釣りにはまる

もう物心ついた頃からかなー、近所の眼鏡池でザリガニ釣りをしていた蛙の皮をむき木綿糸で棒の先に吊して釣るのです。今はちくわやスルメで釣るのかな近所の公園の池で沢山釣れるようです。
当時は食料事情もあまり良くなく、家に帰ると、あるのはふかし芋か芋切り干しなので椎の実、アケビ、山桃、バライチゴ、グミ、山芋、ムカゴ、など自給自足をして遊んでいました。
台風になると眼鏡池から鮒やドジョウが小さな水路を登るのです、水が引く時に沢山の人が水路にヨツデ網やタケミで魚を捕まえるのです(食べる為です)。
水がひいてしまった後田んぼの中の足跡の中に鮒が沢山残っていて捕まえた覚えがあります。
冬のドジョウ掘りも楽しかったですね、田んぼの隅の土水路をビッチュウで掘るのです、土の中から冬眠中のドジョウが出てくるのです、スッポンまで出たことがありますよ。
釣りと言えばなんと言ってもハゼ釣りから始まりました、小学生のころ兄に連れていってもらい豊橋の豊川河口で釣り始めた、沢山のハゼが良く釣れました、それ以降は友だちと毎週ように通いはじめたのです。
当時はエサを買うお金もなくて、ミミズを自分で掘って釣るのです、そのころ潮干狩りを覚え大潮になるとアサリ、蛤を沢山捕ったのです、水が満ちてくるとアサリのムキミでハゼを釣りました。中学生の頃は砂浜で貝のいる所が一個一個が分かるようになったのですが、今はもう分かりません。
学生、社会人でしばらく東京、名古屋にいたため中断の期間があったのですが、豊橋に帰り釣りの再開、浜名湖の砂揚場で鰈を釣って、おおおぉー魚屋で売っている魚が釣れたーと感激\(^^)/。
それ以来浜名湖に通う、当時釣ったマコガレイが魚拓第一号39cmある浜名湖の大橋屋釣り具店でとっていただいて
しばらく釣具店に飾つてあった、その後は渥美郡の中部電力火力発電所の油揚げ桟橋での手漕ぎのボート釣り、これが又沢山釣れたのです。とにかく波がなく海に出られれば大漁、大物はいないのですが数が半端でないほど釣れたのです。
この頃から渓流釣りでアマゴやアユも釣るようになり、なんでも釣るようになったのです。大物も静岡県の三保や原海岸まで出かける様になり、年に2どほど金沢まで友人と鰈釣りに行くようになりましたこのとき釣ったヌマ鰈が48.5cmが自己最長寸の鰈です。この頃は釣りにも自信を持ち雑誌のフィッシュオンにも投稿するようになったのです。週間釣りサンデーにもキスの大物で表彰され大阪まで出かけたことがあります

1985年にサーフ、ゴンベッサを結成して全日本サーフ愛知協会に加盟自信満々でしたが、この時は上には上がいるなーと実感したのです、釣り大会でもお金を出すだけで賞品はみんな持っていかれてしまいました。
それからは隠岐、五島列島、四国、佐渡、伊豆七島、などイロイロ遠征に出かけて数々の大物を釣りました、一番記憶に残っているのは静岡県三保海岸でマダイの大物をしとめたことです。
この時はまだへたくそでドラッグをゆるめたりリールを逆転させることなど知らず。竿が竿立てから飛んで砂浜を引きずられて行くのを、あわてて拾い、竿を立てるとリールは巻けずキューン、キューンと糸鳴り、ただ闇雲に我慢していると少しずつ巻けるようになり、寄って来たのです、闇の中でヘッドランプ照らされ波打ち際で横向きになって赤い魚体で泳ぐ姿が浮かび上がったときは心臓が飛び出すほどの気持ちでした。
寄せ波に乗せて浜にズリあげ鯛を前にタバコを一服した時の気持ち今も手に取るように思い出せます(今は吸わないよ)。
悲願は全日本サーフ大物200号と25種達成ですが、大物は到達25種がリーチ
で後はハゼのみ、いつかはハゼ口を釣りに行きたいと考えています。
現在大物201号特別大物330号で申請数531になっていますが、寄る年波の金欠病で年間の申請数は激変してクラブのお荷物状態なのです。