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バスクの8日間

2016年10月09日  

 ドノスティア(サンセバスティアン)市で開催される日本・バスク国際セミナーに参加することを主な目的として、本年(2016年) 9月3日に羽田を発ち、スペインのギプスコア県とビスカヤ県に 8日間滞在して12日に関空に戻りました。

 日本・バスク国際セミナーは、神戸市外国語大学の T.K. 教授とバスク大学のJ.E.Otegi教授の主宰によって、2007年にその第1回がビトリア市で開催されています。その5年後の2012年に第2回が神戸市で開かれ、今回2016年のドノス ティア(サンセバスティアン)市での開催で3回目となります。

 今回のテーマは 「スポーツのグローバル化の周縁 -遊戯と伝統スポーツの行方-」 で、日本からは3名、バスクからは5名の研究者が発表し、それに対する質疑応答が行われました。

 以下にバスクでの8日間を初日から時系列に沿って1日毎に紹介していきます。
 

第1日目(2016/09/04)

 9月3日の午後10時55分に羽田を発って、パリでの乗り継ぎ時間を含めて18時間ほどでビルバオ空港に降り立つ。

 羽田から出発直前の機内のナビ画面 
 

 10:30 空港近くのホテルMañarikua Hostelling Internationalにて、すでにフランスで用事を済ませて先着していた N さんと合流、ビルバオのバスターミナルへ。 
 
 13:30 サン・セバスティアンのバスターミナルに到着。
      ホテルMonte Uliaに向かう14:14着。 
     Hotel Uliaの入り口 親切な従業員とこざっぱりした室内
 

 14:31 市内循環バスにてサン・セバスティアン(ドノスティア)旧市街に。
        現地に詳しい T さんの案内で旧市街を散策。

 明日が決勝戦という市のお祭りの呼び物 レガッタレース の予選が終わったところで、市民たちはアルコールも入って大盛り上がり。 チームカラーの T シャツやスカーフを身につけて、明日の決勝戦への期待を語り合う人々。 ここを通り抜けるのがたいへん。 
 
 市内には至るところにバル(BAR)が・・・。 
 
 14:50 旧市街のレストランEKAITZにて昼食。
      看板には MENU 9.90 € と書かれている。 
      MENUの意味はドイツ と同じ。 
  
 16:47 Bar Azkenaにて珈琲ブレイク。日差しは強いけれど日陰に入れば涼しい。 
 
 
 参考のためにドノスティア(サンセバスティアン)の地図を掲載。
 左の矢印は昼食を食べたBar Ekaitz 右はHotel Ulia。 
 

 17:37 ホテル帰着。 




2016年10月10日 

第2日目(2016/09/05)
  バスク滞在第2日目。国際セミナー当日。
 早起きして、3人でホテル近くのバルにて朝食。
 市内循環バスに乗りセミナー会場に向かう。

 08:37 セミナー会場、ミラマール宮殿(Palacio Miramar)に到着。宮殿はBahia de La Concha(コンチャ湾)に面した海岸に建つ。
 

 宮殿から美しい海岸線を持つBahia de La Conchaを望む。 
 

 ミラマール宮殿入り口に立つ日本側登壇者の3人 
 

 セミナーの様子は「近況報告」の頁にもPPTの配布資料がアップしてありますのでそちらもご覧下さい。
 ここでは、プログラムだけ掲載しておきます。 
 
 
 バスク側登壇者の氏名とテーマは以下のとおり
   
 10:30-11:15 ヘスス・イルンダイン・アグルサ 「革新的・グローバルスポーツ哲学の覚え書き」
 11:30-12:15 エスティバリス・ロマラテサバラ・アルダソロ 「ギプスコアにおけるスポーツプログラムの東洋的身体活動」
 13:00-13:45 ペレ・ラベガ・ブルゲス 「遊技・文化・教育 統合された体育へ」
 16:30-17:15 ヨセバ・エチェベステ・オテギ 「スポーツ遊技バスク移民 ―グローバル体育批判」
 17:15-18:00 アシエール・オイアルビデ・ゴイコエチェア 「東洋と西洋における山岳トレッキングの実践と変容」

  09:00 セッションスタート。
        上のプログラムから分かるように、トップバッターは N さん。
        テーマは 「グローバル化とスポーツ」
 
 12:15 Tさんが登壇 テーマは「グローバル化時代におけるバスク伝統スポーツの意味」
 

 13:45~16:30 昼食はバスク側研究者とともにレストラン La Perla で。
アコヤ貝(ホタテ貝?)の貝殻のような海岸線を持つコンチャ湾に面した美食で有名なレストラン。 

店名の La Perla は「アコヤ貝からこぼれ出た真珠」を意図した?
 

 18:00 スペイン語への通訳をして頂いている T さんと相撲節会を説明中の船井。
       そのテーマは「大相撲のパースペクティヴ ―スポーツのグローバル化と伝統―」
 
 
 20:00 セミナー終了
 20:40 散策。日本と違い、とうに午後 8時を過ぎているのにこんなに明るい。
 

 21:30 J.M.I-A、P.L.i.B、 J.E.Oの3氏と、Nさん、Tさんとともに夕食
 23:00頃 ホテルMonte Uliaにもどる

参考のための地図。 
 




2016年10月13日 
第3日目(2016/09/06) 

 09:30 J.E.Otegi教授がP.L.i Burgues教授とともに車でホテルMonte Uliaに迎えに来てくれる。
 

 10:45 イグナチオ・デ・ロヨラ廟(教会)には1時間15分ほどで到着。教会と博物館を見学。 
 

 案内板の黄色1は現在地、2.バシリカ(聖堂)、3.聖ロヨラ生誕の部屋、4.博物館受付、9.図書館  
 
 
 バシリカ (聖堂) の内部 
 

 ドーム型の天井 採光のための八つの高窓 
 

 11:30 博物館の入り口前にはパンプローナの戦い(1521年)で傷ついたロヨラの像があった。このときロヨラは同じバスク人だがフランス側についたザビエルの兄たちと敵味方に別れて戦っている。

 イエズス会創設の同志となるザビエルたちと「モンマルトルの誓い」を結ぶのはこの負傷から11年後の1532年。
 
J.E.Otegi教授とP.L.i Burgues教授は先に帰途につくということで、彼らに別れを告げてから私たち3人は博物館を見学。 
 
 
 博物館の展示物は豊富。大航海時代の幕が開いた当時の海図。バスク人は海洋民族。
 

 ロヨラ誕生の部屋 療養生活中に聖人伝を読みふけった彼は、親の付けた名前イニゴをヨハネの弟子イグナティオスにちなむイグナチオに代えてしまう。  
 

 ロヨラの頭部彫刻 
 
 
 ロヨラ昇天を描いたステンドグラス 
 

 12:50 見学を終えてバスにてサン・セバスティアンに戻る。
 Urumea Itsasadarra川にかかる Maria Cristina Zubia橋を渡って旧市街に向かう。 
 

 14:00 旧市街のマーケットを見学。遅い昼食。
 ピンチョスはシャリがパンに置き換わった寿司? 
 サン・セバスティアンはこのピンチ ョス発祥の地だとか。 
 

 16:25 帽子屋を覗いてみる。 有名なELOSEGUI=エロセギのベレーがあった。 
 

 Boulevard Zumardia アラメダ・デル・ブールバードから例の市内循環線(13番)でホテルに戻る。 
 

 マンホールの蓋が面白い。 
 左:旧市街で見かけたバスクの紋章をかたどったレリーフ。 
 右:Hotel Monte Ulia脇にあったもの。
サンセバスティアン市衛生局(たぶん)の文字の上の紋章は、海洋民族の証である「帆船」だった。 
 




 2016年10月16日 
第4日目(2016/09/07 午前)

 
 7日は移動日。しかし、午前中いっぱいを使って旧市街の博物館などを見学する。
  08:00 ホテル近くのバルにて朝食。
 

 10:00 マーケットにて買い物。 
 

高級オリーブオイル購入。 
 

 10:40 San Telmo Museoa(STM)見学。 
 

 この市立博物館にはバスク伝統スポーツに使用する用具や写真などが陳列されている。 
 

 丸太を切る斧 
 
 

 石引きの石 
 
 

 丸太きりの鋸と草刈り鎌 
 

 ペロタ ( ラシュア Laxoa) のサーブ台 
 

 ペロタの各種ラケットとボール 
 

 石上げの石 (球形) 
 
 
 石上げの石 (角型とタンブラー型)
 
 
 レガッタのオール
 
 
 石引きの牛に付ける首かせ、頭巾と先に針のついている杖(鞭?)
 
 
 バスクの民族スポーツには賭けがつきもの
 


 
 11:30 旧市街見学。遠近法の消失点にそびえたっているのは新市街に建てられた
        Artzain Onaren Katedralaの尖塔。

 Artzain Onaren はバスク語で、英訳するとGood Shepherd、つまり善き羊飼=キリスト。旅行ガイドブックなどでは西語読みの「ブエン・パストール大聖堂」と表示されていて、やはり「善き羊飼」の意味。 
 

 12:30 バルにて昼食。日本語をしゃべるウエイター。
       2016/10/15放映の「世界不思議発見」でも紹介されていた。 
 

 「タパス」と「ピンチョス」の区別は? 楊枝の刺してあるのが「ピンチョス」だとか。 
 

 正面に見えるのはサンタ・マリア教会 
 

サンテルモ博物館の位置。 
 

 13:00 サンセバスティアンを後にビルバオにむかう。 




2016年10月26日 
第4日目(2016/09/07 午後)

 16:00 Bilbaoに到着。 Hotel ERCILLAにチェックイン。
すぐホテルを出て、本日の残りの時間を有効に使ってフィールドワークに出かける。
 ビルバオのMap。
 
 

 16:57 最初に訪れたのはHuella de la Escultura(Fingerprint Sculpture)と名づけられたモニュメント       のあるアルチャンダ・フニクラ公園(?) Parque Del Funicular Funicular de Archanda。 
 

 最初はそれが何であるのか判然としなかった。近づくと指紋をモチーフにした鉄製のモニュメントで、鉄生産の町であったビルバオにふさわしいと思った。 
 
 
 間近に立って見上げるとかなりの大きさだ。
 

 モニュメントの傍らには「ATERPE 1936」とタイトルの付けられた、これまた鉄製の記念碑があった。碑文はバスク語とスペイン語で書かれているために詳細な内容は不明。
 それでも見慣れた単語を拾って無理矢理推測すると「民主主義と自由のために戦ったバスク戦闘員の記念碑」ということのようだ。

 この高台は、1936年7月~39年3月にスペインでの人民戦線政府とフランコの指揮する軍部の間で戦われた「スペイン内戦」の戦場だった。ドイツの義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃機による4月のゲルニカ空襲についで、ビルバオも空襲にさらされ、6月にはフランコ軍に占領されてしまう。

 同行の T さんの説明では、ビルバオを一望できるこの高台から人民戦線などの兵士たちが、フランコの反乱軍に向けて攻撃を仕掛けたのだとか。 
  

 17:30 Restaurante Anton でお茶。その後Funicularで下山。ARTXANDA(アルチャンダ)広場へ。

 大車輪の置かれたフニクラの頂上駅 
 
 
 フニクラ下車
 

 フニクラの登り口、アルチャンダ広場の駅 
 

 トラムに乗るためにネルビオン川に架かるスビスリ橋を渡る。

 T さんによると、以前この橋の踏面は透明で川面が見えたのだそうだが、現在では雨で濡れると滑って危険ということで、無粋な滑り止めの敷物で覆われており、足下の川面は見えない。 
 

 橋上からネルビオン川の河口方向を臨む 
 
 
 橋上からネルビオン川上流をながめる。グッゲンハイム美術館が見える。
 
 
 バスク博物館に行くためにトラムに乗る。 
 美術館近くのUribitarte駅。
 

 19:05 残念なことにEuskal Museoa (Bilbao Museo Vasco)に行くがすでに閉館。 
 
 
 
 19:10 ビルバオ・サンチアゴ(=聖ヤコブ)大聖堂:Bilboko Donejakue katedrala (St.James Catedral)を訪れる。
 

 19:50 バスクの民族スポーツの名が付けられたペロタ通りとアンドラマリア通り、そしてTxakur通りが出会う三叉路の辻にあるレストランAmarenaにて夕食。

 ライトアップされたペロタ通りのマリア像 
 

 ロマのアコーデオン弾きの老人に出会う。 
 

 21:30 地下鉄 カスコ・ビエホ Casco Viejo (古いヘルメット)駅から乗車、Indautxu駅で下車しホテルに戻る。 
 




2016年10月30日 
第5日目(2016/09/08) 

 08:30 ホテル近くのバルにて朝食。このあたりは官庁街とのことで、出勤途中にバルのカウンターで朝食をとっている人たちも身なりが良いような気が・・・。
 

 09:05 昨日すでにしまっていたバスク博物館 Euskal Museoa を再度訪問。 
 

 紀元前から現代に至るまでのバスクの人びとの生業・生活の様子が、発掘された遺物や写真・模型などによって、理解しやすいように丁寧に展示されている。

 山バスクは牧羊や狩猟などが一般的だった。海バスクは漁業が盛んで捕鯨もしていたことがわかる。また、バスクの特徴である製鉄に関連する展示もあった。 
 

 中庭と回廊の展示物。回廊の特別展示は壁面を飾る紋章など。 
 
 
 Mikeldiの偶像と呼ばれる中庭の展示物は不思議な形をしている。研究者たちはこれをイノシシかウシと推測しているようだが、はっきりしない。

 鉄器時代に砂岩を素材に作成されていて、1,560kgの重量がある。4本の脚の間に太陽と月を象徴する円盤を保持している。
 
 
 13:45レトロな感じのレストラン La Vina del Ensanche にて昼食。
 

 まるでアジのひらきのような風情のスズキの料理 
 

 15:00 グッゲンハイム美術館 Guggenheim Bilbao Museoa に入館。
 今回のバスク訪問で初めての雨。
 ポップアートの旗手が枕詞のアンディ・ウォーホル Andy Warhol 特別展開催中だった。 
 
 
 生花で制作された巨大な子犬「パピー」が、美術館前の広場で雨に濡れて「おすわり」していた。
 
 
 19:00 ホテル着




2016年11月07日 
 第4日目(2016/09/09)

 08:40 バル「8cala」にて朝食。
 
 
 09:00 ホテル前に乗り付けた案内役の J.E.Otegi 教授の車に乗り込み、市中を出て高速(AP-8)を西へフィールドワークに出発。

 本日の目的地は巨石文化に驚かされるサン・ミゲル礼拝堂(教会)、シモン・ボリバル記念館、そしてゲルニカの議事堂とバスク博物館。
 
 
 1時間少々で Arretxinaga のサン・ミゲル礼拝堂(教会)San Miguel de Arretxinaga, Markina-Xemein に到着。
 
 
 礼拝堂の中には巨石が祀られ(!)ていた。バスク全土で400以上あるこうした巨石記念物は、ケルト人到来の時期はおろか、ピラミッドすら建っていない紀元前4000年から3500年ごろに作られたものという。
 
 
 礼拝堂の前庭は改修中であったが、伝統スポーツ「石引き」の走路があり、それに使用される石も片隅に置かれていた。
 
 
 500kgはあろうこれらの石を引く牛もたいへんだろうが、短く狭い走路で牛を操る人間にも当然高い技術が求められるであろうことは容易に想像できる。
 

 この写真からはよく分からないがこの礼拝堂は正六角形の建物だった。 
 
 
 11:15 シモン・ボリバル Simon Bolivar 記念館を見学。
 
 
 シモン・ボリバルは、19世紀初頭にスペインの圧政から南米諸国を解放した革命・思想家。ベネズエラ出身の英雄。「南アメリカ解放の父」ともいわれる。

 彼が独立運動に関わった国は、スペインの植民地ヌエバ=グラナダ副王領から独立したコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ボリビアからペルーにおよんでいる。それゆえ、ボリビアやベネズエラの国名をはじめとして、コロンビア、エクアドル、ベネズエラの国際空港にも彼の名前を冠せられているほど。その影響の大きさが知れる。
 
 

 ボリバル家は、16世紀にこの地ビスカヤからベネズエラに移住したバスク人の家系であった。ボリバルはバスク語で「粉挽き場のある谷」もしくは「水車のある肥沃な土地」を意味するという。
 
 記念館はビスカヤ県のZiortza-Bolibarにある。
 村の中央にある彼の名を持つ小さな広場には、その胸像のレリーフが嵌め込まれた記念碑が建っていた。
 
 
 12:40 ゲルニカ議事堂を見学。ゲルニカの町はボリバル記念館のあるZiortza-Bolibarから北西に車で40分、ビルバオの中心部からもやはり40分程度の距離。 

 9年ぶりに再び仰ぎ見た天井のステンドグラスは相変わらず美しく、観るものの目を楽しませてくれる。 
 
 
 このゲルニカの木は4代目にあたる。バスクでは古くからこの樫の木の下で色々なことが議論され、決定されたという。

 ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だったとも言われている。
 
 
 すでに「第4日目(2016/09/07)午後」でも触れたが、スペイン内戦中、反乱軍のフランコ将軍は膠着状態となった戦局を転換させるために、スペイン北部の工業地帯であるバスク地方への侵攻を企て、ドイツ空軍に爆撃を要請した。

 1937年4月26日ドイツ義勇軍航空部隊「コンドル軍団」にイタリア軍機も加わり、ゲルニカ空爆が実行された。攻撃機にはユンカース改造型爆撃機の他、新鋭機のハインケル爆撃機、メッサーシュミット護衛戦闘機も実験的に投入されたという。

 この無差別爆撃によって市街地の 25% が破壊され、死者の数は 200人以上を数えたとする資料もある。
 こうした戦略爆撃は、第1次世界大戦中の1915年、イギリス本土に対してドイツ海軍のツェッペリン飛行船によって行われたのが嚆矢とされる。しかし、一般市民と都市を標的とした戦略爆撃の被害規模は、このゲルニカ空爆以降急速に拡大していく。

 ゲルニカ空爆の翌年(1938)に開始された日本陸海軍による重慶爆撃、1945年2月のドレスデン爆撃、同年3月の東京大空襲、そして同年8月の広島・長崎への原爆投下へと時を経るにしたがってその犠牲者数は増加し続けた。

 空爆をまぬがれた議事堂に隣接するサンタ・マリア教会の壁面には黒くすすけた石が一部使われており、爆撃による崩壊後に再建された過去を物語っている。
 
 
 議事堂には図書館も併設されている。
 
 
 13:45 レストラン Lezama にて昼食。Taberuna(レストランの意)の文字が滑稽。
 

 大量のデザート(これで一人前!) 
 
 
 Taberunaの周りで遊ぶ子どもたち。
 

 ゲルニカのマンホール 4枚 
 
 
 サンタ・マリア教会から北に150mほど歩くと、San Juan 通り とPedoro de Elejalde 通り Allende Salazar 通りの三叉路に出る。San Juan 通りの突き当たりにあるのが「ゲルニカ」の壁画。

 パリでゲルニカ空爆を知ったピカソは、ほぼひと月で「ゲルニカ」を完成させた。パリ万国博覧会(1937年)スペイン館が7月12日に開館すると、「ゲルニカ」はその正面に展示された。ピカソはこれをスペイン共和国政府に寄贈した。
 
 その後長く「ゲルニカ」はニューヨーク近代美術館にあったが、フランコの死(1975年)によって独裁体制が終わりを告げると、1981年10月にマドリードのプラド美術館に入った。
 
 
 15:50 バスク博物館 Euskal Herria MUSEOA を見学。

 写真は博物館の裏口
 
 
 正面入り口。入り口の上に掲げられた横断幕は「ゲルニカの木ある場所」という展示が行われていることを告げているようだ(意味を尋ね損なったので個々の単語をたよりに推測)。

 右下に見える1366という年号は、ビスカヤ貴族のドン・テーリョによってゲルニカの町が建設された年を示している。すでに触れたように、ゲルニカは代々のビスカヤ領主(ビスカヤ伯)がその称号を受ける前に訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓う場所となった。
 
 
 展示物で興味を引かれたのがこの石像。しかし、ここでも質問をし損ねたので、これがいったい何であるのかは未だに分からないまま。
 
 
 ビスカヤ貴族の「家紋一覧」であろうか。この中の20個近くにゲルニカの木が描かれているのが興味深い。
 
 
 19:20 現地の友人たちに招かれている T さんと別れたのち、N さんと二人で昨日に引き続きもう一度 Guggenheim Bilbao Museoa を訪れる。

 おそらく有名なアーティストの作品なのであろうが、不気味な(「悪趣味な」といって良いかも知れない)蜘蛛の造形。
 
 
 夕日に映える美術館の建物。
 
 
 20:30 途中スーパーマーケット Eroski にて買い物し、ホテルまで徒歩にて帰る。





 2016年11月15日
 第5日目(2016/09/10)

 08:30 ホテルを出る。地下鉄にて中高教員のアリチ先生夫妻と待ち合わせたGobela駅へ。
 
 
 アリチ先生の車に乗り込み、ネルビオン川に架かる世界最古の運搬橋であるビスカヤ橋を渡る。このビスカヤ橋はビスケー湾に面した河口付近にあって、ポルトゥガレテ地区とゲチョ地区を結んでいる。
 
 
 ポルトゥガレテに渡って高速道路A-8にのり、途中アリチ先生の友人のお医者さん夫婦と合流し、一路アルタミラ方面に向かう。
  
 
 12:00 エル・ピンダル洞窟 "EL Pindal" Cave(Cueva del Pindal)見学。(アストゥリアス州)

 高校時代に世界史で学んだアルタミラ洞窟の壁画は、カンタブリア州にある。1985年世界遺産に登録されている。2008年になって、スペイン北部にある他の16の洞窟とともに、このエル・ピンダル洞窟も世界遺産に追加されたことで、その名称も「アルタミラ洞窟とスペイン北部の旧石器洞窟美術」と改称されている。
 

 エル・ピンダル洞窟はアルタミラ洞窟よりさらに50kmほど西に位置し、アストゥリアス州にある。洞窟の長さは約300メートルほど。洞窟は海岸にそそり立つ崖の中ほどにある。 
 
 
 アストゥリアス州にはこの他に4洞窟がある。
 これらはいずれもおよそ紀元前35,000年~11,000年、旧石器時代の洞窟といわれている。
 
 
 洞窟内の壁画を劣化させないために、一日に洞窟に入ることのできる人数や、滞在時間が厳しく制限されている。
 
 したがってストロボ不使用ですら写真撮影は御法度である。一眼レフやビデオカメラ持参で出かけたが、無駄骨に終わった。入り口には鍵がかけられていて、かってに洞窟内に入ることはできない。
 
 
 下の写真は見学の際に配布されたパンフレットに掲載されていたもの。
 

 アリチ先生は丘の上に、洞窟ではなく露出した岩絵があるのでそれを見せてくれようと、山道を車で上ろうとするが、予想外の悪路のために断念。

 実のところ、「歩いて登ると1時間ほど・・・」というアリチ先生の言葉に怖じ気づいて、車で登ることをリクエストした私が悪いのだが、彼らの「1時間ほど」は私たちの2時間に匹敵するのだから。 
 

 14:44 昼食(私たちの感覚だとずいぶん遅い昼食だが、スペインではこれが普通のようだ)

 この地方の名物料理3品
 林檎の上に山羊と牛のチーズをのせて焼き上げたパイ・・・濃厚。 
 
 
 豆のスープ・・・美味。
 

 米を牛乳で炊いたおじや・・・甘い。 
 

  18:35 鉄鉱石の鉱山見学。
 すでに触れたが、バスクは昔から製鉄で栄えた。

 その鉱山もずいぶん前に廃坑となったのだが、今は見学施設として蘇っている。
 案内板が往時を物語る。 
 

 鉄鉱石を運んだ新旧トロッコが屋外展示されていた。
 比較的新しいタイプ 
 
 古いタイプ
 
 
 19:10 お医者さん夫妻と別れ、フニクラに乗って下山。
 

 麓でアリチ先生と奥さんにも別れを告げてホテルに向かう。 




2016年11月16日 
第6日目(2016/09/11) 

 05:40 ビルバオ空港を 07:40 発の便に乗るため、早起きしてホテルをチェックアウト。  
        午前6時少し前にもかかわらずこのように街はまだ真っ暗。
 
 
 06:30 モダンなビルバオ国際空港の建物。早朝だからかロビーの旅行客はまばら。
 

 09:20 1時間40分ほどのフライトでシャルル・ド・ゴールに降りる。
        パリで用事のあるNさんとはここで別れる。この後は来た時と同じく T さんとの二人旅となる。 
 

 15:00 予定通り13:45にシャルル・ド・ゴールを離陸。
       暇つぶしにながめていたナビの画面。
       ヴィルヘルムスハーフェンの文字が見えるので、現在位置はブレーメンの上空あたりか。
       北東に進路をとって飛行中。とすれば、画面右側前方はハンブルクになるはず。
       上辺のメッセージは関空まではまだ9740kmもあることを告げている。 
 
 
 09:38 (12日)予定通り08:30に関空に着陸。空港ロビーには T さんの奥さんとお嬢さんがお出迎 え。三人に別れを告げ、JR阪奈線で大阪へ。
東岸和田の駅だっただろうか、車窓から南海空港特急「ラピートα」のユニークなシルエットが見えた。
 

 短かったがとても充実したバスクの8日間だった。知的刺激もたくさん受けた。
そしてスケジュールがゆったりしていたこともあるだろう、9年前とは違ったバスクの空気と香りを存分に味わうことができた。

 セミナーそのものは言うまでもなく、現地での活動のプランニングから案内まで一切お任せしてしまい、前回に引き続きたいへんお世話になった T さんに心から感謝している。

 また、今回思いかけず学生寮以来となる40数年ぶりの共同生活を経験して、懐かしさとある種の感動を呼び起こしてくれた N さんにもお礼を言っておかねばならない。ありがとう。 

最後の最後までおつきあいいただき、たいへんありがとうございました

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