開静-かいじょう
僧堂では起床のことを開静といいます。まだお日様もお休みの午前三時〜四時、 振鈴(しんれい)という鈴の音が静寂を破ります。僧堂では動作の合図は全て 音によって伝えられます。
といった具合に朝の音が僧堂内に鳴り響きます。
引磬(いんきん)が鳴り終わると同時に雲水は一斉に跳ね起き、恋しい恋しい柏布団を巻いて 棚に放り上げられ、洗面、用便、身支度を終えるまでまでわずか数分。数分後にはなにもなかったかのように 自分の単(場所)に坐を組んでなくてはなりません。しかし、時間が無いからといってバタバタと走ったり音をたてたること は許されません。起きた瞬間から緊張の連続です。
朝課-ちょうか
法鼓(大きな太鼓)の合図で本堂へ。外はまだ暗いのですが、朝の勤行の時間がやってきます。イノウスと呼ばれるお経の指揮者のような役の人も、ギョリンスと呼ばれる木魚をたたく人も、そしてお経をよむ人たちも、それぞれの役割に必死です。それでいながら周りとの調和を忘れるわけにはいきません。また、姿勢や経本の持ち方にも神経をいきわたらせる必要があります。
粥座-しゅくざ
さあ、朝ごはんです。とはいっても、お粥と自家製たくあん、梅干というメニューではありますが。しかも、お粥はほとんどが液体からできております。
般若心経を読みながら「持鉢(じはつ)」という自分専用の器を並べ、「飯台看(はんだいかん)」と呼ばれる給仕係にお粥をよそってもらいます。その後、生飯(さば)をとって鬼界の衆生に飯を施し、お経をあげ、やっといただく事ができます。お経と合図のタクの音以外たててはいけません。よけいな動きもしてはいけません。冬などは鼻水のおかげで塩味のお粥を食べることができたりもします。
独参-どくさん
喚鐘(かんしょう)という鐘が「カーン・カーン・・・」と聞こえてくると、雲水は老師からいただいた公案(問題のようなもの)の見解(けんげ)をもって、順に老師のいる部屋へ行き、一対一で老師に向かい合います。これは一休さんのとんちのようなものではなく、また、頭で考えても答えがでるようなものでもありません。これは、日々の中で最も大切な修行といわれるほど、臨済宗においては重要な意味を持っています。
坐禅-ざぜん
独参から(たいていは意気消沈して)帰ってきて、朝の掃除の時間が来るまで坐禅します。しばらく坐っていると、体の芯が温かく、いい感じになってきます。が、そういった時たいていはうとうとしている時であり、警策(けいさく)という平べったい木の棒で、「パンパーン」とやられてしまいます。「やられてしまいます」なんて失礼な書き方をしてしまいました。警策は、心と体を律してくれるためのものなのですから、ありがたく受けなければならないのです。「肩のこりがほぐれそう」だとか「すっきりしそう」などと思われるかもしれませんが、あれは正直痛いです。最初は怖かったです。でも、そのうちに、痛いことに対する恐怖はなくなっていきました。
日点掃除-にってんそうじ
毎朝の境内の掃除の事を日点掃除といいます。すみずみまで、早くかつ丁寧に行わなければなりません。また、春、秋は落ち葉が多く、夏は暑く、冬は寒くて素足が痛みます。どの様な状況でも限られた時間で行わなければならず、大変でしたが、きれいになった境内は気持ちよかったです。
日中の修行
日点掃除終了後、予定にあわせて、作務とよばれる労働をしたり、列をつくって托鉢にいく「連鉢」に出かけたりします。他の寺院のお手伝いや読経などに行くこともあります。いかなる時も私語は慎むべきものであり、必要以外の言動は許されません。これも大切な動中の修行なのです。
午前10時くらいには「斎座(さいざ)」といわれる昼食をいただきます。一汁一菜の食事を、やはりいろいろな作法をこなしていき、いただく事が出来るのです。
「昏鐘(こんしょう)」とよばれる夕方の鐘の音が聞こえてくるまで(時にはその後も)、作務などをします。
夕方〜夜
夕方に「薬石(やくせき)」といわれる夕食をいただきます。
その後、坐禅、独参などがおこなわれます。
9時になると、消灯の時間がやってきます。それを「解定(かいちん)」と呼ぶのですが、ここでもまたお経を読み、最後に三拝をしてから柏布団を並べます。そして、文字通り消灯されます。
しかし、その後、まだまだ修行が足りないと、それぞれが「夜坐(やざ)」に励むのであります。
これは徳源寺における基本的な一日であり、僧堂により多少の違いはあります。また、年に7回の大摂心と呼ばれる坐禅三昧の日々などがあり、一日の流れも変わってきます。
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