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牟呂用水
明治21年に賀茂用水を延長し牛川から新川を通り牟呂・神野新田に至る。牟呂用水は朝倉川の上を渡り、昭和の中頃まで木製の開閉式井堰で水量を調整していた。用水の井堰から朝倉川に放水する水の音と河の上の橋のさまを通称「ダーダー橋」(境橋)と呼ばれ、今も面影を残し親しまれている。

石灰河岸(いしばいかし)
現在の牛川渡船場から下流100m程のところに石灰を江戸や、大阪方面に舟積した河岸があった。100石船が着くなど後藤河岸とも呼ばれた。江戸時代から、近くの後藤庄五郎家が牛川鉱山の石灰岩で、石灰(いしばい)の製造を行っていた。焼成炉跡は昭和の末ごろまで見られた。後藤庄五郎家近くに取締役人の詰所があり、「御用」の高張提灯が大正の頃まで掲げられていた。

芋河岸(牛川河岸)
牛川渡船場から1キロメートルほど下流左岸に甘蔗の積み出し専用の河岸があった。文政年代から明治の中頃まで沖野をはじめ牛川、小鷹野など近郷で採れた甘藷を名古屋、伊勢の桑名、四日市方面に積み出された。牛川河岸とも呼ばれ、当時は豊川の舟運は盛んで多くの船は吉田からが新城(山の湊)へ行き交う要衡であつた。

運送道
牛川鉱山から石灰岩を運ぶ道を「運送道」と呼ばれた。鉱山の繁忙期には発破職人3〜4人、砕石職人、運送は馬車(大台)で3〜4台、専業で従事していた人もいた。区画整理前の運送道は牛川鉱山から馬車で現在の忠興二丁目交差点に出て西に曲り、現在の三菱レイヨンのグランド北側を牛川中郷、牛川通りに出て南に下り後藤庄五郎家方面に運ばれた。昭和初期に牛川小学校の生徒が通学の帰り道、大台車に便乗した思い出を語る人もいる。

ヲイホテの沢(をいほて)
古くは、西小鷹野4丁目遊歩公園付近から青陵地区市民館、牛川薬師へ向かって忠與地区の水を集めた「をいほて川」の沢谷があった。面影を残しているのは遊歩公園北側にコンクリートで固めた深い水路がみられる。このあたりの北岸の南ダレは日当たりも良く、沢上に湧水もあり昔から稲作の適地であったようで、高台の水田から牛川地内最古(をいほて遺跡)の土器が発見された。この地は紀元前100〜200年の頃は住居地として栄えた事がわかる。住民の話では、子どものころ谷も深く、水量も多いオイホテ沢で魚採り、水遊びをしたことを思い出す人もいる

青陵中学校
この敷地の一部は元豊寿稲荷の境内地であったが、牛川熊野社に合祀され空地となっていた。大正13年、愛知県が東三河に中学校新設の計画を知り当地に誘致を計画した。石巻山を仰ぎ、豊川の清流に臨み絶好の教学の地であり、大正15年4月に地権者の了解を得て愛知県第二中学校が建設された。昭和22年4月6/3制に移行、昭和23年10月青陵中学校と校名変更、昭和25年3月豊岡中学校分離、校区分割と編入を繰り返し平成9年東陵中学校を分離して現在に至っている。

桜丘学園

三河富士
丘小学校の校庭から東の方を見ると200〜300mほどの山並みが富士山のかたちに見える。地域の人にその山のなまえを尋ねても「わからない」とのこと。郷土史などに部分的に「高山」「法言寺山」としてあった。めでたい物のたとえに、‘一富士二鷹三なすび’とある。鷹丘校区は鷹にまつわる地名と富士があり、美味しい野菜も採れる。この地で、めでたい夢を見たいものである。

青陵街道
鷹丘・牛川校区は青陵中学校付近を扇の要とする北東に広がる扇状台地である。古くはこの土地に入るに、朝倉川、神田川、大きく豊川で隔絶されていた。舟による利便性はあったが、陸路の通過に難渋した土地柄であった。先に整備されたダーダー橋、石灰岩をダンプカーで運んだ小鷹野橋、その後、青陵街道が整備され御園橋、森岡坂の改修で幹線道が完成した。この開通は地域の市街化を急速に進める基となった。この街道の街路樹は夏ミカンである。青陵中学校の生徒が植えたもので、この植栽、収穫などの取り組みが豊橋文化奨励賞を受賞するなど話題もある。

朝倉川の橋;
多米橋、蝉川橋、小鷹野橋、下蝉川橋、井原橋、東田橋、二連木橋、御園橋、御弓橋、西郷橋、境橋(ダーダー橋)、朝倉橋、飽海橋、しろした橋(木造)、下流豊川に出る
三輪川の橋;
三口池下より1無名橋、2無名橋、海川橋、伝六橋、高橋、寺前橋、上荒木橋、幹状線新橋の工事中、荒木橋、宮前橋、森岡橋(青陵街道)
神田川排水樋門(牟呂用水、神田川)、御茶屋橋(青陵街道、神田川)

牛川渡船場
今からおよそ280年前に吉田、新城の間に川舟の便が開かれ、明治大正にかけて渡船場が設けられた。渡船場は上流から数えると、乗本、日吉、庭野、一鍬田、東上、金沢、賀茂、上三上、三上、天王、行明、暮川、牛川の13ヶ所あった。橋が架けられ次第に姿を消し、現在、牛川渡船場の1ヶ所となり、長閑な地域の風物詩となっている。