東三河、近代のお話し
 


■コレラと小原竹五郎 2008/12/05
「中村道太と小原竹五郎」大口喜六
■吉田藩から豊橋藩へ 2009/01/03

【三河武士がゆく】

 
■コレラと小原竹五郎 2008/12/05
2009/02/15追記

江戸時代の幕末に流行した恐ろしい疫病であるコレラは、明治に入ってからも勢いはおさまらなかったのです。

明治十二年(1879年)と明治十九年(1886年)は猛威をふるい、感染者・死亡者ともに10万人以上だったそうです。そして、感染者数は明治十二年、死亡者は明治十九年が多いのだそうです。

この地方では、明治十九年、住民をコレラから守るために殉職した豊橋警察署田原分署の江崎邦助巡査と夫を看病して亡くなった妻じうさんのお話しはよく知られており、田原市立衣笠小学校では子どもたちが劇を演じて伝えているといいます。

ほとんど知られてはいませんが、明治十二年流行の年に現在の豊橋市船町でも命をかけて人のために働いた人のお話があります。この年の七月にコレラが流行して下地や船町(ともに現豊橋市)では死者が出ています。

 
羽田野敬雄の「萬歳書留控」より

明治十二卯七月コロリ悪病流行下地船丁等ニモ死人有之ニ付官ヨ
リモ厳敷予防ノ御手当有之氏子共も祈念有之
             
                (『幕末三河国神主記録』)

また、
山澄和彦氏の「浄慈院所蔵『多聞山日別雑記』の解題について」(『豊橋市美術博物館研究紀要』第十五号、2007年)によれば、

明治十二年八月九日の「多聞山日別雑記」に以下の記事があるそうです。

「コレラ病流行。下地舟町辺コロコロ死スル者有」

※浄慈院(豊橋市)は羽田八幡宮に隣接。
 

感染をおそれた人々は、病死者に触れることを嫌いその運搬にも支障を来すような状態でした。町の用係であった大口喜六は運搬役を募りますが応じるものはいません。そのとき、町内の嫌われ者であった小原竹五郎が立ち上がったのです。

結局竹五郎は、コレラに感染して命を落としてしまいます。当時の渥美郡長、中村道太は彼を見舞いました。後にお墓が龍拈寺に建てられましたが、墓碑銘を揮毫したのは中村道太でした。

当時用係であった先代大口喜六の子で衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六氏が著した『心月記』に詳細が見られますので、少し長くなりますが全文を掲載させていただきます。

 

「中村道太と小原竹五郎」

明治十二年の夏であった。我が郷里豊橋に虎列刺(※コレラ)病の流行せしことがある。さうして自分の住所である船町にも数名の患者を出したが、伝染の烈しき、雇傭に応ずるものなく、屍体の運搬に就ては、容易ならざる困難があった。当時自分の父は、町の用係を勤めて居たが、その頃の用係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話に任ぜねばならなかった。

その頃、我が町に小原竹五郎と云ふものがあったが、常に酒を被りて狂暴の行為多く、独身にして産を治めず、人これを綽名して「オボ竹」と云ひ、町内での嫌はれものとなつて居た。

然るに彼はこの非常の時に方り、我が父の勧誘に応じて決然として立ち、進むで屍体の運搬夫となつたが、その動作の勇敢なる、見るものをして驚嘆せしめた。而も彼は遂にその病に感染して療養効なく、職に殉ずるに至つたのである。

その頃中村道太氏は、初代渥美郡長として、我郷里にあられたが、深く竹五郎の侠気に感じ、自ら病床に就て、彼を慰問せられた。我が父も亦たしばしば彼を見舞つたが、その病舎は、石塚の庚申堂の一隅であつた。

竹五郎死亡の後、明治十五年六月廿日を以て、其墓が建設せられたが、中村氏は自ら筆を揮つて、それに「奇特者小原竹五郎之墓」と大書せられた。それは方一尺二三寸、高六尺内外の石柱であるが、其側面には碑文が刻され、今猶ほ龍拈寺の墓地内に現存する。

昭和二一、二、二一

                (大口喜六、『心月記』)
※は引用者の註
 

 
コレラの歴史に関しては、東京都の小平市立図書館ホームページの以下のページを参考にさせていただきました。

トップページ > 地域資料 > としょかんこどもきょうどしりょう もくじ > ナンバー22 > コレラの歴史
 

東三河、近代のお話し
 

【三河武士がゆく】