太陽が完全に沈み切った時間に、上機嫌に歩いている眼鏡の青年。
 彼の名を久瀬義明。
 泣く子も黙る鬼の生徒会長……だった男。
 今では生徒会の仕事からも受験戦争からも脱し悠々と残りの高校生活を楽しむ身。
 彼の数少ない趣味、それは……
 戦闘でも先頭でも尖塔でもなくて……

 

 

 - 銭湯 -

 

 

 

 

 そう、銭湯なのだ。
 彼を知る人が聞けば皆自分の耳を疑うだろう。
 それぐらいに彼と銭湯とはイメージがかけ離れているのだ。
 あのようなのんびりとした銭湯のイメージが久瀬に見出せないと言う人間が多くを占めるだろう。
 ただ彼自身、その趣味と言うかほぼライフワークと言うか、を無闇に人に話そうとはしない。
 それが秘密主義故なのか、はたまたただ笑われない為にかは定かではない。
 わざわざバスにまで乗って地元から離れた銭湯に向かっているのも、
 知り合いに見られたくないためだろうか。

 まあそんな事は兎も角、彼は上機嫌なのであった。
 彼は四肢を思いきり伸ばし切って湯に漬かる事に至上の幸せを感じるのだ。
 その感覚を思い出すだけで普段の鉄の仮面が簡単に緩んでしまう。
 これがほとんどの人間が知らない久瀬義明の実体だった。

 程無くして彼は目的の銭湯に辿り着く。
 入り口に入り券を購入する。昔ながらの銭湯ではないのが少々悔しい久瀬。
 まあ今時残っているのか自体怪しいのではあるのだが、それでも雰囲気は大事だと彼は思う。
 その後脱衣所に向かい服を脱ぐ。
 上着から靴下までその場で綺麗に畳むのは彼の性格の問題だ。
 眼鏡もきちんとそこに置く。
 持ってきたタオルを腰に巻きシャンプーセット等を持ちいざ出陣。


 がらららら


 引戸を開けると中から勢い良く湯気が溢れて来る。
 久瀬はここで一度深呼吸。
 銭湯の中の人はまばらだった。
 手近な空いているシャワーの前に陣取りボタンを押して熱水を出す。

(ああ、気持ちいい)

 男のシャワーシーンなどあまり表現したくないものではある。
 まあそうも言っていられないのだが。

(手短に髪と身体を洗ってしまおう)

 持ってきていたシャンプーからピンク色の液体を掌に出す。
 それを軽く泡立ててそのまま髪へと手を伸ばす。
 シャカシャカとリズム良く髪を洗う。
 中々に念の入った洗い方だった。軽くマッサージもいれている。
 ざーと音を立てて桶に溜めていた熱水を頭から被る。
 少し長めの髪が目元まで降りてしまった。

(そろそろ散髪に行かねば)

 ぼんやりと鏡の中の自分を見ながらそう思う久瀬。
 考え事をしながらでも手はちゃんと動いている。
 頭と手を分離する術を実行している辺り、敏腕会長としての力が衰えていない事が分かる。
 今の彼にとっては、鏡の後ろに映る湯溜まりにダイブする事が最重要事項だった。
 気付けば身体も洗い終わっていた。
 手早くシャワーで身体を流しここからが本番だった。
 ゆっくりと右足からお湯に侵入する。
 この瞬間もまた彼にとって至福の時間だった。

「はぁ〜〜〜〜〜」

 ここで深く溜息。
 まさに疲れが飛んで行く様だ。
 久瀬は思い切り足を伸ばす。
 彼の家の風呂も大きめでは合ったがここまでの開放感はやはり感じられない。
 ふと眺めると中年の男性二人が不景気について語り合っている。
 まあそんな会話は久瀬の耳には全く持って入っては来てないのだが。

「はぁ」

 また溜息。今度は短い。
 だが彼にはその濃度が先のそれよりも濃い気がしていた。
 久瀬は湯に漬かりながらふと昔を思い出していた。
 昔、近所の銭湯に入り浸っていた頃だ。

(あれは……何年前だったか)

 考えを巡らす久瀬。
 細かくは思い出せない。多分小学校低学年ぐらいの頃だとぼんやり覚えている。
 とても雰囲気の良い趣が感じられた銭湯。
 そこで出会った姉弟。
 弟と自分が同い年だった事、趣味が似ていた事、
 等色々な経緯があってすぐにその弟と仲良くなっていった久瀬。
 姉の方は自分達よりも一つ年上の可憐な少女だった事を記憶している。
 ”おとこのこ”と言う奴は得てして年上に憧れる者だった。
 今考えればあれが自分の初恋なのかもしれないと思い出す久瀬。
 今では二人の顔もはっきりとは思い出せない。
 ただ弟の方の名前だけは覚えていた。

「カズ……君だったか」

 もしかしたらニックネームだったかもしれない。
 ちなみに久瀬はヨシ君と呼ばれていたはずだ。
 そう考えるとカズ君と言う物名前を短くしたものか、と思う。
 それ以上は思い出せない。
 姉の方など名前は最初から知らなかったはずだ。

(今頃あの姉弟はどうしているのだろうか)

 回想も終わった所で久瀬はそろそろ出ようと思った。
 長湯してのぼせてしまうのも馬鹿らしい。
 出る前に一度シャワーを浴びて、脱衣所へと戻った久瀬。
 持参したバスタオルで身体を丁寧に拭く。
 湯冷めして風邪をひいてしまうわけにもいかない。
 手早くシャツとパンツを着て眼鏡を掛ける。
 大きな鏡の前で自分の顔を見てみる。

(……)

 黙っていたら恐い。
 自分でそう思ってしまった久瀬は軽い自己嫌悪に陥る。
 確かに分厚い眼鏡に吊り目がちな目。
 確かに見る者の印象はあまりいいものとは言えない。
 ただ今はシャツとパンツ姿で扇風機の前に立っているから威厳も畏怖も何もあったものではない。

(気持ちいい)

 どうにも脳味噌が蕩けてしまったのか、考え方が緩い。
 このまま溶けてしまうのではないか、と馬鹿な事さえ考えてしまう。
 いや溶けてしまってもいい、とまで今の久瀬は思ってしまうのだ。
 数分、そうしていた久瀬はそろそろとばかりにドライヤーに手をかける。
 スイッチをオンにしてドライヤーから熱風が勢い良く飛び出す。
 彼の少しばかり長めの黒髪がどんどんと乾いていく。
 手串を使い髪を乾かす久瀬。
 十分乾いた後で最初着て来たジーパン、トレーナー等を着る。
 コートはまだ外で着ても十分だろう、と判断して手に持って脱衣所を後にする。

「わ〜〜〜〜おふろ〜〜〜〜〜〜!」
「おっふろ〜〜〜〜〜〜〜!」
「おっと?」

 久瀬の脇を子供二人が走りぬける。
 どうやらこれから入る様だ。
 久瀬はその様子を穏やかに目を細めながら見てまた昔の記憶の糸を辿る。

 

 

 


『ヨシ君はどんなお風呂が好き?』
『僕はやっぱり露天風呂! カズ君は?』
『僕も〜!』
『あはは、じゃあ今度みんなで一緒に露天風呂行きましょうね』
『『うん!!』』

 それは遠き日に交わした約束。
 結局は果たされる事の無かった約束。
 思えば自分も子供の時が本当にあったのだな、と妙に感慨深いものを感じる久瀬。

(惜しい事をしたものだ)

 きっと楽しい風呂になっただろう、そう素直に思える。
 そのまま素足でぺたぺたと歩く。靴下を履くのはまだやめておいたのだった。
 そのままリラクゼーションルームなる部屋に足を伸ばした。
 そこは汗を流す為のスポーツ用品などが完備されている場所だった。

「あれ? 久瀬さん?」
「?」

 考えるまでも無く振りかえり後悔する。
 何故自分がわざわざ地元ではなく遠くの銭湯までやってきた理由を失念していた久瀬。

「倉田さん……」
「こんばんは、久瀬さん♪」

 目の前には自分より一つ年上の女性、倉田佐祐理がニコニコと立っている。
 知り合いに会いたくなかったから遠出したと言うのに全くの無意味。
 往復バス代その他諸々が水泡と化したわけだ。

「珍しい所で会いますね」
「は……はは、そうですね」

 思わず顔が引き攣りそうになるのを必死に堪える。

(え……笑顔笑顔)

 久瀬は呪文か何かでも唱えるかの如くその言葉を頭の中で繰り返した。

「どうしたんです?」
「いっいえ! なんでもないです!!」
「そっそうですか?」

 急に大声を上げてしまった。
 幾人かは彼を何事か、と言わんばかりに見ている。

「久瀬さんも銭湯が好きなんすか?」
「えっ? ええ……まあ」

 曖昧に答える久瀬。

(……!?)

 久瀬は突然眩暈に似た感覚を覚えた。
 佐祐理の言葉を聞いてそれに反応したかの様に。

(……僕は……知っている?)

 既視感……デジャビュと言う奴だろうか?と己を分析する。

「久瀬さん? 顔色があまり良く無い様ですけど?」
「心配要りません。大丈夫です」

 何故大丈夫なのだろうか?
 何故何でも無い、と答えなかったのか。
 それは久瀬自身良く分かっていなかった。
 自分は彼女に知って欲しかったのか、とも思う。
 そんな事を何故彼女に知って欲しかったのか、それすらも良く久瀬には分かっていない。

「倉田さんは一人ですか?」
「いえ、舞と一緒です」
「成る程。お住まいは此方でしたか?」
「ええ、久しぶりに銭湯に行ってゆっくりとお風呂に入りたかったので」

 佐祐理が少し頬を染めているのは風呂で火照った所為か、
 はたまた久瀬に理由を話した所為か、今の久瀬には判断つかない。

「所で……川澄さんは?」
「まだ中です」
「ふむ……しばし話してもいいですか?」
「ええ、勿論です」

 彼女は微笑み言ってくれる。
 今日の自分は何かと思い通りに動いてくれない、そう彼は思う。
 何故、このような誘いをしたのか。

(敢えて理由付けをするなら……)

 先ほどのデジャビュがもっともしっくりくる理由だろう。
 あとは彼女の風呂上りの色香とでも言えばいいか。

(ななななな!!!)

 自分で考えておいて妙に顔が熱くなる久瀬。
 彼は恋愛事には未だ初心な18歳の少年であった。

「倉田さんも銭湯好きなのですか?」

 胸の動悸を抑えつつ久瀬は話題を振る。

「ええ、子供の頃から良く行ってましたよ〜」
「成る程」
「弟も大好きだったんです、特に露天風呂が」


 ドクン


 心臓の鳴る音を確かに久瀬は聞いた。
 抑えるつもりで振った話題で見事に墓穴を掘った。
 脈拍・心拍数ともに上昇中だ。

「一弥って言うんです」


 ドクンドクン


 一弥……かずや……かず……
 ああ、やっぱりこの人がそうだったのか。
 そう確信した久瀬。
 前々から何処かで会った事があるんじゃないかと不思議に思った事が多々あったのだ。
 今やっと確かめる事が出来た。

「弟さんが……いらっしゃったんですか」
「ええ、一応」

 佐祐理の表情に翳りが見える。
 久瀬は彼女のその顔を見るとこれ以上この話題には触れまいと誓った。
 そして自分の事を覚えているか等と尋ねれるほど久瀬は器用ではなかった。

「……久瀬?」
「え?」

 振りかえるとそこには川澄舞が立っていた。
 首にタオルをかけて右手には着替えが入ってるのであろうスポーツバッグ。
 久瀬の姿を見て心底驚いた表情を浮かべている。

「こんばんは」
「……(コクリ)」

 がその表情も直にいつもの顔に戻り久瀬の言葉に頷くだけで挨拶を終える舞。

「偶然ここで会ってお話してたの」
「そうなんですよ」

 佐祐理がそう説明する。

「久瀬も銭湯好き?」
「ええ、僕の数少ない趣味です」

 今更隠すつもりも消え失せたのかすんなりと答える久瀬。
 そのまましばらく三人で談笑をした。
 しばらくして舞がふと呟く。

「喉……乾いた」
「あははーそうだね」
「じゃあ牛乳でも買って飲みますか。定番ですし」

 銭湯といえばこれだろう。
 その言葉に二人も同意して牛乳を購入する。
 ちなみに佐祐理が普通の牛乳、舞がフルーツ牛乳、久瀬はコーヒー牛乳と見事に分かれた。

「……んぐ」
「……んく」
「……こく」

 全員が腰に片手を当て一気飲みの勢い。
 そこでまた久瀬は懐かしい思いに駆られた。

 

『僕コーヒーぎゅーにゅー!』

『えっと……僕フルーツぎゅーにゅー!』

『じゃあ私は普通の牛乳にしますね』

 

(間違い無い。彼女は確かに……カズ君のお姉さんなんだ)

 

 

「あれ?」
「佐祐理……泣いてるの?」
「あれ、あれれ〜?」

 見ると佐祐理が涙を流していた。
 それは少しずつ彼女の頬に小さな流れを作っていた。

「急に……懐かしくなって……何ででしょうか?」
「……さあ、僕には……良くわかりません」

 久瀬は感付いた。
 彼女もまた過去の情景が浮かんだのだ。
 ここから先は久瀬の憶測でしかないが、
 きっとカズ君はもうこの世にはいないのではなかろうか?
 先ほどの佐祐理の表情、そして今の彼女の涙。
 それが彼にそう判断させる理由であった。


 佐祐理の涙が止まるまで久瀬と舞は横で立っている事しか出来なかった。


「あはは〜、ごめんなさい」
「いえ、それでは僕はここらへんで」
「……さよなら」

 久瀬は早々に立ち去ろうとする。
 これ以上彼女と一緒にいると余計な事まで口走ってしまいそうになるからだ。
 久瀬は歩きながら二人に向けて言う。

「それでは、湯冷めしないよう気を付けてください」 
「……うん」

 背中越しに舞の言葉が聞こえる。

「ヨシ君もね〜〜!」

 

「……!?」

 久瀬は慌てて振りかえる。
 そこには反対方向に駆け出す佐祐理とそれを慌てて追いかける舞の背中があった。

「……綺麗だな」

 久瀬はそのまま首を上に向け夜空を眺めた。

 空には満点の星々。冬の空は澄んでいて良く星が見える。

 このまま歩いて帰るのもまた一興か、

 そう思えた青年の心もまた澄み切っていた。

 


 The End...


ジム改

 DAREKAさんから頂きました。銭湯がテーマというのはまさに意表を付かれた思いですね。
 しかし、やはり私は風呂上りはコーヒー牛乳が定番だろうと思うのですが、どうなんでしょうねえ。やはりフルーツ牛乳派の方が多いんでしょうか。