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■11月1日 ≪「ECO CHANNEL」に鮎滝が≫

鮎滝がNHKの「ECO CHANNEL」に登録された。

何回見ても鮎が飛んでいる映像には感動する。
肉眼で見ると黒い筋のようにしか見えないのだが、
カメラの目は体をくねらせて空中を泳いでいる鮎をはっきりと捉えている。
気難しい鮎のこんな映像は中々撮ることができない。
『川場のカメラマン』森川さんの努力(執念?)の賜物だ。
今年の遡上は例年に比べてやや多かったようだ。
一鍬田の頭首工で約90万尾ほど遡上したいう。
そのうち鮎滝までたどり着いたのは1パーセントぐらいか。

今年も鮎滝で遊ぶことができた。
来年もより多くの鮎の遡上を期待しよう。
鮎滝の主役は鮎達なのだから。 (自分が主役と思っている人もいる)

■4月1日 ≪鮎滝のプレゼン作成≫



■名勝鮎滝PR配布資料

 元気村の鳥田さんに感化されたのだろう、笠網漁のプレゼンをつくる気になった。
 パワーポイントのアップも金がかかるし、時間を無駄にしているような気がして、プレゼンの資料をつくるのはあまり好きではない。だが、他人に効率良く情報を伝えるのには必要なことかも知れないと、暇に飽かせてつくってみた。(LibreOffce_Impress使用)

 以前から、400年も前に播州高砂の石工集団が鮎滝の岩盤を切り開きに来たとはちょっと信じ難かったが、調べてみると、その年1643年は【寛永の大飢饉】の真っ最中、
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(江戸初期の50年間は、マウンダー極小期と呼ばれている太陽活動の低下による寒冷な気候が続き、度々飢饉に襲われたようだ。その中でも最も厳しかったのが【寛永の大飢饉】、1940年頃から、西日本は日照り、東北は冷夏、わずかに中日本のみが何とか平常を保っていたらしい。幕府は、《煙草・酒・うどん・饅頭・菓子・身売り》等の禁止、《御救小屋の設置、飢人改・田畑永代売買禁止令》等の対策をたて、この難局を乗り切ろうとした。)
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 武士の搾取による農民の意欲の低下と相俟って、餓死か、一揆か、幕府の言うことに従い鮎滝の岩盤を切り開きに行くか、高砂の石工達にとって厳しい選択だったに違いない。
 そして彼らは鮎滝に来た。しかし、大飢饉がそう簡単に収まる訳もなく、高砂を出たこの石工集団は、彼方此方を転々としながら徐々に離散し、消滅したと考えられている。
 
 ネット時代は有難い。真意はともかく知りたい情報は少し探せば見つけることができる。
 過去と、現在と、おそらく未来もネット上でリンクしている。
 このろくでも無い時代も、考えようによっては楽しい時代なのかも知れない。