寒天ゼリーは大正の初め、愛知県(旧)渥美郡田原村の鈴木菊次郎によって発明されました。
 

寒天ゼリーの歴史



 鈴木菊次郎氏は大工職幸左衛門の長男として、明治元年(1868) 8月15日に田原村 325 番屋敷で出生した。維新直前の田原藩政終末期であった。父の幸左衛門は同郡天津村、鈴木久四郎の次男で、菊次郎の祖父嘉右衛門の長女はねに入婿し、大工職を継いだ人である。彼は大工の棟梁だけではなく、左官、錻力職、彫刻など何でもでき、一面には茶の湯、花道、短歌にも精通した器用な風流人であった。  
幸左衛門は雅号を三咲と称し、次のような歌がのこされている。

海辺松 大御世にきこえ高師の浜松のさかゆく影によする白波月夜の海岸 雲迷ふひまより月のかげさへてひかりを岸によする沍波来 雁 秋風の声をもにあげ渡り来てかすみに帰る雁のうき舟遠山雪 登る日のひかりはるかに大峯のゆきこそてらせ浦安の国  

 幸左衛門とはねの間には、菊次郎をはじめとして三男ニ女が生まれた。菊次郎は生来極めて真面目で温厚無口であって、人と争わず誰からも愛せられていた。その明晰な頭脳は幼児から発揮されて時折人々を驚かすこともあったが、何分にも貧家で勉学も思うにまかせず、成人すると父祖の業を継いで大工の棟梁となり、父幸左衛門を助けて家業に精励した。菊次郎は30歳ころ、赤羽根村の宮田家よりたねを妻に迎えた。たねは賢い女で万事に如才なく、人を使うことも上手で、常に夫を助けて家計をきり廻すかたわら小間物商を営み、また飴菓子の類を作ってこれを販売していた。飴製造は田原地方の農家の家内作業として以前から行われ、自作の大麦を麦芽糖化して黄白色不透明の引き飴やタン切り飴として打っていた。浦村中神源三郎の「本朝年代要覧」によると、明治三十年(1897)正月に、光治・友太郎・継蔵・縫太郎の四人が浦村段の山で飴屋をはじめたという記事があるが、これはおそらく引き飴・タン切り飴の類であると推定される。   
 明治三十三年(1900)年菊次郎は伊勢参宮の帰路、フト目にふれた機械から思いついて、これに独自の創意工夫を加え、独特の製飴機ならびに製飴法を発明した。父幸左衛門の細工技術によって助けられたことは当然である。この機械が全国にさきがけて行われた晒飴製造の最初である。はじめのころはうるち米を原料としていたが、米麦騰貴のため安価なジャワの砕米を輸入し、同三十五年(1902)についにこれを原料とする晒飴の創製に成功したことは、水飴界に大進歩を与えた。当時晒飴製造は全国皆無で、しかも原料が見向きもされなかった外国砕米を使ったところに彼の非凡な才能を見出すことができる。こうして日夜研究を重ねて作られた飴が、現在の硫酸糖化によらぬ麦芽化の晒水飴である。      明治三十八年(1905)には新に晒飴工場を稗田(現中部電力の場所)に建てて製造に着手した。更に改良を重ね、特に真空蒸発、煮詰めには非常な苦心をはらった。最初の工場設備としては、ボイラー1・蒸発釜1・煮詰め釜2・その他少々の小規模な技術工場であった。この晒水飴は透明なガラスビンに詰め、「黄金飴」と銘名して売り出された。  明治四十一年(1908)に至り、菊次郎は同町内の伊藤忠四郎に晒飴製造の事業一切の権利を譲り渡して、彼は晒飴を原料とした加工品である固形飴菓子の製造を開始した。これに「翁飴」と命名して全国の市場に売り出したのである。翁飴の加工方法は、最初に寒天を溶かした中へ砂糖と水飴とを混入してよく煮詰め、次に色素や香料を加える。これを、みかん・ぶどう・りんご・バナナなどの形をした各種の型にミジン粉をつけて流し込み、乾燥して仕上げをする。この製造には、寒天溶解器・乾燥機・製菓器具の考案工夫が加えられた。寒天は北海道から取り寄せ、菓子型は得意の幸左衛門が自製した。翁飴は長期保存・滋養衛生・携帯便利の嗜好品として、また進物用として最も広く歓迎された製品である。これを東京の玉越吉松商店からは「養老飴」として発売し、名古屋では前野太吉商店・河合商店が特約販売を行った。最盛時の生産額は五十万円にも上ったと言われる。翁飴製造の原料である晒飴は伊藤忠四郎より収めさせ、菊次郎は加工製品の飴菓子の製造のみを専業とするに至った。彼は横浜の魚油会社に勤務したこともあり肝油入りの「肝油飴」なども製造した。          
 彼の創意工夫は止まる所なく、大正三年(1914)翁飴と水飴の特色を生かして「ゼリー」の発明に成功した。最初のころは「サイダボンボン」と言って、サイダーやミカン水の清涼飲料を加味したもので、あった。三cmか四cmくらいの長四角体の固形で、水飴の新鮮な透明度と軟らかさがあり、しかも携行摂食に便利な固体であることが斬新であった。彼が最も苦心したのは、このゼリーの軟らかさを永存することと、互いに密着するのを防ぐ方法であった。これを解決したのは食用包装「オブラート」の発明である。ゼリーに類したものは以前からあったが、これをオブラート巻きに工夫発明したのは菊次郎が元祖である。         
 彼がオブラートの発明にヒントを得たことについて一つのエピソードがある。ある朝、彼は飯炊き釜のふちに付着しているふきこぼれの汁が、乾燥してから半透明の薄い皮膜になったのを見て、「これだ。」と直感した。澱粉から薄い皮をつくることがオブラートの原理であった。最初のころは、澱粉の溶液を漆塗りの板へ流し、乾燥後はがして作られた厚手のものであった。その後改良されて漸次薄手のものとなり、こうして出来上がった包装ゼリーは大正九年(1920)赤羽根の杉原定吉、つづいて田原の松井登(松井製菓)に特約され、販売先は内地はもちろん、朝鮮、台湾、中国までも及んでいた。大正十二年(1923)ごろからは、特に名古屋の渡辺製菓会社が懇請して特約店となり盛んに出荷された。オブラートの特許権は大正六年(1917)に東京山元オブラート株式会社に譲渡されてから、薬用・製菓用として各所で製造され、ついに全国に広く使用されるに至った。                        
 菊次郎は名人肌職人気質の淡白潔癖であり、一面には頑固と思われるほど義理人情に厚い人がらで、特約店の面倒は一生見届けるという温情家であった。したがって多くの商社が特約するためには、並々ならぬ信用と誠実な営業を示さねば、通り一ぺんではできなかった。         晒水飴製造の権利を譲り受けた伊藤忠四郎は品質の改良と販路の拡張に努め、斯界に三河飴の声価を高めたのである。忠四郎は大正六年(1917)十二月に、別にトウモロコシから製飴の業を行なっていた広中譱司の松下工場を買収して稗田工場から移転し、更に飛躍的な発展をとげ、東京の森永製菓会社の原料飴は東京飯島製飴所とともに、その一手製造にかかるものであり、また関西方面にも多数の得意先を有して隆盛を極めた。忠四郎の子類治もまた父の志を継いで、新に東大浜へ大工場と邸宅を建設して事業の拡張を計った。戦前、伊藤工場の晒水飴出荷は年産十五万缶(一缶六貫八百匁入)価格六十万円を産出していた。                              
 鈴木菊次郎は昭和七年(1932)に突如転業して、翁飴・ゼリー製造の機械は名古屋市渡辺製菓会社及び自家の従業員であった職長藤目藤吉や鈴木道生に譲渡した。そして自然に親しむ生活に入り、大字加治恩中で蜜柑畑の果樹園経営をして老後を送っていた。そののち健康を害したので、東京青山の病院に入院して療養していたが、昭和十年(1935) 二月六日午後五時二十分、六十八才で没した。遺骨は新町の真宗龍泉寺に葬り、法名を釈諦亮とおくる。現在、鈴木家は薄荷製造を業とし、子幸一・まさ夫妻・孫武夫・芳夫妻・曽孫夫妻ら三代にわたって健在である。
 菊次郎が手がけた約三〇種類の専売特許は彼が独力でなしたもののほか、父幸左衛門と協同して工夫研究を重ねて仕上げたものも多く、中でも椰子油製造機は前田又平が支配人であった横浜魚油会社へ、大豆油製造機は田原町山内庄蔵へ、乾繭乾燥機は棚式を廻転式に改良したもので大正元年(1912)に近所の河辺音吉に譲渡して、いずれも成功せしめている。菊次郎は製飴のかたわら副業的に、金山寺味噌の製造販売、真田紐の製造販売、靴下の再生糸取り、防水布加工などいろいろな仕事に手を染めた。         
 現在、菊次郎の遺業をついで大々的に事業化されているものは、直系のもの傍系のもの群立して、地元に伊藤製飴・鈴木製飴・松井製菓・原野産業・広中製菓などがあり、豊橋に杉本屋製菓・金城製菓・光陽製菓・水鳥製菓、名古屋に渡辺製菓などがある。正に全国生産の大部分を占めるゼリー王国となった。              
  菊次郎がたどった生涯をふりかえってみるに、彼は事業家というよりもむしろ発明家と称すべきであろう。苦心して工夫考案された数々の特許は、その殆んどが他へ譲渡されて大工業化されている。自家営業という意欲は、次への発明に向けられて消滅して行った。道を歩くにも決してわき見をせず、常に前方の一点を注視し、腕を組み何か黙々と考えて歩を進める彼の姿は、まさに発明家の面影そのものであった。                                  出典:「田原町史」