寺報

みんな修行者

私に中国語を教えてくれている愛知大学の留学生のTさんからも指摘を受けました。余談ですが、毎週曜日を決めてTさんに来てもらい、夕食後に2時間ほど中国語の勉強をしています。教科書も使いますが、大抵は彼女が中国語で質問し、私が中国語で答える会話が中心です。文章を見れば、中国語の意味は先ず分かります。でも、会話はなかなか難しく、Tさんの言うには、目から入る中国語ではなく、耳から入る中国語が私にとって必要だとのことで、時に触れ折に触れての内容の会話をしてくれます。上手に答えると、「まるで中国人のようだ」と誉めてくれます。おかしなことを答えたり、発音をいい加減にすると、「中国に来ている留学生」と言われます。初め、「中国に来ている留学生」と言われた時は、まあ全体的に考えて中の上くらいかと思いました。度々言われるので確かめてみると、彼女の意味しているのは、「ダメ」ということでした。ガッカリ。

寺報さて、彼女の言うのには、「今、世界を揺り動かせているイスラム教、ユダヤ教なども宗教です。先号の宗教と道徳の違いからすると、それらの宗教と、そこで述べられた宗教とは異質の感じがします。絶対なる力を有した神の力を信じる宗教は神に救っていただく教えで、自己の内より出るものではない。神は絶対であり、人はいくら努力しても神にはなれません。宗教が内より出るものとするならば、それらは宗教ではないのですか?」ということでした。

宗教とは、日本国語大辞典によれば、「人間生活の究極的な意味をあきらかにし、かつ人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営みや体制を総称する文化現象」とあり、宗教性は、「人間の持つ宗教的な性質や感情。また、宗教の持つ独特の性質」と出ています。『人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営み』が宗教であるのですから、Tさんが言ったように、イスラム教も、ユダヤ教も、神道も、宗教なのです。その意味で、先号の宗教と道徳の違いを述べたところの宗教の言葉遣いは違っていました。宗教の前に先程の「禅宗的な」という語を付け加えて欲しいと訂正する旨をいうと、彼女は納得した様子。

寺報すると、次の質問。「先日の報道で、中学生が万引きして捕まり、警察に連絡され、逃げ出して、踏切を渡ろうとして電車にはねられて死亡した事故で、その本屋さんに、『人殺し』だとか『配慮が足りない』という電話や投書の非難が続き、その本屋さんが廃業しようとしているが、どう思うか?」とのこと。その後の報道で、その行為を励ます電子メールや電話が殺到したとのことですが、Tさんの言い分は、「こんな非難がくるようなこと、中国ではありえない」とのこと。とても不思議なことと感じたようです。私もそのテレビの報道を見ていて、インタビューされた、その万引きをした子と同世代の子を持つような年令の婦人が、「そこまでしなくてもいいと思う」と、万引き少年を警察に連絡した行為を非難する答えをしていたのを見て、驚きました。実際にどれほどの「人殺し」だとか「配慮が足りない」とうい非難が来たのかは知りませんが、廃業しようとするほどですから、相当数に違いありません。でも、その後、その行為を励ます電話などがあったということは救いです。

この報道を見て、夕食時に家族で話題になりました。すると、母がスーパーで買い物をした時の体験談をしてくれました。まだ小さな子を連れたお母さんが買い物に来ていて、見ている前でお菓子の袋を取ったそうです。そのお母さんは買い物を終わり、レジに行きました。見ていると、そのお母さんは子どもがお菓子の袋を持っているのを知りながら、計算するカゴにいれずにいました。それに気付いたレジの人が、そのお菓子について訊ねると、そのお母さんは、『払えばいいんでしょ!』と、血相を変えて一言。レジの人が気付かなかったら、そのままにしてしまうつもりだったのだろうかというのです。それを聞いて、さすがに、家の子供達もびっくり顔。家庭の教育力の低下が言われますが、これでは万引きの仕方を子供に教えているようなもの。びっくりです。

寺報このことをTさんに言うと、彼女は、「日本人おかしいよ。万引きは犯罪でしょう。悪いことしたら罰せられるのは当然なのに、何故それをかばったりするの?」と、理解できない様子です。近年、中国人の犯罪が日本国内を騒がしていますが、日本にだって犯罪者がいるように、中国にだって犯罪者はいます。しかし、彼の国の犯罪者に対する懲罰は徹底しています。死刑もかなり行われています。銃殺刑になると、銃の弾の代金が親族に請求されるという国です。普通の中国人はそれが当たり前なのです。外国からみると、やはり日本人はおかしいと感じられるようです。

「う〜ん、そうだなぁ。それは日本が豊かになり、平和ぼけしているということかなぁ」と答えると、「銀行の現金自動払い戻し機の事件だって、日本は人のいない所に大金を置いておくんだから、悪いことする人は喜んでるよ。確かに、いつだって現金を下ろせるから便利だけど ・・・・・ 」と、Tさん。「そうだね。便利さの裏には多くの危険が潜んでいるね。スーパーだって、本屋さんだって、誰だって自由に品物を手にとることができ、とても便利だけど、万引きしようと思えば簡単にできそうだし、出来心ということもあるよね」と言うと、「出来心でも、人の真似でも、悪いことは悪いこと」と、Tさん。「そうだよ。いくら人がやっているからといっても、真似をしたからといっても、泥棒の真似をしたら即ちその人は泥棒。真似したとか、出来心なんて言い訳は通用しないよね」と、私。すると、「日本はどうしてこうなっちゃたの?」と、Tさん。

寺報日本が現在のような状況になったのは、第二次世界大戦の敗戦が大きく関係しています。戦後、自由主義が導入され、戦前のものの考え方、社会規範など、よいものも悪いものも一緒に古い考え方として排除されました。そして、復興を目指し、誰もが真剣に働きました。働けば働くだけ経済的に豊かになりましたが、日本の自由主義は、木に竹を接いだようなもので、我がまま勝手を自由だと勘違いしています。長い歴史の裏付けの下に社会規範となっている西洋の自由主義には、自由であると同時に個人の責任も問われます。我がまま勝手の無責任ではありません。日本は物質的には豊かになったのですが、残念なことに自由のはきちがえをしています。

「じゃぁ、日本はもうダメなの?」と、Tさん。「今のままではダメだが、日本人はそれほど馬鹿じゃないと思うよ。自由主義が西洋で華開くまでには長い時間がかかったように、日本でもそれが根付くまでには時間がかかる。今、日本は次の世界の指導理念形成の胎動期だと思う。戦後の復興をこれほど短期間に行い、豊かになり、経済的にも技術的にも世界の先進国になった民族だから、次は、心の問題の先進国にならなくてはならない。その使命があるし、また、できる民族だと思うよ」と、私。中国人の留学生に、「もう日本はダメだ」などと思われたくないし、このままではあまりにも日本人として情けないではありませんか。 すると、「これからの世界の指導理念はどんな理念だと思いますか?」と、彼女。

寺報これからの世界をリードできる理念はやはり禅的な理念だと思います。先程の日本国語大辞典の宗教の意味を思い出してください。人間生活の究極的な意味をあきらかにし、かつ人間の問題を究極的に解決しうると信じられた営みが宗教ですので、まず、多くの人が信じうるものでなければなりません。そこで問題なのが、信じる内容・教えです。世界の宗教を見てみると、様々な教えがあります。イスラム教やユダヤ教やキリスト教などの一神教また多くの土俗の宗教は偉大な力を有する絶対神に救ってもらう教えです。仏教の中でも救ってもらう側面の強い教えもありますが、基本的には仏教は目覚めの教えで、自分が仏になる教えです。特に、禅の教えはその目覚めを大切にする宗旨で、先号の百丈禅師の「一日不作一日不食」のように、自己の内から出る宗教性を大切にします。まず、世界のさまざまな教えの中で、禅の自らの内にある仏性(本来の自己)に目覚めるという立場は特異で、他にその類をみません。救ってくれる絶大なる力を信じるか、仏性に目覚める教えを信ずるか、他の宗教と禅とはここが異なるのです。これからの世界には、自己の内面を見極めていこうとする教えが重要であり、人間の究極的な問題を解決するには、禅的な理念が必要だと思います。

自己を見極める行為を修行と言います。よく考えてみますと、私たち人間は好むと好まざるとにかかわらず、多くの苦を背負って生きています。仏教では、苦の本質は思い通りにならないと説きます。立場を変えて考えてみると、人間はこの世に苦の体験を通して自己を見極める修行をしに来ていると思えます。人間誰しも修行者なのです。昔、鉄眼禅師は、「悟りの眼で見れば、猫も杓子もみな金塊に見える。人はその金であるということを見落とし、その形態に捕われ、美人だとか、醜いとか、表面のことばかりにこだわっている。本来、誰もが無垢の金なのだ」と諭されています。「衆生本来仏なり」・・・ 誰もが本来は無垢の金(仏)なのです。その仏に目覚める修行をしているのです。

寺報自分が修行者であるという自覚を持つことなくして、悟りの目は開きません。まず、修行者であるということを自覚することが大切です。修行者であるならば、苦を苦とする必要はなくなります。思い通りにならない苦を思い通りにしようとするから苦となるのですから、苦から逃げようとしても、苦から逃げ出すことはできません。老いること、死を迎えること、その他にも多くの苦がありますが、それから逃げようとするのではなく、しっかりとそれを見据え、見極めていこうとする態度が修行者の態度です。苦の体験をしに来ているのだから、苦があって当たり前なのです。金持ちは金持ちなりに、貧乏な人は貧乏なりに、美人は美人なりに、醜い人は醜い人なりに、健康な人は健康な人なりに、病弱の人は病弱の人なりに、それぞれの立場の修行をしっかりとやらなければならないのです。修行者であるという自覚があれば、万引きや悪いことなど行う訳がありません。

『無門関』という禅書に次のような話が出ています。Tさんにその本『禅語の味わい方』(西部文浄著)を見せましたので、ここでその部分を引用します。
『瑞巌師彦禅師は、毎日毎日、大きな岩の上に座って、ばかみたいに、「主人公」と、自分で自分に向かって大声で喚び、そして自ら返事をしておられたということです。
「惺惺著や」(目を覚ましておるか、ぼんやりするなよ)
」(ハーイ)
「他事異日、人の瞞を受くること莫れ」(これから先、人にだまされるではないぞ、世間の毀誉褒貶や名利や人情などにくらまされないように気を付けろよ)
々」(ハイ、ハイ)
と。これが瑞巌の日課で、それ以外、生涯一言の説法もされなかったということですが、いったい何が楽しみでこんなことをしておられたのでしょう。

寺報各自、何が大切といっても、主人公(仏性)ほど大切なものはありません。しかるに、この主人公を忘れ、見失っているのが、私たち凡夫の姿なのです。だから、この主人公を見出し、これに相見することが何よりの急務であります。古人が霜辛雪苦されたのも、みなこのためであります。しかし、たとえ見出したからとて、それで能事終われりと小成に安んじていては、これまた大患です。少しでも油断すれば、すぐまた雲に覆われてしまいます。いつでも「惺々」でなければなりません。古人が、練り来たった上にも練り、磨き去った上にも磨き、不断に悟後の修行に精進されたゆえんであります。

瑞巌は、自ら主人公に成り切って「主人公」と喚び、そして自ら主人公に成り切って「ハーイ」と返事をしておられるのです。喚ぶも主人公、答えるも主人公、徹底主人公に成り切っておられます。一見ばかげたことをやっておられるようですが、そこに正念相続の尊い姿があり、私たちに対する親切な教訓があるのです』

引用が長くなりましたが、主人公(仏性)に目覚め、主人公を大切にして生きていく態度こそ、修行者です。「人の瞞を受くること莫れ」と瑞巌禅師は言われていますが、他人からの瞞(まん・だますこと)よりも、自己の内にある三毒の心(むさぼり・いきどおり・おろかさ)にだまされることの方が本当は恐いのです。三毒にだまされ、犯されないで、主人公を大切に生きていくことが修行者の生き方です。

「修行ねぇ。修行者だと言われてもねぇ。・・・・・ あ、もうこんな時間。私、帰ります。また今度、修行ということについて教えてね。再見」と、Tさん。もう10時をはるかに過ぎていました。「わぁ、遅くなっちゃたね。じゃぁ、再見」と私。次回に修行についての話をする約束をして、彼女は帰っていきました。じゃぁ、私もこの辺で、再見!

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