津軽巡礼行(番外編)

 
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 2017年07月14日         「津軽巡礼行」番外編(1) 

 先週末(2017年7月6~8日)に津軽半島を訪れました。「津軽巡礼行」と称するこの催しは、これまでスポーツ史学会のシンポジウムや21世紀スポーツ文化研究会(以下ISC・21)の月例会にもたびたびお招きしている文化人類学者 I 先生の企画によるもので、ISC・21の仲間が参集しました。

 この「巡礼」には、昨年2月に逝去されたISC・21主幹研究員稲垣正浩先生への恩義と想いを新たな方向へと導き、スポーツや身体をめぐる道の「発見」へとつなげていこうという意味が込められていました。

 新青森駅を起点として、津軽半島の「聖地」を巡拝しながら、それぞれの地でゲストの先駆世代、新進世代の代表的舞踏家=ダンサーの方々の印象的な舞踏をまぢかで鑑賞する、濃密な1泊2日を堪能することができました。

 これについては後日、ISC・21月例会でも反芻され、文字にも起こされるでしょうから、このブログでは「巡礼」そのものでなく、個人的な「余白」の部分を報告することにしましょう。

 「巡礼」を終えた翌日、家路につく電車の出発までの数時間を利用して、青森駅周辺を散策してみました。
 下の写真は青森-函館間の鉄道連絡船の役目を1988年で終え、今はメモリアルシップとなっている「八甲田丸」。
 
左の橋は「青森ベイブリッジ」、そしてその向こう側に見えるえんじ色の建物はねぶたの家「ワ・ラッセ」。

 
 

 「八甲田丸」は青森・ウオーターフロント「青い海公園」から撮りました。公園の海側遊歩道はコンクリートや石でなく木製で、靴底へのあたりが柔らかく、心地よく散歩ができます。

 ここでは帆船の舵輪をモチーフとしたものなど、いくつかのオブジェを楽しむこともできます。その中に少し変わったオブジェがありました。

 それは細長い柱の上に立つ二人の幼い子が、大きな板(?)を抱えており、板の端からは鳥が飛び立とうとしているというブロンズ像でした。変わっていたのは二人の足が(ブロンズではなく)本物の「赤い糸」で結ばれていたことです。

 
 

 「赤い糸」といえば・・・。太宰治の故郷は北津軽郡金木村(現在は五所川原市で、自家用車なら青森駅から西へ1時間ほど)でした。彼はおそらく多くの青森県民が誇りにしている大作家ですから、このオブジェがここにあって何の不思議もありません。

 そんなことに思いをめぐらしていると、私が大学1年だった頃、筑摩書房から『太宰治全集』全12巻+別巻が刊行され始めていて、当時熱烈な太宰ファンだった私はその配本を待ちかねて買い求めた記憶が蘇ってきました。

 2年前の引越でどこに片付けたのか分からなくなっていた全集を、およそ50年振りにやっとの事で探し出しました。目当ての「思ひ出」は全集の第1巻に収録されていました。少し長くなりますが、とても懐かしいので主人公の治が「赤い糸」について、同じ旧制青森中学に通う弟に青森港の桟橋で語る部分を引用してみましょう。

 「秋の初めのある月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話し合った。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に目に見えぬ赤い糸が結ばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがとんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない。さうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまってゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちに帰ってからもすぐ弟に物語つてやつたほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳を傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄を履いて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかわしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に目をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡つてくる連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮かんで出た。」(太宰治全集1 筑摩書房 昭和43年10月30日初版第7刷 p.47ff.)
                                                        つづく
 



2017年07月17日         「津軽巡礼行」番外編(2) 
  ピラミッドのような青森県の観光物産館「アスパム」を左手に見ながら、木製の遊歩道まで戻ります。
 
 遊歩道をそのまま道なりに歩を進めると、ねぶたの家「ワ・ラッセ」に行き当たります。
芸術的な造形の回廊がとりまくモダンな建物が「ワ・ラッセ」でした。
東側から時計回りに建物を半周してみました。 
 
 建物の南西かどにある入り口から2Fに上がり、入場券を購入。 
 

 ねぶた制作者を紹介する「名人コーナー」では、椅子に腰掛けてゆっくりモニター画面を眺めました。この「ゆっくり」には、青い海公園の散策のせいで少し疲れた脚をいたわる意味も。

 ホールにはいくつかの巨大なねぶたが展示されていました。

 近くで見上げると、そのすごい迫力に圧倒されます。
 
  
  ねぶたの家「ワ・ラッセ」の全景はこんな様子。

 建物前にある交差点から北東に向いて撮りました。
 




 2017年07月22日         「津軽巡礼行」番外編(3)
 
 「出来島最終氷河期埋没林」の観察 

 最終氷河期埋没林は津軽半島西海岸の「七里長浜」と呼ばれる砂浜にあります。

 シジミの名産地十三湖からは、30kmほど南下したところで、近くにはベンセ湿原もあります。
 
 
  「七里長浜」
 

  出来島の最終氷期埋没林は、「ヴェルム氷期」(約8万~2万年前)の後期に、エゾマツなどの針葉樹が洪水などによって泥炭層に埋められてできたものです。樹木の幹や根は空気に触れることが無かったために腐敗せず土中に保存されていたのですが、間氷期の海面上昇により海岸が浸食された結果、その姿を現したのです。北欧の湖沼地帯の泥炭層から古代の木造船が発掘されたりするのと同じですね。

  「七里長浜」には10mほどの高さの垂直な断崖が海岸線間近に迫っていますが、その断崖の中ほどあたりに3万年前の樹木の幹や根をはっきりと見ることができました。
 
 
 埋没林が3万年前のものだというのはどうして分かるのでしょう。じつは約2万8千年前に鹿児島湾の「姶良カルデラ」の巨大噴火がありました。この時、上空高く舞い上がった火山灰は、はるか北方の津軽半島にも降り注いだのです。
 七里長浜の断崖の埋没林層の上部にも、この火山灰は厚さ数ミリの白色の層を残しています。このことから樹木が埋没した年代の「3万年前」という時期が推定されるのだそうです。

 埋没林を見学中に珍事が起こりました。

 一歩ごとに少しめり込む砂浜の感触を楽しんで歩いていたのですが、砂がなぜか不自然に前方に跳ね飛ぶのです。足下をよく見ると、左右の靴の内側から、なにやら水かきのようなものが出ていました。
 
歩くたびにこの「水かき」が砂を前方に飛ばしていたのです。

 急いで靴を脱ぎ、底を見てみるとソール部分が横にずれてとびだしていました。当日は快晴で、砂浜の表面温度はおそらく50℃を超えていたことと思います。そのせいで接着剤が溶けて靴底から剥がれ始めていたことに気づきました。
 このまま何もせず、事態が進行するのに任せていれば、普通の靴がダイビングに使う「フィン」のようになってしまう・・・ということで、思い切って剥がれかけたソールを引きはがしてしまいました。

 ちなみにこの珍事で判明したことがあります。横にずれたソールは左右とも内側に飛び出ていました。ということは・・・両足とも足底に外側から内側に力が加わっていたことを示しているのです。ひょんなところで自分の「がに股」を再確認したということです。
 
 
 左右の靴底からは、全部で五点の部品を取り去ることができました(なぜか奇数?)。幸いにもこれらの部品を取り去ってしまっても、靴底に穴があくようなことはなかったので、通常の使用に支障はありませんでした。ただ、外観に変化はないものの、穿き心地はカンフー・シューズのそれになってしまいました。
 
 
 海岸の熱砂に耐えることができず、旅の中途でカンフー・シューズに変わり果ててしまったこの情けないウォーキング・シューズが、帰宅後ほとんど時間をおかずに、市指定「燃やすごみ」の袋に投じられたことは言うまでもありません。




 2017年07月25日         「津軽巡礼行」番外編(4)
 
 
 今回の「津軽巡礼行」の宿舎は、五所川原市にある十三湖畔の民宿「和歌山」でした。夕食後、故稲垣正浩先生を偲ぶ映像( I 先生作成)と舞踏家の方々のコラボレーションで、素晴らしい時間を共有することができました。

 稲垣先生ご自身もさぞかしスクリーンから跳びだして参加したかったに違いありません。これについてはまた別の形で報告する機会があるものと思いますので、ここではごく個人的な体験だけを紹介することにします。

 
 
 翌朝、早起きして宿舎の近辺を散歩しました。上で述べたように、宿舎「和歌山」は十三湖大橋南東側のたもとにあります。宿舎前の道路(県道12号鰺ケ沢-蟹田線)に立ってみると、十三湖に流れ込む十三本の河川の一つ「せばと川」に架かる橋の傍らに「十三の砂山公園」を示す標識があるのに気付きました。

 
 
 学生時代以来の旧友で、今でも交流のある剣道の達人O君から津軽三味線の名手「高橋竹山」を教えてもらったのは、かれこれ40数年前のことでした。高橋竹山の太棹を巧みに操る繊細な演奏法や尺八、そして「語り」に触れ衝撃を受けました。入手したLP『津軽三味線組曲《十三潟》』を飽きずに繰り返し、繰り返し聴いたものでした。 

 でも、70年代半ばに名古屋郊外の短大に職を得た後、このLPはずっとラックの奥にしまい込まれたままになっていたのです。

 今回、十三湖に来て「十三の砂山公園」を示す道路標識を目にした時、LPのジャケットで見覚えのある、十三湖をバックに白杖を持ち、流木に腰掛けた高橋竹山の姿が、40数年の年月を経てまざまざと蘇ってきたのです。

これまで「十三湖」や「十三潟」を「じゅうさんこ・じゅうさんがた」と読んでいた私は、「十三の砂山公園」も「じゅうさんのすなやまこうえん」と読みましたが、I 先生から「十三の砂山」公園は「とさのすなやま」と読むことを、ここで教わりました。
 

 公園の入り口には、かつてのイベント会場の名残なのでしょうか、木製の板敷き遊歩道や半円形のステージ跡がありました。

 雑草に覆われて朽ちかけている傍らのベンチは、昨年豊橋美術博物館で観たアンドリュー ・ ワイエスの絵にでも出てきそうな雰囲気がありました。

 少し先に目をやると大きな石碑があります。その方向にしばらく進んで行くと、石の表面に刻まれた「十三の民謡 砂山之碑」の文字がはっきりしてきました。礎石の右端には黒御影石の歌碑もありました。

 
 
 

 このあたりの、どこからどこまでが「十三の砂山公園」なのか判然としませんでしたが、公園の名を刻んだ石碑や案内板が設置されていました。

 
 

 この案内板は、民謡「十三の砂山」成立の背景として、中世の頃には十三湊(とさみなと)が東北最大の商業港であったことにも簡単に触れていました。

 
 

 十三湊(とさみなと)については、宿舎での食事の折に、I 先生から網野善彦の日本海交通に関する著作の中にいくつかの記述があることを教えて頂きました。
 帰宅してから網野善彦の文献に当たってみたところ、『海と列島の中世』 (講談社学術文庫 2003) では、表紙に十三湖の空撮写真が使われていました。

 
 

 十三湊は今日では遺跡の名前としてしか残っていません。しかし、網野善彦によれば、大陸との交易も
含めて中世の日本海を舞台とした物資の流通はきわめて盛んだったようです。
 十三湊と十三湖の語源について、網野善彦は「土佐国の場合と同じく門狹(とさ)であり、 出入口 (水戸
口)が狭いことに由来する」(『海と列島文化 第1巻 日本海と北国文化』 小学館 1990 p.322 図版キャプション)と述べていま
す。

 
 




2017年07月26日         「津軽巡礼行」番外編 Appendix 
 ここまで「津軽巡礼行」の番外編を4つ報告してきました。
 このあたりで、とっておきの画像を紹介しつつ、このシリーズを閉じることにしたいと思います。

7月8日 12:30 「かもしか号」
 休憩のために立ち寄った外ヶ浜町の「風のまち交流プラザ TOPMAST」。蟹田港の岸壁にはむつ湾フェリー株式会社のカーフェリー「かもしか号」が船首を持ち上げていました。ここからほぼ1時間で下北の脇野沢港に行けるとのこと。

 
 

7月8日 13:10 「今津のホタテ貝殻」
 今津の海岸に打ち上げられていたホタテ貝の貝殻。表面の白い物体はどうやらゴカイの住処だった痕跡のようです。気味が悪いとも言えますが、なにやら抽象絵画に見えなくもないですね。
 
 

7月8日 13:40 「平舘燈台横のダイヤホーン式霧笛」
 国道280号線沿いの道の駅「たいらだて」に車を停めて、平舘燈台近くの松林まで歩き、そこで遅めの昼食。対岸の下北半島がすぐそばに見えます。

 初点灯が明治32(1903)年という平舘燈台の傍らに大きな霧笛のレプリカがありました。

 
 

7月8日 15:10 「集魚灯」
 砂ヶ森の小さな漁村。イカ釣り船が波打ち際から陸に引き上げられていました。その船に艤装されていた集魚灯。間近で観たのは初めてでした。

 
 

7月8日 17:10 「北限のサル?」
 竜飛岬から十三湖に向かう国道339号。「北限のサル?」に接近遭遇。一般的には下北半島に住むニホンザルが世界的に見ても北限とされています。とすれば緯度的にそれほど違いの無い津軽半島の猿たちも「北限のサル」の仲間と見なせる?

 
 
「津軽巡礼行」番外編はこれにて終わり。 

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