寺報

禅の修行

寺報 「禅の修行とは何か?」と聞かれたら、あなたはどんなイメージや言葉が頭に浮かびますか? 坐禅、修行、朝が早い、厳しい、裸足、禅問答、悟り、作務、托鉢、雲水、達磨大師、道場、無心、平常心、三昧 ・・・・・ 思いつくままに並べてみまし た。きっとこれらの内に思い当たった言葉があったことと思います。 禅は、鎌倉時代以降、日本の精神文化に大きな影響を与えてきました。知らず知らずの内にも日本人の心の底には禅やその文化が底流として流れ、受け継がれてきています。茶道や華道、それ以外にも、道とつくものの基本はすべて禅の思想をベースとしていると言って過言ではありません。しかし、あらためて禅は何か、禅の修行は何をしているのかと問われると、はっきり答えることができないのが現実だと思います。 禅の修行はとかく厳しさが強調され、特に軍隊生活を経験された方は、禅の道場の序列がはっきりしていることから、軍隊と禅の道場のシステムが同じだとよく言われます。確かに、上の者の言うことは下の者にとって絶対的で、完全に服従することについては似ています。しかし、形は似ていてもその内容は全く違います。軍隊はいざ戦闘となった時、命令が上から下へ円滑に伝わるために服従の形をとりますが、禅の道場の目指すものは全く違います。

例えば托鉢において、私の修行した美濃加茂市の伊深の正眼寺は山の中にありますので、托鉢する地域は美濃太田と関ぐらいが町で、あとは山村です。京都の町などでは連鉢と言って托鉢の僧が一定の間隔で、「法〜 法〜」と声を掛けながら托鉢をしますが、田舎ではそのような連鉢をしても 家と家の間隔が離れているのと、道からかなり家が離れているので声が届かず、誰もお布施をしてくれません。田舎を托鉢する時は軒鉢(けんぱつ)といって、一軒一軒、軒先に立ち、声を掛けます。この場合、托鉢区域を何人かで一緒に動くのは効率が悪いので、近くから托鉢をする者、区域の一番遠くへ行って托鉢をしながら帰って来る者、その間を托鉢する者というように区域を分担します。この軒鉢の場合、例えば三名で托鉢をするとします。一番遠くへ行って帰って来る者は誰だと思いますか? 一番近くから托鉢をするものは誰でしょうか?

寺報托鉢に行く前晩、托鉢の組の発表があります。それに従い、それぞれの組の一番古い修行僧(引き手といいます)の所に下の者(引かれ手といいます)が集まり、「よろしくお願いします」と低頭し、托鉢の段取りの説明を受けます。托鉢地域の地図を広げ、一番古参の先輩が引かれ手のそれぞれの托鉢場所を説明してくれます。聞いていると、一番若い私が一番近い所をやるようにとのことです。軍隊や普通の社会では恐らく一番近い所に行く者が一番上の者だと思います。でも、禅の道場では一番近い所に行く者は一番若い者です。私が道場に入って、初めて托鉢に出かけた時、これはとても不思議に思いました。もう三十歳を超えたような先輩が一番遠くへ行って、一番若い自分が一番近い所を托鉢をするのですから、申し訳ない気がしました。他の組の様子を聞いてみると、やはり同じように若い者が一番近くをやるのです。何度か経験すると逆転するというようなことはありませんでした。私が上の立場になった時も、同じように若い者が一番近くを托鉢するようにしました。

禅の道場では、老師も先輩も何も教えてくれません。老師との参禅でも、公案に対する見解(けんげ・見方、考え方)を述べても、よければ頷き、ダメならただ鈴を振るだけで、何も教えてはくれません。ヒントの一つも言ってはくれないのです。先輩に聞いても何も教えてくれません。初めは、何と不合理な、おかしな社会だと思いましたが、修行を続けていると、ハッと気が付きました。禅語に「門より入る者は家珍に非ず」というのがありますが、門とは目や耳のことで、読んだり聞いたりしたものは本当の自分のものではないという意味です。教えられてできたことは自分の力ではありません。自分でハッと気が付いてこそ、自分の力になるのです。禅の道場では、この故に何も教えてくれないのです。こと細かに説明し、教えてくれるのは一般社会では親切だといいますが、禅の立場からすると人に教えることは不親切だということとなるのです。 若い者が近くを托鉢するようにしているのは、禅の修行で一番大切な、老師との参禅を中心に考えているからです。修行の年数の浅い者はとかく心が乱れ勝ちです。参禅することが第一、少なくとも最初の公案を透過することが先ずもって大切ですので、若い者には心を乱さないように、上の者が大変なことは率先して行うこととなっているのです。お解りいただけたでしょうか? 禅の修行道場は決して軍隊と同じではありません。形は似ていてもその意図することは全く異なっているのです。

寺報序列についても同じことが言えます。道場では、席次を単(たん)と言います。二人の修行者(雲水・うんすい)がいれば、必ず単の上下は決まっています。それは道場に入門した順で決まります。一秒でも早く、「たのみましょう」と声を掛けた者が上になります。単の上下は厳しく、上の者の言うことは下の者は必ず受け入れます。極端なことを言えば、高単の人が白い物を黒と言えば、下の者にとってはそれは黒なのです。何故そのようなことになっているかというと、禅の修行は「なりきる」ことが第一の眼目とされているからです。自分の内にある「我」を取り除くためには、先ずなりきらなくてはなりません。老師から与えられている公案になりきるのです。頭のてっぺんから足の爪先まで、寝ても覚めても公案と一つ。この一つになりきった境涯を経験しなければ公案を透過することもできませんし、三昧を自覚することもできません。老師との毎日の参禅を通じ、欲しい惜しい、良い悪い、好き嫌いなど、生まれてこの方、自分が判断の基準としてきたものを否定し、我見を取り除き、本来の自己の面目(仏性)を自覚するのです。なりきることによってこそ、一切合切を捨て切ることができ、執着を離れた禅的体験をすることができます。ですから、禅の道場ではなりきることをとても大切にするのです。白が黒でも、正悪が逆であっても、我見を捨て、とりあえずなりきってしまうのです。掃除をする時は掃除になりきり、お経を読む時にはお経になりきり、托鉢をする時は托鉢になりきり、仕事をする時は仕事、遊ぶ時は遊ぶことになりきることが大切だと言われるのはこの理由からです。

勿論、道場の雲水はみな修行者ですから、間違ったことを正しいことだというような馬鹿げたことを高単の者が言うことはありません。序列の厳然としていることは、なりきる修行がしやすいようにということで行われているのです。軍隊の序列とは全く意味が違います。でも、新到(しんとう・新参者の意)の時、高単の人はとても恐く、五年も修行している高単さんは傍に寄ることもできないほど威厳を感じました。禅堂で坐禅する時、警策でたたかれるからではありません。とにかく威厳がありました。それは修行するという立場での親切さ、そして自らも真剣に修行に励んでいることによってにじみ出てくるものであったと思います。

修業道場は年数を多く数えれば数えるほど楽になるということはありません。少なくとも、私の修行した正眼寺では上になればなるほど大変でした。でも、それは今とても有難い修行をさせていただいたと感謝しています。

寺報 の修行のあり方の一端を述べてみました。禅の修行の厳しさは冬に裸足でいることや、朝暗い内に起きることや、坐禅で足の痛いのを我慢することなどではありません。禅は我慢や忍耐力をつけることが目的では決してありませんし、集中力をつけることが目的でもありません。禅の修行は自らの内にある仏性に目覚めることを目指しているのです。

お釈迦さまは生老病死の四苦からの解脱を願って出家されました。そして、当時のバラモン教による過酷な苦行をされましたが、安心を得ることができず苦行を捨て、菩提樹の下で静かに坐禅を組み、悟られました。修行は苦(仏教でいう苦とは思い通りにならないこと)からの解脱です。修行をし、「我」を捨て、仏性に目覚めれば、苦が苦ではなくなります。それは苦が楽になるということではありません。苦を苦としないとでも言ったほうがいいかもしれませんが、修行の前と後とは全くそれに対する意識が違ってきます。

ところで、人間はこの世に生まれて四苦八苦、苦がついて回っています。よく考えてみると、頭のいい人もそうでない人も、美人もそうでない人も、金持ちもそうでない人も ・・・・・・誰でもそれぞれの立場の苦があります。ですから、人生は苦の体験ということができます。苦の体験が人生であるならば、人はみな修行者です。人生、死ぬまで修行だと言われる所以です。私もあなたも、男も女も、年寄りから子どもまで、みんな修行者です。「やなこった。修行なんて糞食らえ。俺は気ままに楽しく人生を送るんだw」などと言っても、孫悟空がお釈迦さまの手の平から飛び出せなかったように、苦の体験をさせられている修行者であるという事実から逃れることはできません。

修行と言うと、とかく厳しい禁欲的な生活を想起しますが、必ずしも禁欲生活を送らなくては修行にならないということはありません。禅の道場で修行する人はその立場で、在家にあって修行する人はその立場での修行をすればよいのです。事実、お釈迦さまのお弟子さんの中には多くの在家の方々もみえました。その中に維摩居士(ゆいまこじ)という大富豪の方もみえ、維摩経によれば十大弟子でさえも維摩居士の法力の前ではたじたじであったといいます。
「そうであったか、自分もこの立場で修行をさせられていたのか」と、先ず自分が修行者であるという自覚を持つことが必要です。そして、執着する心を少しでも捨て、心の三毒(貪り、怒り、愚かさ)に迷わされないように心がけ、本来の自己の面目を見失わないようにしていれば、立派な修行者なのです。誰もが修行者であるという認識に立ち、修行者である生き方をする、それが禅的な生き方なのです。

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