寺報

一期一会

寺報ことの外暑かった今年の夏。いつまでも暑く、いったい何時になったら涼しくなるのか心配しましたが、庭のイチョウの木も黄色くなり、今ではすっかり秋の景色です。十一月の半ばまで青かった本山東福寺のモミジも、ここのところの急な冷え込みで随分と色付いてきました。

ところで、今年の春より本山の役職が交代しました。昨年度までは教学部長の職でしたが、今年度より庶務部長になりました。カレンダーには本山の仕事は赤い字で書き込みをしていますが、今年は、昨年よりも赤い字が多く目立ってきています。教学の仕事よりも庶務の仕事の方が広範囲にわたっていますから、それは当然のことといえば当然のことなのですが、不在が多くなりました。

特に、九月の末からは連日のように本山と自坊(自分が住職している寺のこと)を行ったり来たりで、席の暖まる暇がないほどでした。そんな中、十一月十六日に名古屋外語大学で留学生を対象に、茶道についての講義を一時間半の予定で行いました。この大学での講義は数年前、当山に本部がある茶道宗吉田流の先生を通じて依頼があり、それから年に一度、日本文化についての講義の一環として行われているものです。年間を通じては、日本文化を知るためのものですので、いろいろなジャンルの方が講師になられるそうです。

受講生は留学生だけです。アメリカ、欧州、アジアなど、多彩な顔ぶれで、五十名ほどが参加します。中には、私の日本語を聞いて頷いている学生もいますが、まだ日本語が堪能ではない学生もいますから、英語の通訳が入ります。ですから、一時間半といっても、実際はその半分ほどの時間となりますので、充分な時間がある訳ではありません。茶道の歴史の概略、精神、作法など、多岐にわたっての内容を短時間にすることとなります。何時ものことですが、ついつい時間をオーバーしてしまいます。

資料は最初の時に英語の注釈の入ったものを作ってくれましたから、毎回それによって講義をしますが、印刷された資料だけでは分かりにくいと思い、掛け軸、花入れ、茶入れ、茶杓、茶碗、茶筅など、懐紙や抹茶にいたるまで実物を持っていきます。今年は、掛け軸は沢庵禅師の墨蹟、利休の書簡、流祖宗の道歌、花入れは宗の師の宗旦の竹一重伐り、宗の尺八伐りという具合で、お茶の精神の話に使えそうな物を持参しました。

寺報茶道の精神に関しましては、『和敬清寂』『一期一会(いちごいちえ)』という基本的なことを話しますが、今回は、特に、花のこととからめて話をしました。というのは、当日の朝、庭のツバキ(西王母)がちょうど見ごろで、花も葉のなりも素晴らしい一輪がありましたから、殺風景な講義室を思い、持参することとしたのです。そうすれば自然と花に目がいきます。竹の花入れに一輪のピンクのツバキ。茶道の花の入れ方の話をし、それは禅の思想からの影響であることを説き、岡倉天心の『茶の本』に詳しく書かれていることを話しました。

茶道と禅は切り離して考えることはできません。『和敬清寂』にしても、『一期一会』にしても、禅の教えに基づいています。できるだけ分かりやすいように、概論を話しました。

午後一時二十分からの講義ですので、一番眠たい時間ですが、みんなよく聞いてくれます。日本の大学生は講義中に寝ていたり、私語が多いとよく聞きますが、ここの留学生はそんなことはありません。私語もなければ、寝ているようなこともありません。実にまじめに聞いています。それは当然のことだと思います。留学生は日本について学ぼうという意識で、遠く外国から来ているからです。日本の学生は、全部が全部とはいいませんが、大学卒の資格を取りに行っているのが実情で、何となく学生をしているのです。だから、講義が面白くなく、寝たり、ベチャベチャと話をすることとなるのです。そこには基本的な意識の違い、主体性、自主性など、はっきりとした違いがあります。なにしろ、留学生たちは真剣です。講義が終った後も、質問をしに何人も来ます。

その内の一人が、先ほど話した『一期一会』について更に質問をしてきました。先ほどの概論としての話だけではなく、禅の立場での深い話をして欲しいということでした。この講義の初めに通訳の方が、私が禅宗の僧侶であり、臨済寺の住職、本山東福寺の部長、茶道宗吉田流の会長であることを紹介してくれましたので、興味を持ったのだと思います。一期一会とは、一期は自分の一生の意で、個々の茶会は同じことが再び繰り返されることはないのですから、茶会の時は主客が全身全霊を挙して茶の応接をし、道を現成させねばならないということですが、その留学生はこの程度の説明には飽き足らないのです。そうだと思います。この説明では、概略しか話していないからです。


寺報仏教は、お釈迦さまが苦からの解脱を願い、六年の苦行の結果、苦行では悟りを得ることができないことに気付き、菩提樹の下で一週間坐禅をし、十二月八日の朝、明けの明星を見て悟りを開かれた、その体験を基に開かれた教えです。その内容は八万四千の法門といわれ、簡単に説くことはできませんが、『誰でも自らの内に仏性を有する』ということが中心であるといっても過言ではありません。そこで、禅では、坐禅をしたり、托鉢や作務(仕事)、掃除など、生きている即今この場で、そのことと一つになり切ることによって、心の中の三毒(貪り、瞋り〈いかり〉、痴〈おろかさ〉)を捨て、自己本来の面目(仏性)に目覚めるよう、お釈迦さまの悟りの追体験をするのです。しかし、悟りを目的や目標としてはいけません。・・・この時、留学生たちは理解に苦しんだ顔をしました。

中国の唐の時代の禅僧に次のような話があります。ある禅僧の下で修行している修行僧が真剣に坐禅をしていました。その真剣な姿を見て、禅僧が、「お前さんたちは、ここで何をしているのか?」と訊ねます。「坐禅をしています」と、修行僧。「どうして坐禅をするのか?」と、禅僧。「坐禅をして、仏になりたいからです」と、修行僧。「では、仏となるために坐禅をしているのか?」と、禅僧。修行僧は当然のことといわんばかりの顔をします。すると、その禅僧は近くにあった瓦を取り、真剣に磨きだしました。不審に思った修行僧が、「老師、一体何をなされようというのですか?」と訊ねますと、「この瓦を磨いて、鏡を作ろうと思ってな」との禅僧の答え。

禅僧は若い修行僧に何を伝えようとしたのでしょうか。そこには深い意味があります。よくよく考えねばなりません。

因みに、悟りを目的にするなということと関連していうならば、目的とすると、そのものへの執着心が起きます。執着することを、禅では嫌います。生きるための仕事にしても、それは手段です。手段を目的としてはいけません。目的や目標として行なうと、それを達成した人は、まだ達成できない人を馬鹿にしたり、増長慢の心が起きたりします。増長し、慢心すれば、その人はそこに停滞し、更なる向上心は起きません。だから、禅では、悟りは勿論、生きる上での目的や目標を作ることを嫌います。自分が選んだ道を歩みながら、今この立場でやらなければならないことに主体的に全身全霊でもって当たっていく、そこにこそ禅が求める生き方があるのです。

茶人は本来、この禅の立場に立ち、自己に内在する仏性に目覚めるよう精進する人でなければなりません。お茶を出すことを通じて、主人も客も、目覚めへの道を求究することが茶道の道たる所以なのです。

そこからすると、一会を意義有り、充実したものとするには、亭主も客もそれぞれが主体的にその立場に成り切っていかなければなりません。主人がいくら主体性をもって接しても、客が客に成り切っていなければ、面白くもなく、意義ある会とはなりません。逆に、おざなりの亭主では、客がいくら客に成り切ってもそこに道が行なわれることとはなりません。亭主も客も、それぞれが主体的に、それぞれの立場や役割に成り切ってこそ、意義ある一座となるのです。茶道は、その実践行なのです。

寺報一期一会は茶道の世界ではよく使われる言葉ですが、よく考えてみれば、何も茶道の世界だけに閉じ込めておくことはありません。今のこの時を大切に、主体性を持って力いっぱいに生きていくことを説いているのですから、普段の我々の生活にも充分に活用できますし、生かさねばなりません。ですから、茶の湯の道は、実生活と離れたものではありません。


講義が終わり、留学生が茶の道具を興味深げに見に寄って来ました。しばらく道具の説明をし、道具を片付け終わったのは、もう四時でした。  大学を出る時、何気なく、カーナビの目的地の『自宅へ帰る』を押しました。もう何度も来ている所なので押さなくてもよかったのですが、押してしまったのです。名古屋インターに近付いた所で、私の古いカーナビが右手に行くようにと指示をしました。指示通りに右手に寄って走って行くと、東名高速道路のインターとは違う方に行ってしまうではありませんか。「しまった」と思った時はもうすでに時は遅しで、後続の車が列をなしており、バックすることもできません。こんな所でバックして、事故でも起こしたら、新聞に載ってしまいます。仕方なく前進すると、名古屋高速道路に入ってしまいました。時間はかかるし、料金はかかるし、いらない目的地をセットしたばかりに、悲惨な思いをしました。

間違った情報には気を付けましょう。自分の目でしっかりと確かめ、主体的に生きるよう精進しましょう。

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