寺報

土塀の工事

寺報 お墓参りに来られて驚かれた方もおみえのことと思いますが、お墓の入り口の界隈が随分と変わりました。実は、当山の開基・小笠原公の霊屋の土塀が崩れてしまい、見るも無残な姿になっていたのを直す工事を始めたからです。

当山は先の大戦で戦災に遭い、本堂をはじめ庫裏も蔵も焼失してしまいました。ただ残っていたのは、山門と、吉田城主・小笠原家がお国替えの際に移築したといわれる白尾稲荷のお堂、それと今は取り壊されていますが、弘法堂のみでした。戦後、本堂など整備してきましたが、霊屋の土塀はそのままで、瓦も白壁も落ちてしまっていました。

しばらく前のことですが、古い白黒の絵葉書を持ち、「このお墓をお参りさせてください」と来られた方がみえました。見ると、流祖宗○居士のお墓です。その裏側に、しっかりと白壁の土塀が写っているではありませんか。それを見て、『戦後五十年余りも経ちながら、まだ土塀一つも直せないのか!』と言われているようで、ドキッとさせられました。何しろこの寺は小笠原家の菩提寺としてできた寺で、その小笠原家の霊屋の土塀が崩れたままでは、本当に申し訳のないことです。そこで、意を決して工事を始めました。

寺報 先代の和尚は木を切ることを非常に嫌いました。私が道場から帰り、鬱蒼として下枝が枯れている境内を見て、岐阜の山の中の道場で十年来修行して、山の管理をしてきた経験で、木のためにもよしと考え、下枝を払いましたら、自分の指を落とされたようだと言って、叱責されました。それ以来、先代和尚の存命中は小枝一本触らないと決め、そのままにしてきました。しかし、大きくなり過ぎた木が、周囲の家々の屋根をたたくようになり、また、台風の時に倒れたりしないように枝をどうしても払わなくてはならなくなりましたので、レッカー車を入れ、枝の伐採から手がけました。工事をするには、今時のことですので、機械を現場に入れることが必要です。しかし、どう考えても、工事の機械や車輌を入れるには、お墓の入り口の右手一帯を整理し、進入路を確保するしか仕方ありませんでした。そのため、ついでにその界隈の木も切りました。そして、お正月が明けて早々に工事を始めました。

工事は伐採されていた木の根の掘り起こしから始まりました。こんなに大きな根を掘り起こすことができるのだろうかと心配でしたが、さすがにパワーシャベルの威力で、仕事をしている職人さんは随分と苦労していましたが、きれいに掘り起こしてしまいました。どんどんと整地しながら中に入り、二週間ほどで霊屋の土塀の所まで進みました。霊屋に参百年もの長きにわたり静かにお休みの小笠原忠知公はじめ歴代の殿様方もびっくりされていることと思いますが、パワーシャベルが初めて霊屋に入りました。

寺報 パワーシャベルの威力はさすがにすごいものがあります。とても人の力ではおよびのつかない威力です。北側の土塀の跡を掘っていたら、礎石の石垣が出てきました。山石の石垣でした。これを見て、「しめた!」と思いました。これは是非とも宗○さまの築庭の堀の石組みに使って土留めにしようと考えました。それというのも、私がまだ小学生の頃、金魚や鯉を飼いたくて池を作ることを先代の和尚にねだり、今、工事をしている植村さんのお父さんと一緒に池の周りの石組みをしました。先代和尚が池ができたのを見て、「この石はどこから持ってきたのか?」と訊ねました。「あそこにころがっていた石を使った」と答えました。あそこは無論、宗○さまの築庭の堀の界隈です。その当時は庭というほどの環境ではなく、戦後は何しろ芋畑にまでされていたのですから、今ほどの意識は毛頭ありませんでした。しかし、その時の先代和尚の驚きと落胆した顔がずっと忘れられませんでした。その思いが、「しめた!」と思わさせたのです。

勿論、この石を使っての土留めは宗○さまのされた石組みとは違いますが、近年の築山の土の流失を考える時、機械が入ったこの時を失ってはこのような工事はできないと思い、工事をしてくださっている植村さんたちと一緒に、宗○居士の意図された「豊川の源流」を念頭に置きながら復元に力を注いでいるところです。白壁の塀ができましたら、皆さま、お年忌の折にはどうぞ、開基の小笠原公の霊屋にもお参りしてください。 これからしばらくは、工事用の車輌が出入りしますので、お墓参りにご迷惑をおかけすることと思いますが、よろしくご理解いただきますようお願い申しあげます。

なお、現在、工事の車の出入りしている通路の場所は、いずれは墓地にしようと考えています。墓地とするのは、土塀の工事が終わってからです。まだしばらくは工事にかかります。すでに何件もの墓地の問い合わせがありますが、工事が終わってからのこととなりますので、よろしくご了承ください。

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