寺報

すこやかな心を育てよう

寺報 京都の本山東福寺の教学部長を拝命してより、はや一年半が経ちました。夏休みや春休みなどの時期、新幹線の中はとても賑やかになります。子ども達が多くなるからです。通路を走ったり、大きな声でワイワイ騒いだり、この夏休みに京都に行った時も同様でした。子どもが一つのことに集中し静かにしていることができる時間よりも列車に乗っている時間の方が長く、飽きてしまうのは仕方ないことです。でも、仕方ないからと言って何の工夫もしないのはどうなんでしょうか? 子どもが通路を走り回っていても無関心な親、そんな親に限って、子どもを放りっぱなしにしておきながら、時々、「静かにしなさいA」と、子どもを叱り飛ばしています。子どもはその時は静かにしますが、すぐにまた騒ぎ始めます。

また、駅などで高校生や若い男女が通路に坐りこんでいる姿をよく見かけます。男の子も女の子もあぐらをかいてドテッと坐っている姿は何とも退廃的な感じがして、目をそらしたくなる光景です。

それらを見ながら思うことは、日本は経済的には発展しましたが、精神面、「こころ」の世界では後進国に成り下がってしまったということです。第二次世界大戦の敗戦後、我が国は経済を最優先してしゃにむに頑張ってきました。その結果、世界有数の経済大国となりましたが、人としての「こころ」を置き去りにしてしまいました。経済的な豊かさによってこそ幸せになれると思い込み、「こころ」の豊かさの追求をないがしろにしてきました。世界の大国というのにはあまりにも片手落ちではないでしょうか。今、経済のバブルが崩壊し、世の中は不透明な時代だといわれています。先が見えないというのは、「こころ」がしっかりと成長していないからなのです。

健康なこころ

寺報健康な豊かなこころとは一体どのような状態をいうのでしょうか。先ず、精神的な病気(そううつ病、神経症など)や、環境不適応から起こるさまざまな問題行動がないこと。そして、自分の持っている能力を充分に発揮して、充実感や満足感にあふれた精神状態を保っていること。また、病気や問題行動を起こさないように予防することも大切な要件です。

どのような環境の中でも、自分の持っている能力を充分に発揮して、積極的に生きていくためには、バランスのとれた、柔軟な人格の持ち主でなくてはなりません。人格というのは、知性、社会性、自主性、意思、意欲、興味、関心、感情、情緒、活動性、気質などの心理的な特性が、自我を中心にして統合されたまとまり方の特徴だと言われています。このまとまり方の特徴は一人一人千差万別で、その違いが個性と言われるものです。ここで考えなくてはならないことは、自我を中心にしていろいろな心理的特性が統合されているのですから、こころの働きは自我の働きに左右されるということです。

自我といいますが、仏教では、「自」と「我」を区別して考えます。「我」とは、「我の強い人」などと使われますように、自己中心的で我欲が強く、思いやりのないこころを言います。「自」とは、仏教では仏性(ぶっしょう)と言い、完成された人格を言います。お釈迦さまは悟りを開かれ、「一切の衆生、悉く仏性を具有す」と説かれました。つまり、生有るものすべてが仏性を持って生まれてきているというのです。何もお釈迦さまだけが特別ではなく、私も貴方も、犬も猫も、誰も彼もが仏性を持って生まれてきているのです。この意味で、仏教は平等な、平和思想だといわれます。

しかし、持って生まれてきているということが即ちそのものであるということではありません。例えば、ダイアモンドの原石は掘り出された時はいろいろな石が付着し光り輝いてはいません。きれいな宝石とするには、付着している石を取り除き、磨かなければなりません。こころも同じで、生まれて物心が付く頃にはいろいろなもの(欲や我執など)が付いています。「我」といわれるものです。この我を取り除かなければ仏性は光り輝かないのです。我を取り除く過程を、仏教では修行といいます。修行といいますと、どこかの道場に行かなければできないかといいますと、そうではありません。たしかに道場はそれを取り除こうという意思を持った人達の集まりですので、「朱に交われば赤くなる」のたとえのように、そこはやりやすい場ではありますが、道場でなければできないということではありません。「我」を取り除こうという努力は、その意思さえ持って生活していればどこででもできます。
つまり、仏教の立場からすると、豊かな、バランスのとれた、柔軟な人格の持ち主になるためには、「我」を取り除く努力をし、「自」に目覚める、つまり自覚する生き方をするということが大切なのです。「自」に目覚めるということは大変なことですが、そこに向かって努力することが人生であるといえます。

こころをすこやかに育てるには

寺報 親の子どもの虐待、育児不安など、子育てに関する問題が社会問題となっています。親が自己のよりよい人格形成に向かって生きる毎日を送っていれば、子どもはそれを見ながら成長するのですから、自然に生きた教育をしていることとなりますが、ここで、親が子どものこころを健やかに育てるために気をつけなくてはならないことを少し具体的に述べてみたいと思います。

人格は人を含む環境との触れ合いを通して少しずつ形成されていくのですから、先ほど述べたいろいろな心理的特性が刺激され伸びるような、豊かな環境や経験が与えられることが必要です。例えば、過保護や過干渉な母親がつきっきりで育てて、友達と遊ぶ機会が少ない状態で育てられたらどうでしょうか。知性の面の刺激は多いかもしれませんが、社会性や自主性などはそこなわれ、場合によっては意欲のない子になってしまうかもしれません。

子どものこころを健やかに育てるには、第一に、情緒的に安定させることです。子どもは幼児の頃からスキンシップを通じて、愛情面での満足を求めます。それが適度に満たされますと人に対する基本的な信頼感を持てるようになり、素直で、安定した人間関係を作ることができるようになります。
第二に、自主性を育てることです。幼児期から自分で何かをしたがる自主性や独立の欲求が芽生えます。子どものやろうとする意欲を大事にし、それが成功するまで、手を出さずに見守る態度と、できた時に褒めることが大切です。うまくいかずに困ったり、放棄しようとしたら、励まして自分の力で克服させるようにさせるのです。結果を急いだり、手出しをすることは禁物です。それは放りっぱなしにするということとは違います。しっかりと見守っていなければなりません。

第三に、社会性を育てることです。同年齢または異年齢の子ども同士の集団の中で遊び、もまれることが、集団の中で自分の力を発揮していくためには不可欠です。子ども同士の欲求が衝突して我慢することも経験します。みんなで力を合わせて目的を達する喜びも知ります。集団から逃避しないで自己の個性や存在理由を主張していくには、幼児期からの友達遊びが何としても必要なのです。

第四に、意欲を育てることです。親があれこれと指図し、子どもをいじりまわすようになってはいけません。子どもは心身の成長に応じて自然にいろいろなことに興味や関心を持つようになります。お釈迦さまが誰もが仏性を具有していると言われているように、内在された仏性は健全な環境や刺激・経験などにより自然に光り輝きだすのです。育つ力は子ども自身が持っているのですから、親は子どもの動きを見守り、指示や援助は最小限にしていれば、自然に力強い豊かな性格を持った子に育っていきます。

最後に、欲求不満への耐性を育てることも必要です。子どものいろいろな欲求がすぐに満たされるような状況ばかりで育ちますと、我慢する力が育たず、我がままで自分をコントロールできない子になります。愛情的な満足の上に立ち、しつけによって欲求を我慢する訓練も必要です。困難にくじけないように、それを乗り越える力を養ってあげてください。

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