お経の歴史
釈尊(お釈迦様)が説かれた教えである「経」、仏弟子が守らなければならない約束事や禁止事項である「律」教団の学僧たちが釈尊の教えを考究分析した「論」の三つ(三蔵といいます)の総称を「お経」といいます。
釈尊が入滅されて4ヶ月ほど後、仏弟子たちはそれぞれの記憶にとどめておいたお釈迦様の言葉を皆が共有できるように結集(けつじゅう)という経典編纂会議が行われ、はじめてお経がまとめられました。紀元前後になると、伝統教団に対して一切衆生を救おうとする仏教運動が興り、大乗仏教が派生しました。そういった経緯もあって、第一回の結集以来、1000年にもわたって編纂されてきた仏典は、8万4千の法門といわれるように膨大な量になりました。
多くの経典がシルクロードを通って中国にもたらされ、漢訳されました。経、律、論の三蔵を究めた偉大な僧を三蔵法師と呼ばれたのですが、「西遊記」で有名な三蔵法師、玄奘もその一人です。また、中国で作られた大乗仏教の経典もあります。
日本には、公には538年に百済(朝鮮半島の一国)からもたらされたということになっていますが、実際にはそれ以前に朝鮮系の帰化人に伝えられたと考えられています。
日本で読まれるお経
お経という呼び方が適切ではない種類のものもありますが、僧侶や檀信徒が誦すものとして、
臨済宗、黄檗宗、曹洞宗などのいわゆる禅宗では、「不立文字(悟りの境地は表現できない)」「教外別伝(禅の真髄は経典の内容を絶したところにある)」と言われております。この言葉が表しているように、臨済宗では実践的な宗教体験を重要視するので、所依の経典はありませんが、縁により「般若心経」はじめ多くのお経、陀羅尼が読誦されます。
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結集(けつじゅう)
経典を編集する会議。釈尊の入滅後4〜500年の間は文字にせず口伝で伝えられた。
玄奘(げんじょう)
西遊記で有名な三蔵法師。600年〜664年、唐の時代の僧侶。国外へ行くことは禁じられていたが、こっそりとぬけだし、長く厳しい旅の末、インドに着き修養した。出発から20年ほど後、多くの仏典を手に帰国した。国禁を犯しての旅であったが、皇帝に篤くもてなされた。帰国後は仏典の翻訳に専念した。
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