Special

特別対談

テパパ通信 発行:ニュージランド観光局 制作:ランズ
(許可を得て掲載しています)
 

初めてづくしの女性5人親善旅行

 日本ニュージーランド女子親善隊(佐藤テルさん、森宏子さん、
小倉董子さん、川井耿子さん、五百沢協子さん)

 NZ観光局スタッフが古本屋で見つけた「女五人ニュージーランドを行く」という1冊の本。そこには1961年、女性5人からなる「日本NZ女子親善隊」がNZで日本旋風を起こした様子が描かれていました。42年の時を経て、隊員の皆さんが当時の旅を振り返ります。

 
偏見と戦い、資金集めに奔走! 海外旅行がままならぬ時代
   
  −親善隊結成のきっかけは?
   

小倉

私と川井さんは早稲田大学山岳部で、昭和32年から33年に男ばかりの早大赤道アフリカ遠征隊に参加したのね。そのときに今度は女だけで行こうと。で、治安が良くて、氷河があって山に登れる国を探したらNZだったというわけです。
川井 そう。本当は私たち山に行きたかったんです。でも海外に出ること自体が大変な時代でしょ。海外渡航審議会で旅行目的を審議されたり、外貨使用許可がおりないと海外には行けなかったし。で、登山だと許可が出ないから、急遽カムフラージュのためで「親善隊」の名前にしたの。
 

日産から中古車を借りたワゴン車に5名の隊員、
登山用具、装備をつめ、南島北島をめぐる
左より佐藤、森、田村(現・五百沢)、後藤(小倉)、川井

   
  −女性の隊にこだわったのはなぜですか?
   
川井 その方がお金を集めやすいと思ったのかな?なんでだろう。
小倉 女だけで自立してやりたいってのはあったわね。アフリカに行くときに、なんで女が海外に行くんだって反対されたし、マスコミから「男の生理のはけ口に女を連れて行くの?」と質問されたくらいでしたから。
川井 たしかに芸者と言われたけど、私は、女がいる隊は他の隊よりも目立つという意味かと思ってた。
小倉 おケイちゃん(川井さん)は子供だったの!私はその言葉で「何がなんでも行ってやる」と思いました。で、行ってみたら世界は全然違うじゃない。日本だけが遅れてた。
   
  −準備も大変だったそうですね。
   
小倉 スポンサー探しに奔走しました。苦労した挙句、佐藤さんのご主人のコネで東京新聞がスポンサーになってくれて。車は、現地の人が日本車を見たがっているという理由を大使館の方に知恵を出して頂いて、トヨタから中古車を借りました。
 

1960年12月
ノーマン・ハーディ氏を日本へ迎え、NZ大使館で
パーティが開かれる
左より田村(現・五百沢)、
松方三郎(1962〜1968年日本山岳会会長)
訪日中のノーマン・ハーディ、後藤(小倉)、大使夫人、
佐藤テル隊長、川井耿子、 森宏子、NZ大使

   
  −隊長と皆さんの年の差は?
   
小倉 ちょうど親子くらいの差ですね。外国に行くのに、英語も外国のマナーも分からないと困るから、国際的で、山の経験も豊富な先輩として佐藤さんを隊長にお願いして、我々ジャジャ馬を教育していただいたわけです。
佐藤 そんな感じじゃなかったわ。私はみんなをお友達だと思っていたもの。
小倉 佐藤さんはご主人から、行っていいってお許し頂いたんでしたね。
佐藤 アメリカだと、たくさんの日本人が行っているから、向こうの人も慣れていて、つまらないだろうけど、NZなら歓迎されるだろうって言ってくれました。何でも一番最初ってのはおもしろいものですよ。
 

北島エグモント山

   
芸は身を助く!役者揃いの5人 連夜町をあげての親善パーティー
   
川井 どの町でも日本文化を紹介するパーティーがあったわね。
五百沢 日本大使館の人が決めたスケジュールが、ビッシリだったもの。南島と北島を車で回りながら、今日はどこ、明日はどこって。山に登れる日はほんの少しだったのよね。
川井 日本人が滅多に来ないから、大使館の人も張り切って、スケジュール作ったのよ。
小倉 どこの町でも市長さんはニコニコして待ってるし、楽隊がブンチャカ演奏してるし。私たちが到着して、真っ黒な顔で出て行くと、みなさん喜んでくださった。
五百沢 戦争花嫁もたくさんいましたね。戦争後、NZに嫁いだ日本女性の方々。日本人が来ると聞いて、何百キロも離れた田舎町からパーティーに来た方もいらして。私たちを見てすごく喜ばれました。
小倉 だって、ほとんどの地元新聞の1面を飾ったもの。町を歩くと、みんな我々を知ってたわね。
川井 でも、行く町々で大歓迎されたのは、隊長の英語力と社交術のおかげ。佐藤隊長のユーモアを交えた素晴らしいスピーチのおかげで、日本のことをちゃんと理解してもらえた。
小倉 私たちが疲れてブーッとした顔してると、隊長が後ろ向いて鬼ババの顔でにらむわけ(笑)。で、正面向いたらニコニコ顔。完璧な大使でしたよ。
 

ニュージーランド山岳会の山仲間とトレーニング
(クック登頂した優れた登山家たち)
右からマギー、ジョン、ヒマラヤへ行ったハーディ、ベブ
右から佐藤、森、後藤(小倉)

   
  −パーティーでは何を披露されたのですか?
   
小倉 私はお琴と合気道、そしてTV出演では書道を披露しました。
私は合気道で投げられる役。でも合気道って、投げられる方が大変なの。
小倉 森ちゃんは受け身を習っただけあって、構えだけは決まってたわ。私は先生に「技に残心がある!」なんて言われてたもの(笑)。
NZの男性にかなうわけなんてないから、まず型を見せて…。
小倉 「合気道とは力ではありません。相手の力を利用するのです」、なんて神妙に説明する。ホントは男の人に腕をつかまれて身動きできないんだけど、「力ではありません…」なんて言いながら、スッと抜けると、相手が驚く(笑)。
 

合気道の紹介 後藤(小倉)

川井 インチキだわねえ。でも、私はお花の免状を持っていたから、お墨付きだったのよ。
私の日本舞踊は小さいときに習っただけなんだけど。グラちゃん(五百沢さん)と二人で踊りました。「さくらさくら」なんて、折り紙を切ったのをパーッと散らしたりして。
小倉 グラちゃんは体操みたいにガクガク踊ってるんだけど、向こうの人は初めて見るから、上手か下手か分からないし(笑)。いざとなったら、みんな役者だったわ。でも嫁入り修業で嫌々やっていた習い事が、海外の山に行くのに役立ったのも、おもしろい話ね。母親に感謝しなくてはいけないと思いました。
 

後藤(小倉)が琴、川井耿子が歌を歌った

   
あるわ、あるわの旅行裏話 レディライクに大使の大役を果たす
   
佐藤 でも、みんな、よく私の言うこと聞いてくれたわね。アレするな、コレするなってやかましかったのに。
川井 でも、叱られても後にひかないのが隊長のすごいところ。マナーを教えるために、たしなめるという感じだったわ。
佐藤さんが書いたエチケット集を私たちは「佐藤憲法」って呼んでいて、船の中ではマナー教室もありました。船酔いしてダメだったけどね。
小倉 佐藤憲法は今でも通用しますよ。でもダンスの項は難しいわね。「つかず離れず踊る」って書いてあるもの(笑)。あと、お酒の飲み方も、注意された。
川井 レディたるもの、食前にはシェリーを頼むべきだったのよね。でも日本じゃトリスバーの時代でしょ。私たちはウイスキーを頼んじゃうのよ。
五百沢 レディライクじゃないって何度も叱られたわねえ。
 

ヒラリー宅にて
NZの新聞社取材のとき NZ エドモンド・ヒラリー氏と

   
  −滞在中、ハプニングは?
   
ホストファミリーの男性が苦手だったことがありますね。だって、すごく大きな男なのに女の言葉を喋るんだもの。朝、モーニングティーって、ベッドまで親切にお茶持ってくるんだけど、怖くて泣いちゃった。
小倉 そういえば隊長も泣いたんです。佐藤さんは食べることが大好きなの。で、山小屋で食料が乏しいときなのに「デザートがないわ」って文句言った。私会計係だから「そんな贅沢は許しません!」って言ったわけ。そしたらベッドでシクシク泣いてるのよ。まさか自分が隊長を泣かすなんて、驚いたわよ。
川井 忙しい旅が続くと、時には疲れて泣きたくもなるわよ。
佐藤 でも、私は疲れたからって泣いたことはないわ。
小倉 そう。佐藤さんの辞書に「疲れた」という文字はない。でもグラちゃんは睡眠をとらないとダメな人でね。突然消えて大騒ぎになったり…。
五百沢 おもしろそうなものが見えて、ついて行ったのよ。ワガママでよく怒られました。
佐藤 そんな言うほど、みんなワガママじゃなかったわ。でも明治と昭和じゃ、ものの考え方がだいぶ違いますからね。私は典型的な明治の女ですから。
小倉 そうね。佐藤さんは明治の女。やるとなったら命がけでやる性格でいらっしゃる。
ふた言目には「お国のため」だもん。
小倉 「あなたたちは親善大使なんだから、キチッとしなさい」って言われたわよね。いい勉強でした。今じゃ、私が若い人に同じこと言ってる。
佐藤 私は、どこに行っても日本の代表だと思ってますよ。私たちがおかしいことしたら、日本人みんなが笑われる、とね。だから、私みたいな(厳しい)者が隊長に選ばれたんだと思いましたよ。
川井 隊長は外部からの申し入れに答えるために、若い私たちを説得しないといけないし。ご苦労だったと思いますよ。
小倉 よく覚えているのは、「あなたたちが今、楽しく過ごせるのは、ご両親が丈夫な体をくださったからよ」って言葉。
佐藤 私、そんなエラそうなこと言わないわ。
小倉 言いました。私、最近それも若い人に言うのよね。
川井 みんな隊長の受け売りじゃないの!
   
女性の地位向上の一翼を担ったパワフルな5人の隊員たち
   
小倉 森さんは、あのNZ旅行が転機になったわね。帰国後1時間番組を作ったら、素晴らしい出来でカメラ・ウーマンとして認められて。以降の遠征は、「あの人たちが行くなら」って、頼まなくても車を提供してもらえるようになったもの。我々のやってきたことは、日本のシステムや女性の意識を少しずつ変える力になったと思う。自分で言うことじゃないけど(笑)。
そうね。NZの旅は人生のひとつのステップだった。誘われたとき、行きませんって言ってたら、何も始まらなかったわね。その後も小倉さんと五百沢さんとはアジアハイウェイ、南米縦断、東欧、サハラ砂漠と、世界中いろいろ行きました。テレビの仕事も、いい時代だったと思います。
五百沢 私にとっては、NZが初めての英語の世界だったんです。お世話になったホストファミリーと長〜い間続けた手紙のやりとりが、英語のブラッシュ・アップになって。その後、翻訳の仕事に就いたから、やっぱりあの旅はきっかけでしたね。
   
  −最近の生活は?
   
私は12年前に退職して、今は長唄、三味線、油絵、詩吟、ゴルフをやりたい放題。
五百沢 私はボランティアで地域の人権擁護委員をやってます。最近、織物を始めたから、NZのウールが気になっていますね。
小倉 私はいろいろ忙しいんです。朝日カルチャーセンターで川井さんと五百沢さんに手伝ってもらって、女性登山教室の講師を18年務めたのだけど、その修了生の会の会長、日本山岳会の常任評議委員、森林インストラクターの審査員をやっています。趣味は、水墨画と長唄、山、車、冬はクロカンね。
川井 女性登山教室では、世界中のトレッキングに出かけたのよ。今は中高年の登山がブームですけれど、その一翼を私たちも担ったかなと思ってます。最近は私は、海外旅行の機会が多いかな。
佐藤 私は今は、お友達に手紙を書くことが仕事みたいなものね。
川井 でも、佐藤さんお元気よね。目も耳もいいんですもの。
佐藤 心もいいって言ってちょうだい(笑)。
 

佐藤テル 白寿の会にて 2003年8月23日
後列左から 森宏子 川井耿子
前列左から 五百沢協子 佐藤テル 小倉董子


  隊員プロフィール
   
●佐藤テル(さとうてる)さん 99歳
  隊長。冬の富士山登頂を果たした初の女性。戦後はGHQ秘書、同時通訳として活躍。50代でニューヨークの大学に留学、帰国後下着デザイナーに。70代で『誰でも行ける楽しいヒマラヤ』出版。85歳でオーストラリアに単身移住。現在は神奈川県在住。
   
●森宏子(もりひろこ)さん 73歳
  撮影係。東京女子大卒。当時、日本テレビで映画編集部員として勤務。限られたフイルムで撮影したNZのフイルムが好評を博し、以後、世界各国の紀行番組を多く手がけた。
   
●小倉董子(おぐらのぶこ)さん 70歳
  会計係、ドライバー。早稲田大学山岳部の女性部員第1号。当時は婦人画報社の編集者。NZ旅行後も世界各地の遠征を敢行。『これなら安心山歩き入門』、『山歩き讃歌』など著書多数。
   
●川井耿子(かわいけいこ)さん 67歳
  装備係、ドライバー。大学時代に小倉さんとアフリカ遠征に参加。また小倉さんと女性登山教室講師を務め、世界中で登山とトレッキングを楽しむ。
   
●五百沢協子(いおざわきょうこ)さん 67歳
  記録係、食料係。早稲田大学卒業後、SITA世界旅行会社に勤務。翻訳業のかたわら、小倉さん、森さんと世界各地に遠征。また小倉さんと女性登山教室講師を務めた。
   
  「親善隊」の旅ミニデータ
●期間 1960年12月31日〜61年5月3日 (123日)
●アクセス 貨物船
  (往路は神戸からオークランドへ18日、復路はマウント・マンガヌイから神戸へ21日)
●費用 合計418万円
  (船賃は1人片道13万円。滞在費は1人1日2500円程度)
●訪問都市(地)15
  (訪問順にオークランド、タウポ、ウエリントン、クライストチャーチ、クィーンズタウン、ミルフォード・サウンド、インバーカーギル、ダニーデン、マルイア温泉、ネルソン、ハウェラ、ワイトモ、ハミルトン、ロトルア、ネーピア)
●登った山 5峰
  ・ロールストン山〈アーサーズ・パス〉
・セアリー山、ウォルター山〈マウント・クック〉
・エグモント山〈タラナキ〉
・ルアペフ山〈トンガリロ〉
 ※カツコ内は国立公園名
●装備
  登山・キャンプ用具、自動車、自動車部品、料理道具、着物、ユニフォーム、琴、活け花道具、柔道着、ちょうちん、国旗、文房具、ムービーカメラ、タイプライター、テープレコーダーなど。

  2003年8月23日 隊長の佐藤テルさんの白寿をお祝いしました。
 
   佐藤さんは、皆さんと話すうちに昔に返りジョークも飛び出し、生き生きと輝いていました。
 常に多くの人に囲まれていることの大切さを目の当たりにしました。とても素晴らしい会でした。
 
   
 
   現在は佐藤テルさんの姪ご夫妻とご一緒に葉山で暮らしていらっしゃいます。