第39章  弱者の共闘




 ハノイにある連邦軍前線司令部には、異様とも言える緊張がみなぎっていた。その緊張感の源泉は司令官であるシアン・ビューフォート中佐(戦時大佐)自身であり、周囲に居る参謀達は彼が発する鬼気とも言えるような異常な圧力に完全に怯えてしまっている。
 その理由は簡単なもので、今日ここにあのアヤウラ・イスタスがやってくるからなのだ。アヤウラはシアンとは色々と因縁があるジオンの将校で、連邦からはB級戦犯容疑がかけられている犯罪人でもある。ここ最近でもシアンはアヤウラ率いる部隊の襲撃を受けてエゥーゴとカラバを壊滅させる絶好の機会を逸しており、彼に対して抜き難い怒りを覚えている。
 そんな事情もあって本来なら会見の申し込みなど断わっても良かったのだが、今回シアンがこの申し入れを受けた背景にはアヤウラが直接こちらに来るとを申し入れてきた事にある。あのアヤウラが自分で直接敵地に乗り込んでくるというのだから、よほど交渉材料に自信があるのだろう。
 そして会議室の椅子に腰を降ろしてイライラしながら待っていると、ようやく警備兵がアヤウラの到着を告げてきた。シアンが苛立たしげに入れるように命令すると、警備兵は蒼い顔をして会議室を飛び出ていってしまう。そして少しして、ようやくアヤウラが部下3名を伴って会議室に入ってきた。その顔は酷く疲れたようにやつれており、顔色も悪かったが、確かにシアンの知っているアヤウラ・イスタスだ。

「……久しぶりだなアヤウラ。随分と苦労してるみたいじゃないか。ええ?」
「おかげさまでな。お前こそ、その殺気をもう少し抑えたらどうだ。基地内の空気がやけに重かったぞ」
「ふん、その空気の中で平然としていられる貴様の体の構造を知りたいもんだ」

 皮肉を応酬しあった後、シアンはようやく気を落ち着かせた。途端に室内の空気が軽くなり、室内に居る2人以外の人間が安堵の息を漏らす。

「シアン、シェイドの力を抑えきれないとは、貴様らしくないな」
「黙れアヤウラ。貴様はそんな事を言いにここに来たのか?」
「いや、そういう訳ではない」

 シアンの鋭い視線を受けたアヤウラは首を横に振ると、シアンの正面に腰を降ろしてすぐさま実務的な話を始めた。

「まずこちらの提案を先に言おう。現在我々はティターンズの追撃を受けており、こちら側に押し込まれている。そこで、我々ジオン残党軍を北京宇宙港まで行かせて貰いたいのだ」
「……馬鹿か貴様は? なんで残党をみすみす逃がさなくてはならんのだ?」

 シアンはアヤウラの提案に呆れ果ててしまった。ジオン残党の撃滅は連邦地上軍の長年の悲願であり、ティターンズの手を借りるとはいえそれが達成できるのなら躊躇う理由にはならない。
 だが、アヤウラはシアンに対して何の利益も持ってこなかったわけではなかった。寧ろ、アヤウラはシアンの窮状を良く理解し、彼が今一番求めている物を用意していたのである。

「勿論、タダでとは言わない。我々に宇宙港とシャトルを提供してもらえるなら、我々は残存する戦闘可能な部隊を全て連邦軍の支援に投入しよう」
「……連邦軍と共同戦線を取りたい、ということか?」
「馬鹿な、ふざけている。ジオン残党が我々と手を組むだと!?」
「冗談じゃない。こんな奴ら信用できるものか!」

 アヤウラの提案にシアンは手を組んで黙考していたが、左右に付いていた参謀達が激昂して怒鳴りはじめた。彼らにしてみればジオン残党は明白な敵であり、手を組むなど冗談ではない。
 この罵声の嵐の中にあって、アヤウラは涼しい顔でシアンを見ていた。アヤウラにとって交渉相手はただ1人、シアンしか居ないのだ。他の者たちが何を言おうが、そんな物は雑音でしかない。彼らには何の決定権もないので、彼らを納得させてやる義理もメリットも無い。
 そして暫し黙考していたシアンは、ようやく目を開くとアヤウラに幾つか質問をしてきた。

「アヤウラ、今の貴様の手元の戦力は?」
「実戦に耐えられるのはMS28機、戦車16両、その他42両だな。歩兵は700人くらいだ」
「機械化歩兵2個大隊に1個MS大隊、というところか」
「1年戦争型の旧式機も入れて良いならもっと数は増えるが」
「……それも投入してもらうか。居ないよりはマシだろう」

 シアンはまるでアヤウラの提案を飲む事を前提にしているかのように話を進めている。それを感じ取った参謀達がシアンにまさかという感じで問い掛けてきた。

「大佐、まさかこの男の話に乗るおつもりですか!?」
「……今の時点で1個MS大隊を含む戦術部隊の価値は、後方にある師団に勝る。弾薬や支援はこちらがする必要はあるだろうがな」
「ですが、こいつらを信用するのは危険すぎます!」
「そんな事は言われなくても分かっている。こいつを信用するくらいなら、俺はバスクと笑顔で握手できる可能性に賭けるぞ」
「……それなのに、この男と手を組むと?」

 参謀達は信じられないという顔でシアンを見ている。ジオン残党と手を組むなど冗談ではないというのが彼らの考えなので、アヤウラを信用はしないが手は組むというシアンの思考が理解できないのだ。
 実の所、シアンの考え方はアヤウラに近い。同盟とはお互いに利用しあう関係であり、そこに真の信頼関係など求める方がおかしい。シアンはこの辺りを理解していたので、アヤウラの提案に乗ったのである。少なくとも現時点ではアヤウラとシアンの目的はティターンズの侵攻阻止で一致しており、この目的が一致している限りはアヤウラがシアンを裏切る可能性はまず無い。何故なら、そんな事をして連邦がティターンズに敗れれば、結局アヤウラも叩き潰されてしまうからだ。
 この辺りの事をシアンは参謀達に伝え、そして確認をするようにアヤウラを見る。

「こういう事なんだろ、アヤウラ?」
「……ふん、あの時の子供が、随分と成長したもんだな。俺も年を食うわけだ」

 少し悔しげにアヤウラは呻いたが、シアンの推測を否定したりはしなかった。交渉とは相手にもそれなりの能力が求められる物で、交渉を担当する片方が馬鹿だったりした場合、話が変な方向に行く事さえあるのだ。そういう意味ではシアンを相手にしたアヤウラは間違ってはいなかったのだろう。
 しかし、シアンはアヤウラの提案を素直に飲んだわけではなかった。協力してやるからにはそれ相応の仕事をしてもらうとばかりに、アヤウラの部隊を敵主力の正面に配置すると言ったのだ。これにはアヤウラよりもアヤウラに同行してきた部下達が文句をつけてきた。

「そんな、私たちの装備でティターンズ主力を相手取れなんて、正気なのか!?」
「幾らなんでも無茶苦茶だ。こっちの窮状を知らないからといっても、こんな命令を実行できるわけが無いだろう!」
「……よせ、カーナ、ガルタン」
「ですが閣下、我々はもう武器弾薬が欠乏しているのですよ。こんな状態で、ティターンズ主力の相手などできるわけが……」
「別に、シアンは俺たちだけに相手をしろと言っているのではない。こいつは俺の事を殺したくてしょうがないくらいに憎んでいるだろうが、戦場に行く奴に徒手空拳で死んでこい、なんていう奴じゃない。こいつは性根が救い難いほどに理想に走った甘ちゃんだからな」

 おそらく褒めているのだろうが、どう聞いても悪口にしか聞こえないので参謀達が殺気立ってしまった。まあ、シアンはブスッとした顔になっただけで怒ったりはしなかったが。この男相手にいちいち怒っていたら身が持たないという事を知っているからというのもあるが、この程度の皮肉は彼の日常生活では当たり前の事だからというのもある。何気にぐれた部下が多いのだ。
 そして悲しい事にアヤウラの予想は完全に正鵠を射ていた。シアンはティターンズ主力にぶつける部隊の1つにアヤウラを回すと言っていただけで、別に全軍をアヤウラに相手取れと言っていたのではない。ついでに言うと、武器弾薬もそれなりの量は出すつもりでもあった。
 物凄く馬鹿馬鹿しい話だが、この犬猿という言葉でも説明できないような憎悪で結ばれた2人は、同時にお互いの考えを理解しあっていたのである。そのせいで戦うときはお互いに手の内を読まれてしまうのが欠点だったりもする。

 こうしてアヤウラは一時的にシアンの指揮下に組み込まれ、シアンはアヤウラとの取引に従ってアヤウラ配下のジオン残党軍の後送を行った。その為に車両や輸送機を纏めて投入して一気に片付けてしまう辺りが連邦軍の底力を示していただろう。
 この時アヤウラが前線に出せるMSと言ったのはシュツーカとガーベラテトラの事で、実はこの2機種はアナハイム製なので連邦規格で作られている。この事が幸いし、彼ら連邦の武器をそのまま装備する事が可能だったのである。
 しかし、ここで1つのなんとも言えない、だが深刻な問題が起きてしまった。シアンはアヤウラの為に戦闘に必要と思える量の物資を厳しい台所事情の中から提供したのだが、提供された乏しい物資を前にしたアヤウラとその部下達は凍りついたように動けなくなってしまったのである。
 この提供した物資はシアンは自らが戻ってきた茜を伴って他に必要な物は無いかと聞いてきたのだが、返って来たのは悲鳴と怒号と絶叫であった。アヤウラ自身がシアンの胸倉掴み上げて完全に逆上している。

「き、き、貴様、これはなんかの嫌がらせか!?」
「な、何の事だ? 何か不満があったのか?」
「この物資の事だ。何だこの量は!?」
「ああ、そういう事か。まあ量が少ないのは分かるが、こっちの備蓄もそれ程余裕があるわけじゃないんだ。あと数日頑張れば補給と増援部隊が来るから、それまでは我慢して使い伸ばしてくれ」
「…………」

 シアンの謝罪を聞いたアヤウラは呆けたように口を開けたまま固まってしまい、そしてガックリとその場に膝を付いてしまった。シアンはどうしたのかと怪訝な顔になって周囲を見回して、そしてますます混乱してしまった。何故かそれまで騒いでいたアヤウラの部下たちまでがポカンとした顔をこちらに向けているではないか。
 シアンは訳が分からなくなって隣に居る茜を見たが、何故か茜もフウッと疲れたような溜息を漏らしている。本当にどうしたというのだろうか。
 そして、それまで膝を付いて打ちひしがれていたアヤウラはゆっくりと体を起こすと、なにやら地獄の底から漏れ聞こえるようなおどろおどろしい笑いを漏らしだした。

「く、うっくっくっくっく…………」
「ほ、本当にどうしたんだ、アヤウラ?」

 もうビビリまくってシアンはアヤウラに問い掛けた。なんと言うか、物凄く怖い。
 だが、この時のアヤウラの気持ちをシアンが理解できないのは当然だったかもしれない。何故なら、アヤウラの気持ちを理解するには、何もかもが最低限の極限状態で戦闘を繰り返すという敗北確定の状況を何度も経験する必要があるのだから。
 シアンは1年戦争からずっと連邦軍で頑張っていたが、敗北の経験は無数にあれど、その中に物資切れで負けたという戦いは無いのだ。連邦軍は実戦部隊の戦力ではジオンに押されていたが、その補給能力は最後の最後までジオンを圧倒し続けていたのだから。戦争終結後、連邦の勝利に最大の貢献をした兵器の中にミデア輸送機が入っていたのも当然だったろう。

「貴様、俺たちが何時もどれだけの物資をやりくりして戦っているか、知ってるか?」
「いや、知らないが?」
「くっくっく、そうだよな、そうだろうよ。貴様ら連邦は何時もそうだ。とんでもない物量で俺たちを馬鹿にしやがる」

 なんだか貧乏人の僻みみたいな台詞になっているが、アヤウラは本気で大真面目に言っていた。見れば周囲のアヤウラの部下達も荒んだ目でこっちを見ているではないか。

「何なんだ、一体?」
「シアン、ここに積み上げられている物資の量はなあ、俺たちの何ヶ月分の量になると思ってるんだ。それを何か、お前はこれを数日間持たせろなんて言うのか? いや、それよりも、どうやったらこれだけの量を数日で使い切れるんだ?」
「どうやってって、普通に戦ってればこれくらい直ぐに無くなるだろ?」

 どうやらシアンとアヤウラの間には根本的なズレがあるらしい。シアンにとって戦いとは有り余る物資を湯水のように使いまくる物量戦であり、多少の小細工など力で粉砕しようとする。だがアヤウラは最初から物量戦などという贅沢な戦法は外されており、とにかく奇策に頼ろうとする傾向がある。
 この違いは単純に言ってしまえば、持てる者と持たざる者の差であったろう。シアンは後先考えずに撃ちまくれる側に居たので、自然とそれを前提とした作戦を立ててしまうのだ。そのシアンにしてみれば今ここに積み上げている程度の武器弾薬では心許なく映るのだが、最初から無い無いずくしが前提のアヤウラにしてみれば、この物量は違う意味で脅威でさえある。というか、こんな山のような物資に支えられた作戦などこれまで立てた事が無いので、逆に困ってしまっているのだ。貧乏人が大金を突然手にしても使い道が分からないのと同じである。

「……1年戦争の頃にだって、これだけの物資を揃えられた部隊は無かっただろうよ」
「ジオンは大変だったんだなあ。連邦軍ならこれくらいは普通に使えたんだが」
「だから連邦は数だけだなんて言われたんだよ!」

 アヤウラはまたシアンの首を締め上げて文句を言い出した。もう嫉妬心剥き出しである。貧乏人の僻みと言ってしまえばそれまでだが、これまでのアヤウラの苦労を思うとそう言い切ってしまうのも気が引けるものがある。何しろあの茜が助けるべきかどうか悩んでいるくらいなのだ。彼女もファマス時代に補給不足で苦しんだ身である。




 まあ一悶着あったものの、アヤウラはシアンから彼の感覚で山のような物資を受け取り、ちょっと興奮気味にシアンに指定された地点に進出して陣地を構築した。アヤウラの指揮下に合ったジオン部隊。とりわけここまでアヤウラを支えてきたジオン工兵隊の設営能力は凄まじい物があり、少ない物資で実に効果的な防御陣地を作る術に長けていた。さらに仕掛け罠を作る術にも長けており、彼らがこれまでどうやって連邦軍と戦ってきたのかを垣間見せている。シアンの北京攻略の時にもアヤウラの部隊は連邦軍の航空偵察を完璧に誤魔化しきる偽装を施していたが、それもこの工兵隊の仕事だったのかもしれない。
 自分の陣地に次々に設置されていくMSや戦車用の壕や、巧みに設置されていく高射砲。敵が来ると思われる場所には手当たり次第に地雷を埋め、あるいはセンサーを設置して回る。普段なら物資不足で十分な準備など出来ないのだが、今日は使っても使っても使い切れないほどの物資があるので些か気合入りすぎの状態で完璧な準備をしている。物資が沢山あるのがよほど嬉しいのだろうか。

 前線で自分用のガーベラテトラを整備兵に任せ自らは後方に設置した仮設テントに司令部を設けて防御の指揮を取り出したアヤウラであったが、カーナが持って来た防衛体制の状況を見て苦笑をしていた。

「工兵隊の奴ら、随分と気合が入っているようだな」
「これまでの鬱憤を晴らすかのように頑張っています。何しろ連邦は陣地構築用と言って整備状態良好な土木用重機まで支給してくれましたから」
「……うちのボロボロのブルドーザーとは違うか?」
「全然違いますね。ミドルMSまでありますし」
「なんつう物量だ。そんな物まで気軽に寄越したのか」

 シアンが申し訳なく思うような量の物資であっても、アヤウラからすれば背筋が寒くなるような物量だ。アヤウラは連邦軍の凄さを良く理解しているつもりであったのだが、ここに来て実際にその物量を使う側になってみると、それが如何に恐ろしい物であるかが改めて実感できてきた。
 自分達はこんな化け物のような軍隊と戦っていたのか。ファマス戦役においてアヤウラは徹底した通商破壊戦を仕掛けていたが、あれだけ大量の輸送船を沈めても連邦軍の作戦遂行能力を完全に奪う事は出来なかった。あの時は不思議でならなかったが、この現実を見せ付けられては納得するしかない。自分たちの常識で測れるような相手ではないのだということを。

 アヤウラの部下達はシアンが驚くほどに有能であった。このジオン工兵隊はこの地域に展開している如何なる部隊よりも素早く陣地を完成させ、トラップの敷設を終えたのだ。そして戦闘部隊は構築された陣地への展開と砲の設置を完了し、ティターンズを待ち構えている。彼らよりずっと早く陣地構築を開始しながら未だに完了していない部隊がある事を思えば、アヤウラの部下達が如何に有能で勤勉かが分かるだろう。
 そして、シアンのいるハノイの司令部にティターンズの先鋒部隊がいよいよ防衛ラインに接近してきたという報告がもたらされて来た。空軍が出している偵察機の強行偵察の成功率が激減しており、ティターンズが多くの戦闘機を繰り出している事が分かる。これに対してシアンは空軍の戦闘機をまだ出す事はせず、ひたすらに敵が防衛ラインに接触するのを待っていた。

「大佐、第8中隊より連絡。敵MS部隊と交戦を開始したと!」
「……そうか、いよいよ来たか」

 通信兵の報告に小さく呟き、シアンは横においてある戦域図に目をやった。そこには自軍の部隊がハノイの前面に壁を作るように展開している様子が映し出されており、偵察機からの情報で発見された敵部隊の位置も表示されている。これ等はとりあえず発見された位置が時間帯ごとに色別で表示されているが、未だに新規発見の部隊が相次いでいる事からティターンズが本気でここに攻めてきている事が伺える。
 これに対してシアンはただ迎撃と指示するだけで、特にこれといった注文を付けたりはしなかった。この時点ではまだ戦線は動いていないので、前線指揮官たちの奮戦に期待する事しか出来ない。
 自分の席でじっと戦況報告に聞き入っていると、茜が部屋に入ってきてシアンの隣まで来た。

「義兄さ……大佐、シーマ大尉には寄せ集めの1個MS中隊を預けました。これより防衛線後方に遊撃戦力として配置します」
「ああ、頼む。彼女には辛いかもしれんがな」
「それは大丈夫でしょう。大尉も歴戦の指揮官です」

 茜はそう言うとまた部屋から出て行こうとしたが、それをシアンが呼び止めた。

「茜、お前にもかなり無茶な事をさせているな。すまない」
「いえ、ジオンで戦わされていた頃を思えば、義兄さんの下で戦えるのはずっとマシです」
「出来れば俺も出たいんだが、生憎と今は前線の司令官なんて肩書きを貰ってる。ここから動くわけにもいかん身だよ。息苦しい事だ」
「その辺りは分かっていますよ。義兄さんが出るような事態にはさせないつもりです」
「……死に急ぐなよ。幾らふざけた化け物とはいえ、俺たちにも生きる権利くらいはあるはずだからな」

 シアンの司令官としてではなく、義兄としての言葉に、茜は大きく頷いて部屋から出て行った。それを見送ったシアンは目を閉じると、このどうしようもない戦況をじっと考え込んでしまった。どうしてこんな状態になってしまったのか。どうして情報部はティターンズのこれほどのクーデターを察知できなかったのだろうか。どうしてティターンズはこれほど迅速に事を運ぶ事が出来たのだろうか。

「全てが上手く行き過ぎている。秋子さんはファマスの決起にも何か裏があるような事を言っていたが、今回のティターンズにも似たような裏があるのか?」

 連邦諜報部は無能ではない。シアンの知人にもバイエルラインという優秀な将校がおり、彼の能力をシアンは疑っていない。これほど大規模なクーデターともなれば、その兆候を情報部は掴めなかったのだろうか。
 ティターンズの動きがおかしいと感じさせる情報は幾つもあったし、詩子からもティターンズが戦力を集めているという情報は貰っていた。だがクーデターを起こす可能性までは知らされておらず、シアンも連邦軍の月面侵攻で決着が付き、安定した時代が来ると信じていたのだ。
 自分達がティターンズの決起に即座に対応できなかったということがこの苦戦を招いているという事は勿論承知しているが、それにしてもこの状況は酷すぎる。地上軍の半数がこの短期間で寝返るか撃破されるかで失われるなど、冗談としか思えない速さだ。よほど周到に根回しをしていたのかもしれないが、それにしても上手く行き過ぎている。何より、連中はこれだけの規模で部隊を展開させるだけの資金と物資を何処から得たというのだ。

「……ふん、一介の田舎基地司令官の身分じゃ、こんな事を考えるだけ無駄だな。こういう仕事は参謀本部や総司令部のお偉いさんの領分だ。もっとも、そいつらの殆どは戦死か消息不明なんだがな」

 ジャブローの地上軍総司令部はティターンズの攻撃で全滅し、ダカールの参謀本部もまた音信不通になっている。おかげで今の連邦軍は将官が枯渇しかけていた。1年戦争緒戦の大敗で多くの将官を失い、そしてファマス戦役の緒戦の大敗で旧主流派の将官が軒並み失脚して軍を追われたため、連邦軍は1年戦争前は過剰に居た高級将校が激減していたのである。ファマス戦役の失脚劇で将官の数は必要数をギリギリ満たす程度にまで減ってしまっていたのだが、ファマス戦役の激戦で更に消耗した為に必要数に足りなくなっていたのだ。
 それでファマス戦役後に人事で多少は将官の補充が行われたのだが、今度はエゥーゴとの戦いで少し消耗してしまった。そしてとうとうティターンズの決起で軍組織の維持が困難なほどに激減してしまったのである。特に師団長クラスである少将、中将の消耗が激しく、中将で方面軍司令官になっていたり、准将が軍を纏めていたりと無茶苦茶な事態になっている。
 よく将軍や提督は後方で偉そうにしているだけで死ぬのは前線の兵士達だと貶す者がいるが、それは役割というものを理解していない発言である。社長や役員が平社員の仕事をしていたら会社が成り立たないように、将官が兵卒と一緒に戦っていたら軍隊が成り立たないし、そもそも戦う事が出来なくなる。将官が不足するという事は、軍隊という組織が成り立たなくなるということなのだ。

 シアンは佐官でありながら中将レベルが率いるような部隊を纏めているが、部下の指揮官達も階級からすれば過剰な舞台を掌握している状態が続いている。幾ら遠征軍を迎え撃つという有利な状況であるとはいえども、下手をすれば指揮系統を支えきれなくなって全軍崩壊という事態をおこす可能性もある。シアンはそれを恐れていた。






 シアンが構築した防衛ラインにぶつかって来たのはマドラスに駐屯していたティターンズ地上軍の第4師団と、ティターンズに寝返った連邦のインド方面軍所属の第5軍であった。合計4個師団にもなる大軍である。これに対して連邦側は寄せ集めの2個師団程度の部隊なので真っ向勝負では話にならないが、曲りなりにも施した準備がこの大攻勢を辛くも食い止めていた。濃密なジャングルの中では大軍は自由に動けず、その行動ポイントは著しく制限される事になるので、その進撃路の予想は容易かった。連邦軍はこの予想進撃路を地雷原と化しており、ティターンズは進撃路を啓開する必要に迫られた。
 連邦の妨害もあってこの地雷原を突破する為に相当の時間を要したティターンズは大きな犠牲を支払っていたが、どうにかこれを突破して連邦陣地へと迫ってきた。元々きちんと構築された防衛ラインに攻撃を仕掛けるという時点で多少の損害は覚悟の上なのである。損害は軽くは無かったが、まだ我慢できる範囲だ。
 地雷原を突破したティターンズは連邦軍の防衛線にMSと戦車を正面に立てた突撃を開始した。どこかに1つでも穴を開けることが出来れば、そこを拡大して一気に防衛ラインを崩壊させる事が出来る。
 こんな事は当然連邦軍も理解しており、それだけに必死の攻防が繰り広げられる事になる。連邦軍はMSや戦車のみならず、高射砲に高速徹甲弾を込めて水平撃ちするという古臭い戦法まで使ってティターンズの打ち込もうとする楔の先端を破壊し続けた。旧式化して火力不足の61式戦車は戦車壕に入れ、半固定砲台として利用し、新鋭の81式戦車は一撃でMSを仕留められる砲を持っているので、こちらは普通に戦車として運用する事にしており、機動力の確保できる車道沿いに配置して撃ちまくらせている。

 このティターンズの突撃にあわせて航空支援のために空軍の戦闘機が飛来するようになっていたが、これに対してはシアンもこれまでなるべく温存していた空軍をここぞとばかりに投入して対抗していた。これまでの作戦で弾薬や燃料を消費していた空軍を決戦までひたすら温存して耐えてきたのだが、そのおかげで制空権争いでは今の所伯仲していた。元々この戦線は背後に多数の飛行場を抱えている連邦軍の方が航空戦では著しく有利で、ティターンズ空軍機が補給の為に引き上げた後もまだ上空に留まっている事が出来た。
 この為に制空権争いは少しずつ連邦有利に傾いていたが、これもどうなるかは分からない。制空権を失ったからといって地上の戦闘の趨勢を変えられると決まったわけでもないし、ティターンズにはギャプランという現在の空で最強の猛禽があるのだから。

 シアンはハノイで洪水のようにもたらされる情報の本流の中で必死に情勢を纏めている参謀たちの働きぶりを観察しながら、前線の情勢の変化の推移を眺めていた。ここの参謀たちはシアンの考えでは無能と罵ってしまったが、連邦全体で見れば凡庸と言われる程度の能力は持っていた。実際この司令部を運営していられるのは彼ら参謀たちの努力の賜物であり、彼らが必死に働いてくれるからシアンは情勢を把握する事ができている。
 この戦いが終わって生き延びる事が出来たら、彼らの努力にも何らかの形で報いてやる必要があるなと思考の片隅で思いながら、シアンは手近にいる参謀を捕まえて幾つかの指示を出してまた視線を地図に戻した。

「敵は南と南西に集中しているようだな。北に回りこまれたらどうしようかと思っていたが」

 作戦図を見ながらシアンは呟いた。シアンは手持ちの戦力の少なさから北部を手薄にして全力を南と南西からの攻勢に対処するべく振り向けていたので、もし北部から迂回攻撃を受けたら全軍の崩壊を招いてしまう。一応そちらへの対処として多少の守備隊を配置してあったが、纏まった数の敵に来られたら到底対抗しきれるような戦力ではない。
 もしこちらが突破されたら、その時はシアンがMSに乗って出撃する事態になってしまうだろう。物凄く間抜けな話であるが、この東南アジアの戦場にあって最強のパイロットは間違いなく彼である。1年戦争においてヨーロッパで戦った両軍の戦闘機パイロット達からは絶対者などと呼ばれ、ジオンのドップ乗りを恐れさせてきた。ファマス戦役ではパイロットとしてよりも指揮官として名声を得ていたが、それでもファマス戦役に参加したパイロットたちの中で最強の1人に数えられる凄腕である。

 そして、ティターンズの攻撃は自然と防衛線の中央、アヤウラたちが守るエリアへと集中され始めた。中央突破は火力を一点に集中してこそ最大の効果を発揮するので、この一点にティターンズは戦力を集中しだしたのだ。強固な縦深陣地を構築するほどの余裕は無かった為に、ここを突破されても第2線は無い。だからシアンはここに予備兵力を投入して防御力を上げると共に、砲兵に命じてここに砲弾とロケット弾を雨霰と撃ち込ませた。
 これに対抗するかのようにティターンズも攻勢を強め、ここは事実上東南アジア戦線の山場とも言える戦いとなってしまっていた。

 ここを守っていたアヤウラは、これまで経験した事の無い戦争のやり方に戸惑いを隠しきれなかった。固定された防衛線。MSも戦車も防御兵器として使い、敵を後方に通さない事を最大の目的として闘わなくてはならないという現実。これはアヤウラの戦い方ではなかった。アヤウラの戦い方はゲリラ戦であり、小数部隊を使った高速機動戦である。1年戦争でもファマス戦役でもこうして戦ってきたのだ。
 その代わりに慢性的に欠乏していた武器弾薬は山ほどある。先ほどから司令部の近くに設置されている155mm自走榴弾砲は砲も焼けよとばかりに後先考えず撃ちまくり、更に後方の砲兵陣地からは重砲の砲撃と多連装ロケットシステムから放たれるロケットが驟雨のように戦場に降り注いでいる。
 この圧倒的としか言いようのない火力の集中にアヤウラは完全に呆けてしまっていた。地上における最大の会戦と言われるオデッサの戦いにアヤウラは参加してはいないが、もし参加していたらこんな戦いを目の当たりに出来たのだろうか。

「これが連邦の戦い方か。今までは受ける側だったから忌々しいだけだったが、こうして使う側になるとその凄まじさが分かるな」
「はい。我々は、こんな攻撃をする相手と戦ってたんですね」

 アヤウラの呟きにカーナが応える。こんな戦いを目の当たりにしては、これまでの自分たちの戦い方が如何に綱渡りなものだったかが分かってしまう。
 そして、これほどの砲撃の中では誰も生き残っている物はいないとさえ思えるジャングルの中から湧き出すようにしてティターンズのMSが現れた。所々が黒く汚れているのは至近弾にやられたのだろうか。
 それを見たアヤウラは全軍に攻撃を開始させた。シュツーカやガーベラテトラから、旧式のザクUJ型に至るまでが持ってる武器を撃ちまくり、61式戦車や81式戦車が砲撃を開始する。
 この砲火に捉えられたMSはたちまち撃破された。中には一発で火を吹くものまでがあったのだが、その中からマラサイやバーザム、ガンダムマークUが破壊されずに踏み止まって反撃を加えてきた。特にストライク・マラサイは足が速く、地上戦は下半身が障害物で遮蔽されるので上半身が極端に被弾し易いという戦訓を元に上半身の装甲を強化されているので、被弾にも恐ろしいほど強いので厄介な敵となっている。武装もビームライフルであり、シュツーカもジムUも関係なく撃破されてしまう。
 これ等の第2世代MSに対してアヤウラの部下達は90mmマシンガンやジムライフルで対抗していたが、性能上の不利からかなり押されていた。
 むしろ、この戦場にあってティターンズMSの最大の脅威となったのはMSではなく81式戦車であった。口径こそ61式と同じ150mm砲であるが、MS時代に通用するだけの貫通力を与えられた新型砲を装備しており、ファマス戦役前に実用化されて以来改良を重ねられ、なんと1キロの距離からマラサイの装甲を撃ち抜く事が可能なのである。
 この砲を装備した81式戦車は遠距離から正確にMSを撃破することが出来る。それがティターンズMSにとって大きな脅威となっていたのだ。今もMSの放つ砲火の雨の中で反撃を加えながらも、後方から飛来した砲弾に胸部を撃ち抜かれて爆発するバーザムがいる。

 このアヤウラが守る陣地の戦いは苦戦の連続ではあったものの、時が経つにつれて徐々に連邦優勢に傾きだした。やはり入念に造られた陣地の防御力は大きい。特に双方が弾薬の消費量を競っているかのように撃ちまくっている曲射砲やロケット弾、ミサイル弾に対しては陣地に篭もっているというメリットが大きく物を言っている。攻撃しているティターンズ部隊はこの攻撃に対して無防備なので、連邦軍に対してかなり過大な損害を出しているのだ。
 加えてシアンが後方で目立つように動かしている予備の戦車大隊がアヤウラの陣地に攻撃をかけている部隊の側面を突こうと移動している事に気付いたティターンズは、一度この部隊を後退させて戦力の再編成を図った。もっとも、この戦車大隊の移動は最初からティターンズ部隊に側面攻撃の可能性を考慮させる目的の陽動部隊だったので、ティターンズが一度仕切り直してくれたのはむしろ狙い通りだった。
 このティターンズの後退をみてシアンはこの激戦区の負傷兵の後送と兵力、武器弾薬の補充を行った。弾薬の消費量は恐ろしい速さであるが、まだ我慢できるレベルに留まっている。あと1週間持たせれば補給が来る。その間だけ持たせられれば倉庫が殻になっても構わないという覚悟でシアンは撃ちまくらせていた。


 この後、ティターンズは日暮れ間際まで攻撃を継続していたが、日が沈むと共に攻勢を止めて後退した。流石にティターンズも疲れたのだろうとシアンは察したが、実際にはティターンズの指揮官達がこのハノイ防衛線の強固さに辟易した為である。
 幾度か突破できそうになった事はあったのだが、連邦はほころびかけた防衛線に直ぐにMS部隊を投入してきて穴を補強してしまい、ついにこの日は一度たりともティターンズに突破させる事は無かった。
 ティターンズはこの防衛線を正面攻勢で抜けると考えていたのだが、初日の攻勢でそれは難しいのではと考えるようになっていた。そして、ティターンズは作戦の変更を行う事になる。

 そしてティターンズは最初の攻撃から2日後の昼過ぎから攻撃を再開した。今度は前回のような強行突破を目指した物ではなく、戦線の全てに圧力をかけてくる正攻法で攻めてきている。
 これに対してシアンは困り果ててしまった。元々予備戦力に乏しいので、正面を増やされると手が回らなくなるのだ。更に戦域の拡大はそのまま指揮系統の圧迫へとつながり、元々貧弱だった司令部機能は限界を超えかけている。司令部要員の数が少なすぎたのだ。
 だが、ここに来てシアンの元に久々の朗報がもたらされた。マクモリス少将に頼んでいた援軍、機械化連隊2つがようやくハノイに到着したというのである。これはまさに天の助けで、シアンを含めて司令部要員は喝采の声を上げていた。およそ2倍の敵を相手に悲鳴を上げていた現状を考えればこれはまさに起死回生の物量と言えただろう。
 シアンは予備として1個連隊を残し、もう1個連隊は戦線の突破されそうな箇所に投入してこれを補強させた。この増援は十分な武器弾薬を持ってきていたので、いますぐには補給を圧迫する事も無かったのも大きい。

 この増援は前線の均衡状態を完全に破壊してしまった。ティターンズはこれまで半数の連邦軍を攻めきれないでいたのに、ここに更に増援が加わったのでは苦戦は免れない。元々戦場には攻者3倍の法則と呼ばれるものが存在しており、攻める側は守る側の3倍の兵力を必要とするといわれている。まあ実際には攻撃する側は攻撃する場所と時期を選ぶ権利があるので、攻撃を加える一点で3倍以上の戦力差を実現できれば大抵は何とかなるのだが、彼らは攻撃する場所を間違えていた。よりにもよって彼らはアヤウラが守る防衛線の中央部を攻め易いからという理由で攻めていたのだ。
 実際にはここに配備されているシュツーカやガーベラテトラは第1世代MSとしては最高の性能を誇り、マラサイにも引けを取らない強さを誇っているのだ。
 加えて、アヤウラとその配下の部隊はゴキブリ並にしぶとかった。元々逃げ回るのは上手いし、優勢な敵との戦闘でしぶとく戦い続けるのも慣れているので、ティターンズの猛攻に対して彼らは周囲の連邦軍を遙かに上回る生存率を記録していたのである。
 



 この状況が更に2日も続き、全体で少しずつ連邦軍が優勢になってきた。補給線が圧倒的に短い連邦軍は弾薬を湯水のように使ってくるのに対し、補給線が長いティターンズは弾を惜しみだしたのだ。
 この変化を敏感に感じ取ったシアンはこのままなら守り切れると考えていた。もうすぐすればマクモリスが更に大規模な増援を送ってくれる筈であり、それを前線に回せば完全な優勢を確保できる筈だ。今でも中隊、大隊レベルの増援部隊は逐次到着して前線に向っている。
 だが、この一見優勢に見える戦況は、偵察機の報告によって脆くも崩壊してしまう事になる。周辺の敵の動きを偵察していた偵察機が、シャン高原を突破して昆明にティターンズ部隊が到達している事を発見した。ここには連邦軍の部隊は駐屯しておらず、人が居なくなった市街地と放棄された飛行場があるだけだったのだが、ティターンズはこの飛行場にミデア輸送機で物資を運びこんで中継拠点として活用しようとしていたのである。
 シアンはこの報告に顔色を変えて更に詳細な報告を求めた。これに対して空軍は偵察機を送り込んで偵察を続け、昆明には1個MS師団と1個機械化師団が入っていると報告してきた。MS師団はMS連隊1つに支援の各種戦闘車両で構成される現代の主力師団で、足の速さと絶大な戦闘能力が特徴となる。ただし、その内実は他の師団編成とは大きく異なっており、打撃部隊ではあるが歩兵や装甲車の数が少なすぎるので都市部の占領などは出来ない。
 MS師団だけの編成なら目的は攻略ではなく破壊だといえるのだが、機械化師団を伴っているので占領も目論んでいる事になる。そしてその狙いを考えたシアンは、直ぐにその目標を見抜いた。現在の戦線を支えているのは後方の広州から送られてくる物資と部隊のおかげだが、これは柳州を通って陸路でハノイに運び込まれている。ティターンズはこの柳州を占領して補給線を断つ気なのだろう。こうなればハノイへの補給は空路に頼るしかなくなるからだ。

「まずいな。直ぐにマクモリス少将に柳州の防衛を依頼しろ。それと、前線部隊にハノイまでの後退指示を出せ。恐らくここも放棄する事になるぞ!」

 突然のシアンの命令に司令部に居た将兵は驚いてしまった。現状は明らかに優勢に傾いてきており、ここを放棄する理由は無い筈だ。確かに補給線が断たれるのは痛いが、空路を使えばある程度は受けられるのだから。
 しかし、これ等の疑問に対してシアンは焦りさえ感じさせる声で答えた。いや、実際にシアンは焦っていたのだ。

「柳州攻略に2個師団も必要ない。機械化師団1つで事足りる!」
「では、このMS師団は何処に?」
「決まっている、ここを狙っているんだ!」

 ティターンズが防衛線に対して総攻撃に出なかったのも当然だ。おそらく敵の指揮官は最初の大攻勢でこちらの防衛力が想像以上に高かった事を悟り、予備部隊を使って迂回挟撃に切り替えたのだろう。これまでの消耗戦は犠牲を覚悟しての時間稼ぎだったわけだ。
 いや、犠牲を覚悟とは言えないかもしれない。あのまま力押しを続けていたら犠牲は劇的に増えた挙句、作戦失敗という可能性も十分にあったのだ。その犠牲を部隊を迂回させる事に成功させた事で著しく減らせたのだろう。
 とにかく、こうなってはこれまでの防衛線を維持する事に意味はない。手元にある予備兵力は僅かに1個連隊より少し多いくらいであり、MS師団を食い止められるような戦力ではない。これに司令部の直卒部隊を加えても勝負できるような数ではないだろう。更に前線部隊も後退するとなれば、事情を知る敵は当然攻勢に出てくるだろうから、下手をしなくても殲滅されるかもしれない。

「……負けたな、この勝負」

 事ここに至っては敗北は避けられまい。こうなってはハノイ陥落を前提として次の作戦を立てるしかないが、部隊は何処に撤退するべきだろうか。
 暫し地図と睨めっこをしていたシアンは、重い溜息を漏らして司令部を見回した。

「ハノイを放棄する。全軍にハイフォンに後退するように命令を出せ。それからフィリピンの第7艦隊に救援要請を。防衛線の主力部隊の指揮はアヤウラにやらせる。俺は予備戦力を結集して北部からの敵を食い止める!」
「ア、 アヤウラにですか。何故あの男に!?」
「奴はあれでも歴戦の指揮官だ。特に負け慣れしているから、撤退戦は俺より上手くやれるだろう」
「ですが、ジオン残党に連邦軍の指揮を任せるなどと!」
「他に人がいない。体面など生き残った後で考えろ。それよりも、お前達は急いで司令部機能をハイフォンに移転させろ。指揮系統は維持されなくてはならん!」

 渋る参謀達を怒鳴りつけたシアンは、それ以上時間を無駄にするのは耐えられないとばかりに大股で司令部を後にした。残された参謀たちはどうしたものかと顔を見合わせたが、仕方なくシアンの指示を実行しだした。


 シアンは予備兵力として必要に応じて動かしていた茜たちやシーマ中隊を含むMS部隊と、未だに待機させてあった機械化1個連隊を纏めて北部からこちらに侵攻しているであろうティターンズMS師団を迎え撃つべく出撃した。防御拠点と考えているのはハノイに流れるホン川の中流にある街ラオカイ。シアンは敵が昆明から山岳地帯を避けて通り易い河川沿いの平地に出てくると考えており、この街を防衛拠点に選んだ。ここを突破されればハノイまで遮る物がないのだから当然ではあるのだが。
 こうしてハノイ防衛線は崩壊し、シアンは守る為の戦いから生き残る為の足掻きを始める事になった。




後書き

ジム改 ハノイ防衛線は1話で崩れてしまった。
栞   弱! 弱いですよシアンさん!
ジム改 物量で負けてるからな。仕方のないことだ。
栞   私達ならこれくらいの戦力差は跳ね返せます!
ジム改 緊急展開軍の戦力と一緒にするなよ。こっちは普通の部隊なんだから。
栞   ああ、ここに天野さんの大隊が居たら良かったのに。
ジム改 天野大隊が居たらシアンはハノイ防衛を考えたと思うぞ。
栞   ……MS連隊って、3個MS大隊で編成されてるんですよね?
ジム改 そうだぞ。
栞   天野さんは3倍の敵に勝てるんですか!?
ジム改 相手が地上軍の1個MS連隊なら、なんとか。
栞   ええい、天野大隊は化け物ですか!?
ジム改 化け物なんだよ。これまでの戦績を見れば分かるだろう。
栞   何を言うんです。私のしおりん軽騎隊に較べれば大した事はありません!
ジム改 …………
栞   デンドロビウムと4機のGレイヤーに敵はありません!
ジム改 今は動けないくせに。
栞   た、弾と推進剤があればいつでも戦えるんです!
ジム改 それだけの物資が備蓄されるのは何時の日かねえ。
栞   くうう、この卑怯者〜