I 牛川原人の碑
現地の碑文に解説あり。
昭和32年(1957)旧牛川鉱山で骨片が発見された。約10万年前の原人の上腕骨であると東京大学名誉教授鈴木尚氏が鑑定した。

J 牛川鉱山跡地

文政4年(1821)吉田藩主松平信順が小鷹野で鷹狩をしたとき、放った鷹がとまった岩が石灰岩であった。この石灰岩に目をつけた藩主は嵩山の後藤家に牛川で石灰を焼くよう命じた。以後牛川で焼かれた石灰は、江戸や大阪におくられた。廃藩後は後藤家の自家営業となり昭和になり小野田セメントに供給するなど幾多の変遷を経て昭和45年(1970)採掘を停止した。その後現在の住宅地に変貌した。

K 銭亀池(殿様池)
正保(1644)年間、吉田藩主松平忠知らは、産業開発に力を入れ、瓦町新田、向山大池、平川水神池などと同時に銭亀池も築かれた。その後 忠興新田の開発を行なうなど貞享3年(1686)の忠興村新切検地帳に83石と記述がある。溜池の呼称は感謝の意味を含め、殿様池と呼ばれていた。

L 忠興八幡神社
現地の碑文に説明あり。
祭神は誉田天皇、天照大御神が祀られ、昭和32年(1957)には野川神明社を合祀した。忠興の地名の由来となる、細川幽斎ゆかりの厄除け一宝観音を守護佛としてお祀するなど、忠興八幡神社として住民の崇敬を集めている。10月の‘忠興まつり’の山車は見ものである。また八幡神社境内は市内を一望できる高台で、屈指の景勝地である。

M 小鷹野神明社
現地の碑文に説明あり。
元禄(1690)年以前、天照大御紳が祀られ、小鷹野新田開発時に仁木氏によって創建されたと言われている。現在は東・西小鷹野地区の氏神様となっている。

N 鎌倉街道山道北口
源頼朝が1190年(鎌倉幕府が開かれる2年前)京都に上洛する際利用された。街道には二川から多米を経て、乗小路峠・小鷹野の2つのルートがあった。こあたりは乗小路峠から忠興に至るルートである。此処を過ぎ石巻の和田、当古から豊川に抜けたとされている。

O 鎌倉街道乗小路 山頂
街道の峠付近は切通道を残し、南に(高山学園)方向に通ずる。西尾根は乗小路峠山頂(135m三角点)に至る、眺望はすこぶる良好である。

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