やめて、やめて……」
 ユウは、ずっとつぶやき続けた。
(まるで母を求める赤子のようだ)
スヴァンホルムは、ユウの体をしっかり抱きしめた。



(20)
「艦長、すみません」
 まだ、睡眠予定の時間内だったが、進は緊急通信で起こされた。宇宙勤務ではよくあることだが、進は、起こされる前に目を覚ましていた。
「大丈夫だ。何かあったのか?」
 
 画像の柳原涼子は意外と落ち着いていた。
「医務室の真田澪が、急に起きて、取り乱しています。体には異常がありませんが、落ち着いてくれないのです」

「わかった、今からそちらに行こう」
 ズボンを履き替え、上着を羽織ると、医務室へ向かった。自分が感じた胸騒ぎを、澪も感じたのだろうかと、胸元のスカーフを収めながら進は考えた。


「こちらです。艦長」
 医務室の涼子は、真理や数人の看護兵らに抑えられている澪の姿を指差した。
「とにかく、すごい力で。あっ」
 看護兵らの手をすり抜け、ネグリジェ姿の澪は、裸足でベッドを降り、部屋を抜けようとしていた。

「私が対処してみよう」
 以前の澪の暴走を抑えた進ならと、涼子は、進に委ねた。

「澪……」
 わざと扉を開き、進は自分の体でその隙間を埋め、澪をとうせんぼした。

「いやあ」
 手を掴む進から、何とか離れようと、澪は抵抗した。

「澪、しっかりするんだ、澪」
 進は、澪の体を覆うように抱きしめた。
「澪……サーシャ、目を覚まして」
 澪は、とにかく体を大きく揺らし、進の腕から逃れようとする。

「歩(あゆみ)、歩が……」
 進の腕の中の澪がうわごとのようにつぶやいた。

「歩? 歩がどうした? サーシャ」
 腕の中の澪が泣き叫んだ。
「怖い……歩が……助けに行かなきゃ。怖い…助けて……」
 澪の体は振るえ、抵抗していた澪の手は、いつしか進の体を掴み、更に体を進に密着させた。

「やめて、やめて・・・…」
 澪の声は、だんだん力なく消えていった。それとともに、力もだんだん抜けていく。進は、澪が倒れないように、澪の体を支えた。
 澪の呼吸はだんだん静かになり、体の震えは収まっていった。そして、小さな声を発すると、進の腕の中で気を失っていった。

「お…おとう…さぁん」

 進には、そう聞こえたように思えた。
 澪の口から出た言葉なのに、澪の声には聞こえなかった。
(歩なのか? まさか…そんなことはないだろうが)
 否定をしながら、進は、うれしかった。一瞬だけだったが、もう死んでいるかもしれない息子を、抱きしめていた感覚があった。
 たとえ、ただの勘違いであっても、それだけで、誰にも言わず一人抱えていたことが、軽くなったことだけは確かだった。

第14話 『悲恋』終わり
第15話 『イスカンダル』へ


なぜ、この話を書いたのか、知りたい方はこちらを読んでね
SORAMIMI 

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