「わたし、きょううれしいので、やっちゃいます!」 まさか仲人に歌のリクエストがくると思わなかった。 突然、まさかの指名。 でも元アイドル歌手のみづえさん(四〇)は迷わずマイクを握った。 「青菜君のために!」 薫風にびんつけ油のにおいが増す4月末。 披露宴会場で、都はるみのヒット曲「夫婦坂」を熱唱する姿があった。 1985年、大関若嶋津(現松ケ根親方)と結ばれた高田(現日高)みづえは、 NHK紅白歌合戦にも7回出場した芸能生活に終止符を打った。 引退した若嶋津が三人の内弟子を連れて二子山部屋から独立したのが90年2月。 以来、マネージャーとして部屋の歴史を共に刻んできたのが元力士の青菜恭孝(三七)だった。 松ケ根部屋が産声を上げるころ、既に角界を去っていた青菜さんは生まれ故郷の愛媛に戻っていた。 長かった若嶋津の付け人時代。 「ぜひ、力を貸してほしい」。 親方が愛媛に頭を下げに行ったほど、実直さにほれ込んだ男だった。 午前5時には起床。 まわしをつけて若い衆にけいこをつけ、親方がいなければ親方代わり。 ちゃんこ場も仕切る。 ちゃんこの作り方も分からず相撲部屋のおかみさんになったみづえさんにとっても、頼れる存在だった。 2年目の晩春。 脳の血管がつまり激痛に襲われた彼が1ヶ月間、入院した。 みづえさんができることはお見舞いに駆けつけることだけ。 「おかみさんが来てくれてた。それも毎日。恐縮したけど、うれしかった」。 不安に覆われたマネージャーの心に宿ったぬくもりは今も生きていた。 98年、今度はくも膜下出血の危険性が発覚。 自覚症状はなかったが、みづえさんらは手術を勧めた。 マネージャー不在の地方場所では親方自らがちゃんこの買い出しに走った。 部屋にぽっかり空いた穴。 ある時、親方がつぶやいたことがある。 「アイツはおれの右腕だよ」。 みづえさんは思った。 「それならわたしは左の腕!」 部屋を興して丸9年がたった一昨年、松ケ根部屋に春が訪れた。 部屋を持った親方やおかみさんなら、だれもが待ちわびる関取誕生の時。 不思議なもので、ひとつの春はもうひとつの春を呼んでいく。 あっという間に、4人の“わが子”が関取に昇進した。 その度に、みづえさんの心も躍った。 ただ、元気な姿に戻ったマネージャーの結婚には別の喜びがあった。 「親心なのか、姉心なのかは分からない。でも一番心配した人だから」 夫婦で彼のためにずっととっておいた初の仲人。 部屋を支える陰の存在が、生涯のパートナーと脚光を浴びている。 ・・・冬の木枯らし 笑顔で耐えりゃ 春の陽も射す 夫婦坂・・・ 力士にけがが多く、苦しかったころにもよく口ずさんだ歌。 病室のベッドに横たわるマネージャーの姿がつい最近のことのように思い出されていく。 うれし涙がこぼれ、もう声にはならなかった。 |