このページはAtsumi,Tが独断で選んだ歴史上の人物を紹介しております。
人物によって力の入れ方が違うと思いますが、ご了承ください。
資料を基に調べましたが、史実と違うところがあるかもしれません。
そのときは、BBSの方へ一言お願いいたします。

天使の美貌をもつ女装の騎士

シャルル・ジュヌヴィエーヴ=ルイ・オーギュスト=アンドレ=ティモテ・デオン・ド・ボーモン

(1728〜1810) フランス

何をした人か??

 18世紀フランス。ルイ15世の密命を受けて女装してロシアに向かいました。と言うのも、デオンは男の格好をして
いても女と見紛うほどの美少年でした。デオンは、7歳までは女の子として女の服装で育てられていました。けど
これは当時の習慣で、男の子がズボンをはくようになるのは8歳過ぎからだったようです。それでも彼の母親は好
んで女の服を着せていました。
デオンは弱冠24歳にして経済論文「ルイ14世ならびにドルレアン公摂政治下におけるフランスの経済状態諸相」
を発表。ちょうどフランスは財政問題で苦しんでいた時代、この時宜を得たデオンの論文は政府の高官たちから
注目されました。そしてデオンは、どこのサロンでも歓迎される著名人となりました。そこでルイ15世の従兄のコ
ンティ親王の目にとまり、宮廷へ上がりました。
デオンは職務に忠実な模範青年でした。時代は「愛人の多さがその人のステータス」と言われたロココ時代…。
デオンは異常と思えるほど潔癖だったそうです。同年輩の若者が高級娼婦や社交界のご婦人方に現を抜かして
いるときも、彼は文学と武術に励んでいました。とくに武術(フェンシング)は当時パリ一の剣士として評判を高め、
人々から恐れられていました。
一見女性を思わせる風貌ながら、文筆と武術にすぐれ、廉直なデオンがルイ15世の関心を買って「王の機密局」
(ルイ15世個人的な秘密外交機関。国王の密使、影武者と考えられる人たちだけが集められ、公的とは別に諜
報活動をしていた。)に推薦されました。そこから、彼の数奇な運命が始まったのです。

 デオンの初めの任務はロシアの女帝エリザヴェータに親書を渡し、持ち帰ること。当時、フランスとロシアの外交
は断絶しており、ロシア領に入るには潜入という形でしか不可能でした。その理由は、ロシアの宰相ベスドジェフ
が親英反仏だったからです。
 そこで、ルイ15世とコンティ親王はダグラス・マッケンジーとデオンをロシアに派遣しました。ただ、このロシア
行きは奇妙な旅でした。というのも、ダグラスは毛皮商人として、ダグラスのボディーガードのデオンは女装させ
られ、ダグラスの姪マドモワゼル・リア・ド・ボーモンとしてロシアのサンクトペテルブルグに向かったのです。
 しかし、ロシアに着いたはいいもの、宰相ベスドジェフに正体を感づかれ、シベリア送りを恐れたダグラスは国
境まで逃げ帰ってしまいました。だが、デオン=リアはベスドジェフの対抗馬である、副宰相ヴォロンツォーフに
助けを求めました。このときにデオンの女装は大いに役立ったようです。美貌のリアはたちまち気に入られ、女
帝のフランス語教師として、女帝の部屋に出入りする特権を手に入れました。
 そしてデオンは、女帝に国王からの親書を手渡し、返事を持ち帰ることに成功したのです。意気揚々とヴェル
サイユに戻ってくると、国王は大変喜びました。女帝からの手紙には国境回復を承諾すると書かれていたので
す。
  翌年、ロシアの全権公使にダグラスが任命され、デオンは大使館書記に登用、ダグラスの補佐として、二度
目のロシア行きが決まりました。今回は騎士デオン・ド・ボーモンとして、リアの兄というふれこみで派遣されまし
た。
 このときも、ダグラスの失態で危うく回復しかけた国境が破棄されかけ、ダグラスはルイ15世の怒りをかって
失脚させられました。新任の大使ロピタル侯爵が到着するまで、デオンは大使代行としてダグラスの大失敗を
見事片付けてしまいました。
 二度目の外交も成功に終わり、帰仏したデオンに、国王は自分の肖像入りの黄金の嗅ぎ煙草入れを与え、
龍騎兵中尉の肩書きも保証しました。
 しかし、仏露同盟は望みどおりには進まず、大使ロピタルを助けるべく、デオンの三度目のロシア行きが決定
しました。このときのロシアでの、デオンの暮らしは贅沢三昧でした。フランス大使館で催される公式レセプショ
ンで、デオンはお金に糸目をつけず、国王も苦情をもらすほどだったそうです。もちろん外交折衝や裏取り引き
が目的でした。
 三度目の五年間にもわたる滞在でデオンの健康は著しく害されてしまいました。そこで帰国を決意したデオン
でしたが、天然痘に冒され、フランスに着いた時には生死の境をさまよう瀕死の病人でした。幸いにも死は免れ、
健康を取り戻したデオンは、ルイ15世に謁見し、晴れて龍騎兵連隊隊長に任命されました。
 以上が外交官としての彼の第一期の活動です。
 
 1761年ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、1762年ピョートル3世が帝位を継いだが、わずか三ヶ月で王妃
エカチェリーナに奪われました。。そして、女帝エカチェリーナの統治が始まりました。彼女は、フランスの敵プロ
イセンを支持していたため、エリザヴェータ時代にフランスと結んだあらゆる条約の無効を宣言しました。これに
よってヨーロッパにおけるフランスの地位は窮地に追いやられ、七年戦争でも敗北が続きました。そこでルイ15
世はイギリスとの和解を考えるようになりました。その調停役に選ばれたのが、ニヴェルネ公爵とデオンでした。
イギリスにおけるデオンは、表向きには大使秘書として、裏での秘密任務はフランス侵略を狙うイギリス国王ジョ
ージ3世の軍事機密を盗み出すことでした。
 デオンのスパイ技術は抜群で、1763年ジョージ3世の署名のある平和協定批准書を抱えて一度フランスに帰り
ました。このときルイ15世から騎士の称号を受け取りました。
 同じ頃、ニヴェルネは健康上の理由でフランスに戻り、大使の勤務を放棄しました。次期大使ゲルシイ伯爵が赴
任するまでの間デオンが、イギリスで全権大使の地位を代行することになりました。
 デオンは、常に公的政治の舞台裏で陽の目を見ることの無い裏面工作に暗躍して、人目を忍び、ときには変装
してまで外交を行ってきた彼が、初めて見られる側に回りました。このときのデオンが一番輝いている時期です。
あとはただ、一路下り坂を駆けることになるのでした。
 
 新任大使のゲルシイとデオンはとにかく仲が悪かったのです。それに、デオンは手に入れた現在の地位をどうし
ても手放したくなかったのです。しかし、ゲルシイが到着後、彼は元の秘書に降格させられました。しかも、全権大
使の時の莫大な費用を使い、贅美なパーティーを毎日のように行った結果膨大な負債を抱えていました。そして召
還状が彼の手元に届きました。ルイ15世は、デオンを心配し、大使館から逃げるようにと説得しました。しかし、こ
の説得の本当の理由はデオンが長年のスパイ活動で手に入れた重要書類が公的の場に渡ることを恐れていたか
らです。この書類が公開されようものなら国王自身も窮地に追い詰められかねません。なんとかしてでもデオンの
手から文書を奪い、証拠隠滅をはからねばなりませんでした。
 ゲルシイもデオンの持つ書類奪還に協力しました。デオンに暗殺者を送ったり、毒物を飲ませたりしましたが、ど
れも危機一髪のところで難を逃れました。しかし、ゲルシイが流したデオンを中傷したある噂がロンドンの街中で広
がり始めていました。それは、デオンは女であるとか、半身は男で、半身は女の化け物というものでした。そもそも
名前に「ジュヌヴィエーヴ」という代母の名がつけられており、男装なのか?女装なのか?という噂が広まり賭けが
行われるまでになってしまいました。その賭けを取り締まる法律までできたそうです。
 そんな中、ルイ15世が天然痘で亡くなりました。それにより「機密局」も消滅しました。それでも、彼は秘密書類を
手放そうとはしませんでした。そこで後を継いだルイ16世は、ボーマルシェをイギリスに派遣してデオンと交渉させ
たのです。ボーマルシェはデオンのことを女と信じていたし、デオンもそう思わせるように仕向けていました。のでボ
ーマルシェは求婚までしたそうです。そして一万二千ポンドの金額で書類を渡しました。そのころのデオンはフランス
に帰りたいと切に願っていました。回りから言われ続ける噂にも疲れきっており、ついに「自分は女である」と断言して
しまいました。その一言がそれから一生女の格好で暮らすことになろうとは思いもよらなかったと思います。
 ルイ16世は「フランスに帰ってくるのであれば女性以外の格好をすることを厳禁」としました。それに承諾したデオ
ンは、フランスに帰り「永久に女になる儀式」を受けました。そのころアメリカ独立戦争があり、名うての騎士であった
彼は、アメリカ行きを志願しましたが、「スカートをはいたままで戦えるわけがない」と却下されてしまいました。
 
 1785年デオンは負債の返済のため、またイギリスへ渡しました。しかし「機密局」も無くなった今、デオンの収入はほ
とんどありませんでした。そこで彼は、得意のフェンシングを見世物としていろいろなサロンを回り、収入を得ていまし
た。そして有名なロンドン最強の剣士サン・ジョルジュと決闘。デオンはルイ16世の命令通りドレス姿で試合に臨みま
した。スカートに苦戦しながらも、見事相手を負かしたのです。この試合をロンドン中のあらゆる新聞が報道しデオン
の生活は軌道に乗りはじめるかに見えましたが、1789年あのフランス革命が勃発してしまいました。革命により地方
の小貴族とはいえ、貴族の出であるデオンのフランスでの財産は没収されました。
  
 フランスに帰れなくなったデオンの最後は極貧生活でした。最後に残された楽しみは読書だけだったようです。悲
惨な窮乏生活のなかで彼は、聖ルイ勲章やルイ15世の嗅ぎ煙草入れまで売却しましたが、ローマの大詩人ホウテ
ィウスの「オード集」だけは手放そうとしませんでした。
 
 晩年の女友達であるメアリー・コール夫人とエリゼ神父に見守られつつ、1810年5月21日の夜、82歳のデオンは眠
るように亡くなりました。
 
 彼の死後、エリゼ神父立ち会いのもとに、検査解剖し、「事実」をつきとめました。そして紛れもない男性であること
を断言しました。
 
 デオンは署名のない自筆の詩を残しています。
『神にのみ栄光と栄誉あれ!死はわれの利益なり…』
というラテン文ではじまり、

われは天空より裸で生まれ落ち、
今また、裸にてこの墓石の下に眠る…
要するに、この地上に生きて、
われには得たものも失ったものもなし…

という墓碑的な簡潔な四行詩です。
生涯の四十九年は男、三十三年は女とみなされ生きた数奇な運命を辿った冒険家です。



デオンのここが好き!

 この18世紀中ごろは階級社会が揺るぎはじめていたころ。そんななかで君主に忠誠を誓い国王のために必死に行
動した姿に感動です!初めてロシアに行ったときも上の人には「もしベスドジェフの手に落ちても、フランスも国王も、
あなたが何者であるかも知らない。」と言われていました。失敗しても国王は助けてくれないのに、女装してまで向か
うなんてすごい度胸だと思います。けどそれだけ祖国フランスが大好きだったんでしょうね。歴史の表舞台に立ちた
かったデオンにとっては、なんとか名を残すことができたのはよかったのか…。密偵、外交官、文人、女装の剣士…
数々の才能を持ちながら最後は惨めな暮らしになったのは、時代のせいもあると思います。

 もし、女と見紛うほどの容姿と、パリ一と言われた剣の腕、そしてその厚い忠誠心と勇猛果敢な性格のどれかひとつ
でも欠けていたならばこのような数奇な運命はなかったはずなのに…。運命はあまりにも残酷です。



略年表

西暦 年齢 生い立ち
1728年(10月7日) フランス、ブルゴーニュ地方。ディジョン北西の町トンネールで生まれる。(10月5日という説もある)
1743年 15歳 パリに出てコレージュ・マザランに入学。乗馬、ダンス、フェンシングを収める。
1748年(11月) 20歳 父親ルイ・デオン死亡。
1749年 21歳 民法と教会法の博士号を取得。
1752年 24歳 経済論文「ルイ14世ならびに、ドルレアン公摂政治下におけるフランスの経済状態諸相」を発表。
1755年 27歳 ルイ15世の従兄コンティ親王の呼びかけで、国王の個人的な秘密機関「王の機密局」に参加。
  (7月) ダグラス・マッケンジーと共に、”マドモワゼル・リア・ド・ボーモン”としてロシア、サンクトペテルブルグに出発。
  (年末) ロシア皇妃の親書を持ってヴェルサイユに帰還。
1756年(6月20日) 28歳 大使館書記の肩書きで「リアの兄」というふれこみで二度目のサンクトペテルブルグに発つ。
1757年(9月) 29歳 ルイ15世から龍騎兵中尉に任命される。
駐露大使ロピタルを助けるべく、三度目のロシア行きが決定。
1760年(8月) 32歳 デオン帰仏。
  (年末) ルイ15世のもとの龍騎兵連隊隊長に任命。
1762年(9月) 34歳 新任の駐英大使ニヴェルネ公爵の秘書としてロンドンへ出発。
1763年(2月) 35歳 ジョージ3世に託された批准書を持って帰仏。
聖ルイ王室騎士団騎士の勅許状を与えられる。
  (6月) 「英国上陸作戦」の秘密指令を携えてロンドンへ向かう。
大使ニヴェルネのかわりに新任大使ゲルシイが到着するまでデオンが全権大使の代行をする。
1764年(3月) 36歳 ゲルシイの中傷誹謗が始まる。(1765年ゲルシイ、ロンドンを去る)
1770年 42歳 「デオンは女ではないのか?」という噂が広まる。
1771年 43歳 ボーマルシェ、交渉役としてロンドンへ派遣される。
1774年(5月) 46歳 ルイ15世死亡。
1775年 47歳 ボーマルシェの条件をのみ、「自分は女性である」と断言する。
1777年 49歳 デオン14年ぶりに帰仏。ルイ16世から「女性以外の服装」の厳禁される。
  (10月21日) 「永久に女性になる儀式」が行われる。
1778年 50歳 騎士としてアメリカ行きを志願するが却下される。
1779年(3月) 51歳 「故郷トンネールに退去せよ」という国王命令。ディジョンで20日あまり獄中生活を送る。
1785年(11月17日) 57歳 女性として「ラ・ジュヴァリエール・デオン」ロンドンに戻る。
1787年(4月) 59歳 ロンドン最強の剣士サン・ジョルジュとの果たし合い。
1789年(7月14日) 61歳 バスティーユ襲撃。フランス革命勃発。
1792年(5月 64歳 立法議会に陳情書を送り、軍隊への復職を願い出る。
1793年(1月) 65歳 ルイ16世処刑。デオン、帰仏を取りやめ、ロンドンに留まる。
1795年 67歳 極貧のデオン、フェンシングの一座を結成し、イギリス各地を巡回。
1796年 68歳 フェンシングの試合で重傷を負う。
1803年 75歳 女友達メアリー・コール夫人と貧窮の日々をおくる。
1804年 76歳 負債者拘禁所に送られる。
  (1月) ナポレオン1世即位。
1810年(5月21日) 82歳 2年間の闘病生活ののち、メアリー・コール夫人とエリゼ神父に見守られ死亡。
  (25日) 死亡後、外科医たちの検証で「正真正銘の男性」であることを公表。
  (28日) イングランド南東部ミドルセックス州のセント・パングラス墓地に埋葬される。



参考文献

以下の文献を参考にさせていただきました。(敬称略)

窪田般彌  『女装の剣士シュヴァリエ・デオンの生涯』
種村季弘  『詐欺師の楽園』
名香智子  『花の美女姫 2』
斎藤直子  『仮想の騎士』

デオン・ド・ボーモンに関する資料集めております!
少しでもいいのでデオンについて書かれている資料がありましたら、
BBSの方へ一言ご連絡くださるとうれしいです。


ここまで見てくれてありがとうございました!☆