寺報

美味しく一盃

寺報早いもので、本山東福寺の部長として京都へ行くようになって、もう五年が過ぎようとしています。

東福寺の宗務本院は、宗務総長の下に法務、教学、財務、庶務の部があり、それぞれに部長がいます。部長は東福寺の塔頭(たっちゅう。本山の山内寺院)の和尚と末寺の和尚で二分するということが慣例となっていますので、現在は法務と財務が塔頭、教学と庶務が末寺から出ています。昨年までは、法務と庶務が塔頭で、財務と教学が末寺から出ていました。職員はみな通いですので、本山の大慧殿(宗務本院の事務所のある建物。総長や部長の部屋もある)に泊まるのは、三人だけです。

部長といえば何かよく聞こえますが、実際は実にわびしいものがあります。部屋は用意されていますが、食事はついていません。昼は職員さんたちと一緒に店屋物を取ってもらいますが、朝食と夕食は自分で用意しなくてはなりません。朝は前の晩にコンビニでおにぎりを買っておき、食べます。この寒い時期、冷たいおにぎりを一人で食べるのは実にさびしいものです。自坊(自分の住職している寺)に居れば、温かいご飯と味噌汁を食べることができます。家内の有り難さを本当に実感します。

夕食もコンビニの弁当では余りにもさびしいので、食べに出ます。それぞれが自分の仕事の都合で動いていますので、三人が一緒に食事に出かけるということは、たまにしかありません。東福寺の辺りは京都では片田舎ですから、晩の食事ができる所はほとんどありませんでしたが、昨年の春にJRの東福寺駅の前に安い店ができました。最近は、そこへ時々寄ります。常連というほどではないにしても、何回か行っておれば顔も覚えられます。結構、その店のお客さんたちと話をすることもでき、楽しく過ごすことができます。京都にたびたび行っていても、本山の事務所で仕事ばかりで、観光に行っているのではありません。夜の一杯は大目に見てください。


寺報新幹線の京都駅で降り、奈良線の東福寺駅に着き、もう夕食時でしたので、本山に行く前に夕食を食べることにしました。そこで、その店に入ると、居ました、居ました。常連のお客さんが。一人は四十歳くらいの工務店の経営者のKさん。それと、もう少し若い広告会社に勤務のSさん。もう一人、三十歳ほどの女性のお客さん。この女性の名前は知りませんが、たいていこの三人は一緒です。帰る時はバラバラですから、この内の誰かと夫婦ということではないようです。

私の顔を見て、Kさんが手招きしますので、傍の空いた席に坐りました。お酒を注文すると、その女性が、「前から聞こうと思っていたけど、お坊さんがお酒を飲んでもいいの?」と聞いてきました。「飲みたければ飲めばいいさ」と、私。納得がいかない顔の彼女は、「お釈迦さまがお酒を飲んではいけないという戒律を作ったのでしょ。お坊さんはその戒律を守るべきでしょ」と、突っ込んできます。 かなわんなぁと思いながら、「日本ではいいの。お釈迦さまは暑い国だから飲むなと言ったのであって、寒い日本ではそれに縛られなくてもいいんじゃないかと思うよ。例えば、中国の布袋和尚はヒサゴを持って酒屋にお酒を買いに行ってるし、日本の空海さんは高野山は寒いから一杯だけならよいと飲酒を認めてるし、一休禅師がお酒を飲んだことも有名な話でしょ」と、私は自己弁護。彼女は面白くないという表情です。

出されたお酒を飲みだすと、「この間、国会で話題になっていたが、宇宙人は居ると思う?」と、Sさん。「宇宙人、居ますよ」と、私。「え!? 居ると思うの?」と、その女性が意外な顔。そして、現在の宇宙科学の発展と、その力をもってしても、地球のような環境にある惑星は未だ見つかっていないことを力説してくれました。そして、「居るなんて非科学的だわ」と、一言。そこで、私が、「居るさ。外の惑星は知らないが、私たちは大宇宙の中の地球に住んでいるのだからみんな宇宙人さ」と言うと、みんなびっくりした顔。「確かに。宇宙の中では私たちは宇宙人ですよね」と、Kさん。Sさんも同意してくれました。しばらく考えていたその女性が、「立場を変えてみれば、物事は違ってみえると言いますが、月から見た地球の映像をテレビで見たのを今思い出しました。私たちが宇宙人ですよね」と考え深げな顔です。

「もっと言うと、大宇宙に今存在している自分を仏教では小宇宙と言いますが、この私の小宇宙からすれば貴方たちそれぞれが別の小宇宙なのですから、私にとって貴方たちは別の宇宙人ということになるでしょ」と、仏教の宇宙観をちょっと披露。「小宇宙?」と、Sさん。「そう、小宇宙。大宇宙は厳然と真理により動いています。その真理に違うことのない真理が私たちに内在されています。だから、小宇宙なのです。よく考えてみてください。私たちは本当に尊い存在なのですよ」と、私。

寺報それからしばらくは店の主人と他の話をしていました。話が途切れた時、静かだったその女性が、「私は、戦争ばかりしているイスラム教も、処刑された十字架を礼拝の対象にするキリスト教も好きではありませんが、仏教も嫌いです。私達の日本には物を大切にする『もったいない』の精神があります。そのような教えは仏教にはないでしょ」と、驚くような発言をしました。それには、私だけでなく、「もったいないの精神は仏教からきているのではないの?」と、他の二人も驚いたようです。「え!? そうなの。日本古来の考え方ではなかったの」と、彼女。僧侶である私が答えねばなりません。「勿論、それは仏教の教えです。ノーベル賞をもらったワンガリ・マータイさんが日本の精神として『もったいない』を紹介し、その精神を世界に広める運動をしていますが、その精神は仏教からの教えにより構成されたのです。千五百年もの昔、仏教が日本に伝来し、聖徳太子が国政の基本理念とし、その教えは深く日本人に染み込みました。最近は随分とその精神は薄らいできてはいますが、自分が意識しているといないに関わらず、否、それを意識しないほどに染み込んでいるのですから、それは日本の精神と言ってもいいのですが、元は仏教の教えです」と、私。「仏教って、お払いしてもらったり、願掛けしたり、先祖の霊が何だとかというのが教えでしょう」と、彼女。すると、「そういうのもあるが、それは金儲け主義の坊さんの言ってることで、本来の仏教とは異なっているのだと思うよ」と、Sさん。「テレビで細木さんの言ってることを鵜呑みにして仏教を見ると、間違いだと思うよ」と、Kさん。二人が有難い助け舟を出してくれました。

寺報「仏教は永い歴史の中でいろいろと変化してきたのは事実です。日本に多くの仏教宗派があるのは、その影響です。他宗の教えを誹謗する気はありませんが、禅宗の立場からすると、先ほど言われた教えは仏教の本来の教えではありません。仏教は、お釈迦さまの悟りを中心とすべきで、先ほどの宇宙の真理、仏性の目覚めを求める教えであるべきです。ですから、禅はそれを求め、修行をするのです」と、私。「修行って、何か特別な霊的能力を得るためにやっているのではないのですか?」と、彼女。「それを求めて修行している宗派もありますが、禅宗の修行ではそのような力を得ることを目的としてはいません。お釈迦さまは、「悟って、霊的な能力を得た」とは言っていません。悟られて、その眼から見たら、「不思議なことにことごとく誰でも彼でも仏性を有している」と言われました。ですから、修行は、お釈迦さまの悟りへ向かっての追体験で、貪りや怒り、それと愚かさという心の中の毒を消し、本来の自己を見極めるということです。そのため、修行僧は極力無駄を省き、物を大切にした生活をするのです。それこそ、『もったいない』の精神ではありませんか」と、私。その女の人の表情が少し変わってきました。そこで、「自分が尊いことに目覚めれば、貴方も尊い存在だということ。それは、何も人間だけではなく、米でも、魚でも、水でも、酒でも、みんな尊い存在ということです。尊い存在であるが故に、無駄にしない、有難いということになる。ですから、仏教は、『和』を説き、『もったいない』の教えということになるのです」と言うと、「では、その尊い存在としてのお米や魚、お肉なんか食べてもいいのですか?」と、その女性。「仕方ないじゃありませんか。食べなければ生きていけません。生きるためには、食べなければならないのですから、その尊い命をいただく時は、『有難う』『命を奪ってしまって、ごめんね』と、感謝の気持ちを持たねばなりません。ですから、酒をいただく時は、こうやって、お美味しく、気持ちよく、感謝しながらいただいているのです」と、一杯飲みました。「本当に美味しそうに飲まれますね。感謝の気持ちを大切にしながらのお酒の方が身体のためにもよいですよね。上司の悪口を言ったり、不満をお酒にぶつけたりでは申し訳ないですよね」と、彼女は随分と初めの頃の雰囲気とは変わってきました。家内や娘たちから、「お父さんはお酒を飲むとくどくなる」と、いつも言われていますので、深追いは厳禁、厳禁。え? もう充分にくどいって!? まあ、ご寛恕のほど。それからしばらくいろいろな話に花が咲きました。

帰る時、その女性が、「和尚さん、今日はいろいろと教えてくれて有難う。私、仏教のこと思い違いしていました。これから、仏教にもっと関心を持ちたいと思います。また会った時にもよろしく」と、笑顔で手を振ってくれました。

私達人間は、とかく思い込みの世界に陥りやすいものです。よく見て、よく聞いて、よく考えることが大切です。お仏壇の前でおまいりする時は、謙虚に自分を見詰めたいものです。

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