寺報

家庭教育に仏教を

寺報最近、いじめによる子ども達の自殺が社会問題となっています。亡くなった子は勿論、家族の心痛は言葉では表せない苦痛であると思います。

私も中学時代、いじめにあったことがありました。そして、今思うと、その女の子にはいじめをされたと思われているだろうということをしたこともありました。自分では何の理由かも分からず、それまで仲の良かった友達のグループから無視されたり、つらい言葉を言われることは本当に苦痛であったことを思い出します。いじめをしたこともあるというのは、きっとそう思われているだろうということで、自分ではその時はいじめをしているとは思ってはいませんでした。ちょっとちょっかいをしたくらいの、全く軽い気持ちで行なったことが、その子にはとても苦痛だったようで、ある日ちょっかいを出した時、泣き出してしまいました。悪い事をしたと後悔しましたし、謝りもし、勿論それからはもうちょっかいを出すことは止めました。この頃のいじめの報道に接する時、きっと彼女は私にいじめられたと思い、そのことを思い出していることだと思います。決して憎しみや悪気でやったことではありません。軽はずみを本当に詫びています。

でも、何で、最近の子は自殺という最悪の方法を選んでしまうことが多いのでしょうか? 一つこれを直せば解決するというような単純な問題ではありません。いろいろな側面、例えば学校教育の問題、子ども達を取り巻く環境問題、大人社会の価値観の問題、家庭教育の問題などなど、総合的に有機的に考えていかなければなりません。今、テレビなどの報道で、学校のあり方、教師への責任追及が盛んに行なわれていますが、いじめは学校だけの問題ではありません。報道を見ていると、まるで学校だけが悪いような言い方で追求していますが、それこそ報道による学校いじめのように感じるのは、私だけではないと思います。

いろいろな側面から問題の解決をしなければならないことは重々承知の上で、この問題を家庭教育の問題として考えてみたいと思います。家庭教育の教育力の低下はよく言われています。「子どもは親の背中を見て育つ」と言われ、親の生き方・行いを見ながら子どもはそれに影響されて育つことは間違いありません。しかし、親の考えを子どもに伝えることも大切ですし、親子で人生の生き方を話し合うことも大切です。親子で話し合える家庭の雰囲気作りをおろそかにしてはいけないと思います。

現在、どれだけの家庭で、人生についてや生きるということなどについての話がなされているのでしょうか? 極めて少ないのが現実だと思います。子どもにはただ「勉強しなさい!」と勉強を押し付け、親はつまらないテレビを見て笑っているようなことでは、この日本の現状は決してよくなることはありません。今や、家庭教育を考え直し、先ず親の意識が変わらなくてはならない時に直面しています。「難しいことなど考えたくない。今が楽しければそれでいい」という考えが世の中を悪くしているということに気付かなければなりません。

寺報世界の家庭教育の根幹は宗教性に基づくものがその大勢を占めています。我が国では、明治の廃仏毀釈、戦後の学校教育で宗教教育が行われなくなったことなどにより、仏教は古臭いもの、迷信と言って捨て去ってしまい、今では葬式をすることが務めであるかのように、仏教は形骸化しています。しかし、仏教には人生の指針となりうる素晴らしい教えがあります。今一度、家庭教育の指針として、仏教を見直してみることは大変意義のあることです。家庭での会話の中に是非、仏教の教えを取り入れていただきたいと思います。今の世の中は不透明で先が見えにくいとよく言われます。先が見えにくいために、不安が募り、不安定になるというのですが、果たしてそうなのでしょうか? 本末転倒した言い方に思います。

そこで、私が修行をさせていただいた禅宗 (臨済宗)の立場で、仏教の教えのいくつかを参考までに述べてみたいと思います。

○ 仏教では「一切衆生悉有仏性」と説かれます。衆生は全ての生存するものの意で、誰でも彼でも、犬でも猫でも、生あるものはことごとく、仏性(仏としての本性)を有しているということです。特別な人が仏になるのではなく、誰でも、その仏の心に目覚めれば即ち仏なのです。この故に、仏教は殺生を戒め、和合を説き、平和主義なのです。本山東福寺の福島慶道管長猊下は、仏性を完成された人格と説かれています。

○ 仏教は自己の目覚めを求める教えです。祈願することが仏教の本義ではありません。むしろ、自分に都合のよい願い事や我欲を満たす願い事などは、願っても仏様には聞いてもらえません。聞いてもらえるのは、他人の幸せや世界の平和、そして、自分の精進努力に関わることを願うことです。仏様にお参りする時は、願い事をするならこの二つにし、報恩感謝の気持ちで合掌をして欲しいものです。

○ 人生は「苦」である。この苦というのは、思い通りにならないということです。思い通りにならないのが人生であるということならば、努力することは意味がないというのは間違っています。苦をしっかりと受け止め、苦より解脱しなければなりません。解脱した状態を悟りといいます。悟りへ向かって精進することを修行といいます。

寺報○ 仏教の基本理念は「空」です。般若心経・大般若経・金剛般若波羅蜜多経などの般若経典はこの空を説いたお経です。この世のものは総て事物を構成する五つの要素(色・受・想・行・識)が仮に集まったもので、永遠の存在としての実体はなく、また、この五つの構成要素の一つ一つにも実体はなく、現象として生滅変化する仮の存在にすぎないということを説いたのが空です。禅ではこの空を「無」と表現します。


【閑話休題】

「空」のことを書きながら、急に過日本山であった研修会の時のことを思い出しました。二十名ほどの方が坐禅をしたり、法話を聞いたりしながら研修を受けました。禅寺での研修ですから、当然のことながら「無」「無心」の大切さを説き、坐禅でその実践を行ったわけです。研修会に参加した方から、国宝の三門の楼上を是非観たいという希望があり、禅堂での坐禅の後、三門に上って拝観していただきました。下りて、参加者から三門の意味を問われ、法務部長が「空」「無相(むそう・一切の執着を離れた境地)」「無作(むさ・分別造作に陥らず自然なること)」の三解脱の意味を答え、「ところで、この三門には入口が三つありますが、どれが空門でしょうか? 無相門、無作門はどれでしょうか?」と質問しました。すると、参加者から、「恐らく、空門は真ん中で、左右が無相と無作」「右が無相で、左が無作。いや、逆かな」などの答え。「答えは、どれでもいいんです。禅の悟りへの門なのですから、とらわれることは必要ないのです。よろしかったらどうぞ悟りへの門をお通りください」と、法務部長。みんなは納得顔をして門を通ろうとしました。たまたまその時は門の内側で説明をしていましたので、そのまま通ると出てしまいます。通ろうとしたその時、「こちらが内ですよ。悟りの世界ですよ。こっちから通ると、俗世界に行ってしまいますよ」と言うと、みんなはあたふたと戻りぐるりと廻って、また門を通りました。無執着を再三説いたのですから、誰か一人ぐらい、「入るも出るもありませんよ。とらわれてはいけません」と言われれば面白かったのですが、・・・ 残念なことにそれはありませんでした。


話を戻します。

寺報○ 執着心を取るということによって目覚め・悟りを得ることができます。自分さえよければ他人はどうなってもよいという自分勝手な我欲が自らの仏性をくらまし、とらわれの心を起こすのです。地位や名誉、金銭をはじめとして、何事にもそれにとらわれない、執着しないことが大切です。

○ 執着しない心を自由な心と言います。ですから、自由の本来の意味は、我欲や自分勝手な我を離れていなくてはなりません。今の日本の自由は、自分勝手が自由だと勘違いをしています。

○ 心には貪瞋癡の三毒があります。貪り・怒り・愚かさです。貪は、もっと欲しいもっと欲しいという欲です。瞋は怒りの心です。癡は愚痴で、ものの道理に暗く明らかでないことで、懈怠の心とも言われます。精進努力しようとする心を鈍らせる心です。この三毒を取り除くことにより、本来の自己(仏性)が輝きだします。

○ 禅では、執着心を取り除き、三毒を消すためには「なりきる」ことが大切であるといいます。即今、この場で、自分がやらなければならないことと一つになりきる。自ら主体的に、好き嫌いを言わず、損得を離れてなりきっていくのです。仕事をする時は仕事と一つ、勉強する時は勉強と一つ、掃除をする時は掃除と一つ、今のそのことになりきるのです。「よく学び、よく遊べ」というではありませんか。




以上、禅の教えのいくつかを記しました。禅はとらわれ、執着することを戒めています。至道無難禅師は、「至道無難唯嫌揀擇(しいどうぶなんゆいけんけんじゃく)」と言われ、悟りへの道は難しいことではなく、ただ揀擇(えり好み)をやめなさいと言われています。好き嫌い、損得などの価値判断の物差しを捨てなさいということです。背が高いの低いの、勉強ができるのできないの、財産が多いの少ないの等、みな揀擇です。その物差しで計るが故に、先が見えにくいのです。大人が揀擇の物差しを捨てないかぎり、いじめも戦争もなくなることはありません。大切なこの一生、死んでから仏になるのではなく、生きている内に仏になることが大切なのです。自己の目覚めに向かって、そして世の中の平和に向かって、揀擇する心を先ず自分から捨ててみようではありませんか。

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