寺報

遠慮あれこれ

寺報歳が明けましたので、昨年の十二月半ばの頃のことです。前にも書きましたように、本山にいるときは、食事は外食しなければなりません。この日は教学部長さんと一緒に、顔なじみの店に晩御飯を食べに出かけました。

店に入るとがら空きです。カウンターの入り口に近い所に、名前は知りませんが、何度か会ったことのあるお客さんが一人だけ。「どうしたの? えらく空いてるね」と聞くと、観光シーズンが終わり、最近は毎日こんな状態だとのことです。いつもは賑やかな店が嘘のように静まり返っています。

一番奥のカウンターに坐ろうとしますと、店の主人が、「こんなに空いているのですから、そんなに隅っこに坐らず、どうぞこちらへ」と、カウンターの中央の席を勧めてくれました。「いいよ。人生いつも遠慮しながら、隅っこで生きているのだから、ここが性に合ってるんだ」と答えると、「えっ!? 亀山さんが隅っこで生きてるって!? 本山の部長までして、充分真ん中で生きておられますよ」と、主人。「立場のことではなく、そういう気持ちで生きてるということさ」と、私。そんなことを話しながら、でも、カウンターの両端にお客さんでは主人も応対に困るだろうと思い、教学部長さんと中程に坐ると、「喫茶店などでも、席は隅から埋まるといいます。隅がいいというのは人間の習性らしいですよ」と、先のお客さん。「そう、そう。それは前に読んだか、聞いたことがあります。太古の昔から、自分の身の安全を守るためで、遺伝子にもそれが組み込まれているそうです。法話会や大学の講義などで、端の方から坐り、真ん中が空いているのは話しづらくていただけませんがね」と、布教師でもある教学部長さん。

「でも、遠慮は難しい。しないと横柄になるし、し過ぎると他人行儀になってしまうし、程度が難しいですよね。遠慮という単語は元々は中国でできたのですよね」と、お客さん。「論語に、『遠き慮り無ければ、近き憂いあり』という文章がでてきますが、元々はその意味で、遠い先のことも良く考えることです」と、教学さん。そこで、カバンの中から電子辞書を引っ張りだして、「遠慮」を引くと、

  1. 人に対して、言葉や行動を慎み控えること。
  2. 辞退すること。また、ある場所から引き下がること。
  3. 遠い将来のことを思慮に入れて、考えをめぐらすこと。深謀遠慮。
  4. 江戸時代、武士や僧に科した刑罰の一。軽い謹慎刑で、自宅での籠居を命じたもの。夜中のひそかな外出は黙認された。

と出てきました。原義は3. の意味だとのことです。

寺報「亀山さんが遠慮と言ったのは、最後の意味ですか。何を悪いことしたのですか?」と、主人に冷やかされてしまいました。形勢不利。こんな時は話題の方向転換をするにかぎります。「悪いことなんかしてませんよ。夜、こうやって出てくることができるのですから、いいじゃない。宗務本院はこの頃、出前がなくなって、お昼を食べるのにも難儀をしてるんですよ。夜も出られなかったら飢え死にですよ。それより、何の気なしに使っていたけど、遠慮っていろんな意味があるんですね」と、私。すると、「元の『遠い将来のことを考えて』ということから派生して、慎み控える意味や辞退するという意味が出てきたということですよね」と、お客さん。そこで、また私の電子辞書の出番です。私の電子辞書は大振りの手帳サイズながら、日本語の辞書、英日辞典、日英辞典、そして中国語の日中辞書と中日辞典まで入っています。中日辞典の「遠慮」を引くと、3. の意味しか載っていません。ということは、中国語では1. 、2. や3. の意味はないのですから、日本語に入ってからそれらの意味が派生したということになります。

「最近の中国は随分と発展し、高速道路も整備され、バスで移動する時は一般道路を使わなくなりましたから、あまり出くわさなくなりましたが、十数年前はすごかったですよ。田舎に行きますと狭い道をトラックやオートバイ、自転車がひしめきあって、人は多いし、ゴチャゴチャでした。その中を、バスが進むのですが、誰も避けようとはしません。先に先にと突っ込んでいくのです。少し待って、お互い譲り合えばスムーズに通れそうな時も待ちはしません。クラクションを鳴らしながら、我先にと強引に進むのですから、かえって時間がかかり、渋滞をしばしば起こしたものです。中国の車にはバックギアが装備されていないんじゃないかと笑ったものです」と、私。「それは、先の方だけを見てるからですよ。考えをめぐらすところが足りない。強引に突き進むところは何か、今の中国政府のようですね」と、主人。「法律や規則で規制するということは、それができていないから、縛らねばならないのです。孔子が論語の中で、遠慮を説いたのも、それができていないからです。昔も今も、人間はあまり変わっていないということですよね」と、教学さん。

寺報すると、先のお客さんから、「遠慮で思い出しましたが、この時期、喪中の葉書が来るのですが、『喪中につき、新年のご挨拶ご遠慮申し上げます』とか『ご遠慮いたします』という表現、どう思いますか?」との質問です。「ああ、それね。私もおかしいなと思います。昔の考えでは死はけがれですから、けがれが伝播しないように喪に服し、社会から隔絶されたわけです。一年の門出を祝う神聖な新年に、けがれた者から挨拶を受けることは誰もが喜ぶことではありませんでした。だから、服喪中の身である自分はそれを慎み、ご挨拶を失礼させていただきますというのが本来の姿だと思います。『ご遠慮申し上げます』という表現は丁寧には聞こえますが、内容は辞退しますということですから、何か傲慢さを感じますよね」と、私。「そうでしょ」と、お客さんは我が意を得たりと納得顔。実は、十年前、先代和尚が亡くなった時、喪中の葉書を出そうと業者に見本を見せてもらったのですが、ほとんどこのような表現ばかりでした。おかしいなと思い、『新年のご挨拶をご無礼いたします』だったか『失礼いたします』だったか記憶は定かではありませんが、変えてもらったことがありました。その話をすると、その方が筋ですよねと、皆で納得。


【閑話休題】

今まで、喪中の葉書が来ても誰かを見るだけで、下の文章まであまり意識したことはありませんでしたが、昨年の暮れはこのような会話がありましたので、自然と目が行きました。二十通ほど喪中の葉書をいただきました。その内、七通が『失礼いたします』でした。『ご遠慮申し上げます』に疑問を持っておられる方がやっぱりみえるのですね。感心いたしました。


それからしばらくは四方山話。話題は自然と経済の問題になっていきました。米国のサブプライムローン問題、米国の自動車産業の衰退、それが世界経済に波及して、今や世界的な不況になってきました。日本でも、トヨタをはじめとする自動車産業、その関連会社の経営悪化、失業者の増加、それが長引けば、犯罪の増加や社会不安にもつながります。日本の人口は一昨年あたりがピークで、減少の一途をたどると予測されていますが、更にそのスピードが加速されるかもしれません。人口の減少は国力の低下をきたします。これから先、どんな世界になっていくのだろうかと、酒のサカナに思い思いの話でにぎわいました。

寺報それにしても、テレビや新聞の報道を見ていますと、何でこうも自分の金銭欲を満たすために四苦八苦するのだろうかと、唖然とすることばかりです。お金があれば楽に生活することができるから、お金を集めることに必死になるのですが、貯めれば貯めるほどお金に対する執着が起こります。何億円も庭に埋めておいて、それを盗まれ、ショックで亡くなってしまったのでは、笑い話です。子孫のためにと莫大な遺産を残しても、反ってそれが仇になることは多々あります。お互い持ちつ持たれつ、生かし生かされているこの社会です。欲も適当にしておかなければなりません。

『満つれば欠ける』と言います。月は新月から一日一日丸みを帯びて満月になります。満月になればその先は欠けていくだけです。それが世の常と古人は言いましたが、何の努力もしないでみすみす欠けていくのを傍観していたのでは能がありません。今、私たちは一度立ち止まり、環境問題、経済や社会の問題、心の問題など、一人一人が遠い将来を見据えて、よく考えねばなりません。この現状は、あまりに自分勝手な私たち人間に対する警鐘だと思います。


「ところで、二兆円のバラマキ、決まったら貰いますか? 遠慮しますか?」と、例のお客さん。「そりゃあ、貰いますよ」と、他の全員。「貰ったら何に使う?」「きっと分からないうちになくなってしまうというのが実情だと思う」と、主人。「深謀遠慮して、大切に使いますよ」と、教学さん。「貯金しますよ」と、私。「定期でも作っておいて、孫に、『昔、我が国ではこんなことがあって、お前たちに借金をしたんだ。これはその時のお金だ。お前の分だから遠慮せずに取っときな』と言って、渡してやろうかな」と言うと、「そんなこと言わずに、ウチでパッと使ってくださいよ。いつも大体、飲んで食べて一人三千円ほどでしょ。三回も四回も来れますよ。是非、ウチで遠慮せずに使ってください」と、主人。みんなで大笑いでした。

いよいよ二兆円の定額給付金の支給の法案が可決されました。皆さんはどう使われますか。

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