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正圓寺の創立
貞享2年(1685年)、当寺二世円水和尚はそれまでの伝聞をもとに寺譜を作成しました。それによると、その縁起は大宝2年(702年)とされていますが、遺された文献が少ないため、真偽のほどは定かではありません。ただ、豊橋市史第1巻によると、ご本尊の薬師如来像は810年代の作と推定されていますので、古くから草庵があり、村人の信仰を集めていたことは確かであろうと思われます。
その寺譜によると・・・
702年の冬、持統上皇は三河を行幸しておりました。豊川を渡った先で断崖の上に瑠璃光がさし、神人が現れ、「この地は山と海に囲まれたまことに良い土地である。私はここで霊材を見出し、護ってきた」と告げると、パッと薬師如来の姿を顕しました。それをみた上皇は、鳳来寺山にいた利修仙人に薬師如来の像を作らせました。一説には、鳳来寺山薬師如来の余材を用いたとも言われています。
その後、聖武天皇の時代には、行基菩薩がこの地を訪れ、この薬師如来を拝まれました。その時行基菩薩は右ひじが欠け損じているのに気づき、補修されました。
平安時代になり、坂上田村麻呂が駿河の国に出征した帰り、この地を通りかかったところで、寺社を修理しました。また、そこで聖材を見つけ、京都に持ち帰りました。その聖材を空海に授けたところ、空海は願主となって地蔵尊をつくりました。そのお地蔵さんは子安地蔵、鎮火地蔵などとして庶民の信仰をえるようになりました。この時、真言宗の僧侶が住職となり、神鎮山瑠璃光院と称するようになり、社を熊野三所権現なぎ江の神というようになりました。

という事ですが、これはあくまで江戸時代の住職、円水和尚が伝聞をもとにまとめたものによるものです。
正圓寺の再興と戸田氏
長い年月のうちに何度も戦火に焼かれ、荒れ果ててしまい、ただ草堂が一つだけになってしまっていたのですが、室町時代の延文年中(1356〜1360)嵩山正宗寺の二世である方外和尚が再興し、臨済宗に改められました。
文明年間(1469〜1486)には二連木城主戸田宗光がなぎ江(今の浪ノ上)の領地に建てた別荘に薬師如来像、地蔵尊を移して安置し、荘円寺と呼ぶようになりました。
天正の末(1572〜1591)には戸田六郎兵衛定光がなぎ江に定住し、荘円寺を菩提寺としました。
江戸時代にはいり、元和3年(1617年)にはそれまで寺院のあった浪の上熊野神社の隣から、現在地に引越しをしました。現在地は周囲に堀があり、戦国時代作と思われる土塀もあったことから、武将の城跡ともいわれています。
南周和尚〜現在まで
正保二年(1645年)、南周和尚が開山として住職につきました。それから約30年後、戸田六郎衛門種長がお堂を再建して、正圓寺と名を改め、妙心寺の直末となりました。そのすぐ後(1675年)に二世として住職になったのが、寺譜を遺した円水和尚です。
そして現在の住職は十三世となるわけですが、開山から現在に到るまでを簡単に記します。
江戸時代
1645年 開山南周宗印和尚、住職につく
1674年 戸田種長堂宇再興、正圓寺と改名、妙心寺直末になる
1675年 二世・円水祖元和尚、住職につく
1680年 寺子屋を開く
1684年 十王仏作。庫裏建立
1689年 三世・蘭渓宗寿和尚、住職につく
1702年 四世・岱嶽祖盤和尚、住職につく
1705年 本堂改築
1724年 本尊開帳大法要
1742年 五世・恢山楚湛和尚、住職につく
1768年 六世・透関中張和尚、住職につく
1784年 本尊開帳大法要
1792年 七世・文仲宗哲和尚、住職につく
1831年 八世・範渓良摸和尚、住職につく
1840年 九世・密印宗密和尚、住職につく
1865年 本尊開帳大法要
明治時代〜現在
    十世・密道宗理和尚、住職につく
    十一世・梅嶺宗諄和尚、住職につく
1929年 本堂再建・本尊開帳大法要
    十二世・景堂宗樹和尚、住職につく
1968年 位牌堂建立
1983年 客寮建設
1984年 庫裏再建
1990年 十三世・覚道宗哲和尚、住職につく、本尊開帳大法要、観音堂再建、達磨堂建立
・沿革

地蔵菩薩
地蔵菩薩













戸田氏について
戸田氏の系譜









南周和尚像
南周和尚像

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