三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか

(1)再考、三州吉田宿船町の御札降りと船町文庫

平成二十一年(2009年)六月二十一日
 

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要
【三河武士がゆく】
 

《もくじ》

1.三河国吉田宿船町の御札降り
2.船町文庫(龍運寺)
3.佐藤閑翠翁と『三州吉田船町史稿』
4.「渡船場諸雑記」と船町の御札降り
5.『豊橋市史』にみられる船町文庫資料
6.旧愛知県史資料「渡船場諸雑記」について


※資料から引用するにあたって、ワープロにない旧字体・略字・合字などは、新字体や仮名文字に改めましたので、本書からの資料の引用は避けてください。

※引用資料・参考文献は、必要に応じて文中にデータを入れました。

※年号と西暦の併記について。例えば、王政復古の大号令は、西暦では1868年ですが、明治五年の改暦以前の場合、便宜上、慶応三年(1867年)と表しています。
 
《吉田宿及び周辺の、御札降り・御鍬祭関係地図》
PDF版の場合、拡大表示をすると、文字がわかりやすくなります。

※慶応三年当時の推定地図です。慶応三年当時、吉田大橋は大水による流失のため存在せず、船町・下地間の渡船がおこなわれていました。
※「守上」・「守下」は、当時の土地の名称であり、町名ではありません。
 
1.三河国吉田宿船町の御札降り

江戸時代、幕末にあたる慶応三年・1867年の吉田宿船町(愛知県豊橋市)における御札降りは、船町の郷土史家、佐藤又八氏の『三州吉田船町史稿』(昭和四十六年・1971年)により、知られていましたが、『湊町町史』にみるように、空襲によって原本が焼失したため、確認ができず、学問の分野で取り上げられることはほとんどありません。

 














 
■ええじゃないか騒動

第十二節 ええじゃないか騒動

 幕末の慶応三年(一八六七)、伊勢神宮はじめ諸宮のお札降りによる『ええじゃないか騒動』は全国に燎原の火のように伝播した。
 この発端の記録は、佐藤又八翁の船町史稿が最初の記録である。
 (中略)
(史学会の定説は、佐藤又八翁の船町史稿が龍運寺保管の渡船場諸雑記の筆写であり、原本が昭和二十年の豊橋大空襲により焼失しているため、これより二十二日後の七月二十四日に牟呂村大西の多治郎方竹垣に置かれてあったお札のことが牟呂八幡宮神主の森田光尋の留書(備忘録)に記載されて現存しているので、これをお札降りの最初としている。)
(後略)

『湊町町史』、湊町町内会、平成四年・1992年、23頁〜24頁

私の考えは、船町の御札降りを、ええじゃないかの発端とする見方とは異なります。また、今回は、御札降りの発端やええじゃないかの発端を求めることが目的ではないことを、念のため最初に書いておきます。

筆写資料があるのに、原本を確認できないとなぜ事実として認められないのかという素朴な疑問を持ったことが今回のテーマに取り組むきっかけとなりました。その後、研究書を読み、原本が失われたことだけが、事実として認められない理由でないことがわかりました。他の同時代の資料によって事実が確認されるか、客観的にみて間違いないという状況証拠のようなものが必要なのだと。

私は、ええじゃないかや御札降りの知識はほとんどなかったのですが、昨年、別の調べもので、『三州吉田船町史稿』を見ていた時に、偶々御札降りの記事を見つけて興味を持ちました。手元にあった豊橋市の刊行書で少し調べたところ、意外なことがわかってきました。

 
  ■「ええじゃないか」









 

慶応三年(1867)の七月から翌年の春にかけて、「ええじゃないか」と呼ばれる民衆運動が広がった。七月十四日、吉田領内の牟呂村に伊勢外宮の御祓が一軒の屋敷の竹垣ぎわに降っているのが発見された。発見者の子どもがその夜急死し、その御祓に疑問を抱いた村民の妻も精神異常になり、翌日死亡するという騒ぎになったので村人はそれを神罰と考え、盛大な臨時祭礼を催した。このお札降りは、さらに周辺の村々にも拡大し全国へ広がっていった。
(後略)

『とよはしの歴史』、豊橋市、平成八年・1996年、179頁
 
  ■ 「ええじゃないか ええじゃないか」








 

ええじゃないかは、慶応3(1867) 年7月14日吉田(豊橋)宿近郊牟呂村大西(豊橋市牟呂大西町)での伊勢外宮や伊雑社の御札降りを契機として、牟呂村では手踊りや餅投げ神酒の振る舞いなど臨時の祭礼が行われた。この後周辺の羽田村・草間村・橋良村・吉田宿などでも次々と御札が降り、人々は揃いの衣裳をまとい、乱舞して宿村内の寺社へ参詣し祭礼を行い、狂言・手踊り・投餅・投銭・着飾った練り歩きなどが行われた。吉田宿での騒動は東海道を通じて東西へと伝わり(後略)

『豊橋百科事典』、豊橋市、平成十八年・2006年、93頁〜94頁
 
  ■ 「『ええじゃないか』発端資料」








 

「『ええじゃないか』発端資料」は、平成12(2000)年4月10日、豊橋市有形文化財に指定された。
(中略)
「留記」には、慶応3(1867)年7月14日、渥美郡牟呂村(豊橋市牟呂大西町)に最初に御札降りがあったこと、その後手踊りを伴う集団参詣、吉田宿など近隣周辺への伝播等が克明に記されている(後略)

『豊橋百科事典』、豊橋市、平成十八年・2006年、94頁

そこには船町の御札降りのことは書かれていなかったのです。

これはどうしたことかと、さらに、少し年代が溯りますが、『豊橋市史』も調べてみることにしました。

御札降り・御蔭参り・御鍬祭についての説明は、『豊橋市史』第二巻(昭和五十年・1975年、1023頁〜1026頁)と『豊橋市史』第三巻(昭和五十八年・1983年、1051頁〜1053頁)にありました。しかし、船町の名はみえますが、船町御札降りの日付は載っていません。第三巻では、「萬歳書留控」や「浄慈院日別雑記」が利用されているものの、『三州吉田船町史稿』はみられません。

これは、歴史的事実としては相手にされていないか、既に解決されている問題として扱われていることを意味しているのだと思わざるを得なくなりました。

しかし、ひとつ気になることがありました。吉田宿萱町に御札降りがあったこと、豊橋市がええじゃないか発祥の地ではないかとされていることは知っていましたが、牟呂八幡宮の「留記」については、まったく知りませんでした。そこで、もう少し詳しい情報を得るために、豊橋市中央図書館ホームページで、「ええじゃないか」を検索してヒットしたなかから以下の2冊を選んで読んでみました。

★『ええじゃないか始まる』、田村貞雄、青木書店、昭和六十二年・1987年
★『ええじゃないか』、渡辺和敏、あるむ、平成十三年・2001年

慶応三年の船町御札降りの時期が疑問視され、『三州吉田船町史稿』の著者である佐藤又八氏による誤写の可能性が指摘されていました。「留記」にあるように牟呂の騒動がええじゃないかの発端となったであろうことは頷けましたが、船町の御札降りの時期が疑問視されるだけの強い理由を感じることはできませんでした。

誤写は、珍しいことではありませんが、船町における御札降りとそれに伴う神事・賑わいは、非日常的なことです。年中行事でもありません。このような特異な現象の日付を筆写する場合、間違っていないか確認するのではないでしょうか。誤って写すことがあるのだろうかと思っていました。

そこで、御札降りとええじゃないかについてもう一歩踏み込むことにしました。しかし、先人の論考を読めば読むほど奥が深く複雑で、とても短い期間では調べきれないことがわかりました。歴史の知識だけでなく、民俗学の知識が必要なことも痛感しました。
 
2.船町文庫(龍運寺)

町の起源・船役・水運・吉田大橋・渡船など、船町に関する資料は数千点に及び、《船町文庫》として同町にある浄土宗橋本山龍運寺に保管されていました。龍運寺は町の行事で会所になることが多く、町の住人が集まる場所でした。しかし、太平洋戦争中、昭和二十年六月の豊橋空襲で龍運寺とともに焼失しました。

焼失前に他所へ移された船町文庫資料があったかどうかは、調べていませんが、原本が遺されている可能性をまったく否定できません。しかし、現時点で、私たちが目にすることができるのは、筆写資料となります。船町出身の政治家であり、郷土史家であった大口喜六氏は、『心月記』(蓊山著書刊行会、昭和二十六年・1951年)のなかで、吉田大橋関係の資料について、「一部が愛知県庁に残れるはずである」と書いています。この「一部」については、原本か筆写であるか明記されていません。また、愛知大学教授であった歌川学氏は、『三州吉田船町史稿』の「校訂者序」で、大山敷太郎氏が「近世の三河吉田湊」の執筆に用い、また、愛知県史・豊橋市史編纂資料としてごく一部が筆写され、一部の目録が現存するとしています。

豊橋市中央図書館で確認できた大山敷太郎氏の論考は以下のとおりです。

★「東海道吉田大橋の修理架換と臨時渡船」(『経済史研究』第三十四号抜刷、昭和七年八月・1932年)
★「近世の三河吉田湊」(『近世交通経済史論』、昭和十六年・1941年)

大山敷太郎氏は豊橋市出身の経済学者であり、立命館大学や甲南大学の教授を勤めました。船町文庫の資料について、郷土史家たちの協力を得たようすが、「東海道吉田大橋の修理架換と臨時渡船」の附記に見られます。

 
  ■「東海道吉田大橋の修理架換と臨時渡船」 附記












 

本稿依拠の根本史料は主として豊橋市船町公有のもの故、煩をさけて一々原拠を示さなかつた。この閲覧について、同町の佐藤又八、豊田伊三美、彦坂銀作の諸氏より賜つた御好意、及び白井一二氏が特に筆者のために「吉田大橋御普請御用船役帳」と題する有力な史料を恵送せられた御同情に対して、謹んで感謝の辞を捧げる。

なほ大口喜六氏著「豊橋市史談」が筆者に大なる示唆を与へられたことを深謝する。たゞ本稿説くところ若し誤あらばそはもとより筆者の誤解に基くものである。

『経済史研究』第三十四号抜刷、昭和七年八月・1932年
※豊橋市中央図書館には、抜刷がありますが、『経済史研究』についてはよくわかりません。
 

佐藤又八氏は『三州吉田船町史稿』の著者、豊田伊三美氏は船町の薬種商(伊勢屋)の豊田珍比古氏のこと(瓦北文庫)、白井一二氏は船町出身で、上伝馬にあった古書店「白文堂」の主、白井麦生氏のこと、大口喜六氏は豊橋町長・豊橋市長・衆議院議員を歴任した船町出身の政治家で、いずれも船町と関係がある郷土史家でした。

白井一二氏が蒐集した貴重な古文書類も豊橋空襲で灰になりました。資料の内容は豊橋市中央図書館にある『穂国文庫図書目録』で確認できますが、どの程度現存しているのか、または筆写されているのかを知りません。機会があれば調べてみようと思っています。
 
3.佐藤閑翠翁と『三州吉田船町史稿』

佐藤又八(閑翠)氏は、文久三年、吉田宿上伝馬に生まれ、外祖父である船町佐藤家の養子となりました。藩校時習館の教授を勤めた児島閑窓に漢学を学び、大野銀行副支配人を経て退職後、郷土の研究に専心し、多くの研究書を著しました。また、倉光設人(明治二十年生、豊橋日日新聞主幹)、近藤信彦氏(明治二十八年生、龍運寺住職)、那賀山乙巳文氏(明治三十八年生、三遠文化協会設立)、白井一二氏(明治四十年生、穂国文庫)、近藤恒次氏(明治四十三年生、橋良文庫)等、郷土史関係の後進を指導しています。

佐藤又八氏は終戦直後の昭和二十年九月七日に疎開先の三谷町(現蒲郡市)において八十三歳で亡くなりましたが、船町文庫の資料を整理・分類した稿本、「船町史稿」を作成していました。「船町史稿」は疎開していたため戦災を免れて、佐藤家に遺されました。この遺稿は、愛知大学教授歌川学氏の校訂を経て、昭和四十六年九月、遺族によって刊行されたのです。これが、『三州吉田船町史稿』です。

『三州吉田船町史稿』は、水上交通に関する貴重な資料として多くの論考に用いられています。本当に残念なことは、原本が失われているために確認ができないことです。また、『三州吉田船町史稿』は完結していなかったようで、「校訂者序」には、「更に河川・堤防編なども氏の構想にあったらしいが遂に未完に終わったのは真に惜しいことであった」とあります。

参考までに『三州吉田船町史稿』の目次を載せます。
 

























 
【目次】
 
序 近藤信彦
 
校訂者序 歌川学
 
船町史稿巻一 船役編
 
船町史稿巻二 吉田大橋編其一 
(元亀元年関屋土橋より弘化二年三月御見分まで)
 
船町史稿巻三 吉田大橋編其二 
(弘化二年四月見分より大正五年七月渡初まで)
 
船町史稿巻四 吉田川渡船編其一
 一、関屋渡船
 二、船町渡船
 (自宝永五年五月 至安政五年十月)
 三、弘化二年染矢氏記録
 
船町史稿巻五 吉田川渡船編其二
 一、船町渡船
 (自慶応二年七月 至明治二十六年六月)
 附録 当古川渡船
 
佐藤閑翠翁のことども 近藤恒次
 
4.「渡船場諸雑記」と船町の御札降り

船町の御札降りの典拠となる「渡船場諸雑記」は、船町文庫にありました。戦災により焼失して原本を確認することができませんが、船町の郷土史家佐藤又八氏が著した『三州吉田船町史稿』により、一部をうかがい知ることができます。

慶応二年七月二日未明・1866年、前日来の大雨による洪水のため、吉田川(豊川)にかかる吉田大橋が流失しました。吉田藩の家老・用人・奉行などが臨検にあたり、船町は渡船役として、翌日に渡船を開始できるように厳命されました。町内総出で渡船の準備を整え、翌七月三日の申ノ上刻(午後3時〜午後3時40分ころ)、渡船を開始するに至ったのです。

同年六月には、第二次長州戦争(長州再征)の戦闘が始まっており、人も物資も通行量が多く、戦時の対応として東海道の交通を止めることはできません。一刻も早く交通路の復旧が必要でした。

船町文庫には、この、慶応二年七月三日からの渡船に関する諸記録数百枚が残っていました。『三州吉田船町史稿』には、「慶応渡船記録」の「渡船二関スル諸記録文書目及注解」として次のように佐藤又八氏の説明があります。資料中の「渡船諸雑記」は、「渡船場諸雑記」のことと思われます。
 





 
一 慶応二年七月二日 渡船諸雑記 四ッ折帳一冊

本記渡船場川役人番所備付ノ帳簿ニテ、其当番ガ日々ノ出来事ヲ記シ置キタルモノ。間々参考トナル箇処在リ。後ニ抜萃シテ抄出ス。

『三州吉田船町史稿』、481頁

慶応度渡船の場合、川庄屋である船町庄屋の佐藤維淳や、川役人である組頭の過半が、安政年間渡船の経験者でした。このため慶応度渡船は、安政度渡船と内容において大差がなく、安政度渡船の詳細は記載済みであるため、慶応度渡船の内容を全部掲載することを避けて、主要文書や特筆するべき事項だけを採録しました。

したがって、慶応三年の記録は部分的な記載となり、船町御札降りの記事と前後の記事とでは次のように時間的隔たりがあります。佐藤又八氏は、船町の御札降りが特別なことであると認識して抄出したものといえます。
 





 
三月七日 朝ヨリ助郷四拾ヶ村寄集リ渡船場相越候趣聞(後略)
五月八日 御登リ御尊影御長持一掉 右ハ昭徳院様御尊影御用物也(後略)
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓(後略)
十月晦日 新銭町酒屋ヨリ出火ニ付 当一番助三番助四人出 本門七十斗焼失ス

『三州吉田船町史稿』、488頁〜489頁

三月七日は、吉田領の助郷一揆、五月八日記事中の、「昭徳院様」は将軍徳川家茂のことで、慶応二年七月に死去しています。次に六月二十一日の御札降りに始まる祭礼と賑わいの記事があり、次の記事は十月晦日(三十日)で、吉田宿新銭町の火事となっています。

「渡船場諸雑記」のなかの御札降りに関する箇所を全文掲載します。
 







 
慶応三年丁卯六月廿一日ヨリ伊勢内宮様御祓 猶又春日様 秋葉様御札所々へ降リ町内庄右ヱ門 彦助 久米蔵 源吉 神明之社渡船場六ヶ所へ降リ 二夜三日御備燈明ヲ献シ一日遊日御日待致シ 若キ者共俄ヲ仕組投餅マキ銭酒甘酒等往来ノ者ニ施シ 夥敷群集致候 就テハ追々隣町近村ヘモ降リ 右同様ノ事ニ御座候 渡船場へハ廿五日ニ降リ廿六日ヨリ五夜五日御神燈ヲ献シ 一日糯米一斗弐升宛 餅ヲ搗牛馬ニ施シ申候 賽銭九百九十一文有

『三州吉田船町史稿』、488頁〜489頁
 
5.『豊橋市史』にみられる船町文庫資料

歌川学氏は、『三州吉田船町史稿』の「校訂者序」で、愛知県史・豊橋市史編纂資料としてごく一部が筆写されたとしています。この愛知県史資料については次項で述べます。

『豊橋市史』史料編五(昭和三十九年・1964年)には、次のように吉田川(豊川)の交通に関する資料が収めらています。いずれも、当時の豊橋市立図書館所蔵のものとしています。今回、豊橋市中央図書館ホームページで蔵書検索したところ、[G]のみヒットしませんでした。

 
A 御橋(御掛直シ 御修覆 御見分)御用覚


 
数は正確に数えていませんが、『三州吉田船町史稿』にも同様の資料がいくつかみられます。
 
B 船町指出シ之覚


 
数は正確に数えていませんが、『三州吉田船町史稿』にも同様の資料がいくつかみられます。
 
C 三州吉田大橋御修覆諸色入札目録

 
『三州吉田船町史稿』、95頁に標題が記載され、全文は省略されています。
 
D 吉田大橋設計図


 
『三州吉田船町史稿』にも似たような折り込み図があります。同じものを写したようにもみえますが、図は異なります。
 
E 三州吉田大橋新規御掛直御入札帳

 
『三州吉田船町史稿』、98頁に標題が記載され、全文は省略されています。
 
F 船町記録并浜名神戸神目他書面五通 。





 
羽田野敬雄による写本で、原本の所在は不明とあります。御衣祭関係の資料が含まれています。

数は正確に数えていませんが、『三州吉田船町史稿』にも同様の資料がいくつかみられます。
 
G 吉田大橋御普請御用船役帳



















 
明和五年・1768年のもので、前芝関係の資料です。『豊橋市史』史料編五、所収の「吉田大橋御普請御用船役帳」も、原本からの写しではありません。

解説には、白井一二氏の穂国文庫に原本があり、豊橋空襲で焼失したため、昭和十二年六月に、市史編纂委員会によって筆写されたものを底本としたとあります。なお、同資料には、「穂国文庫本(四七〇三)ヲウツス 昭和十二年六月」と書き込まれています。

「東海道吉田大橋の修理架換と臨時渡船」に用いられている「吉田大橋御普請御用船役帳」も、内容は明和五年のもので、穂国文庫の原本を元にしていますが、僅かな異同があります。

なお、これとは別の資料、寛延四年・1751年の「吉田大橋御普請御用船役帳」(前芝・加藤家文書)が、『豊橋市史』第七巻(昭和五十三年・1978年)に収められています。白井一二氏が所蔵していた明和五年の原本は、すでに昭和七年には穂国文庫にあったことがわかりますが、もともと前芝加藤家にあったものではないでしょうか。

明和五年の「吉田大橋御普請御用船役帳」のなかには、寛延四年と同文の箇所があります。以上三点の資料を突き合わせることで、さらに正確な資料となるでしょう。

 

『豊橋市史』史料編五の「あとがき」で、解説に素性が明記されていない資料は、大口喜六氏が蒐集筆写したものだとしています。これにしたがえば、[A]〜[E]までは大口喜六氏による筆写、[F]が羽田野敬雄による筆写、[G]は市史編纂委員会による筆写となります。なお、「吉田大橋設計図」には解説がありません。

『三州吉田船町史稿』の「校訂者序」には、「既に公刊されているものと同文の場合には注記の上省略した」とあり、[C][E]についてはこれにあたります。

『豊橋市史』第二巻・第三巻では、『三州吉田船町史稿』が多く利用されており、御札降りについても、第二巻・第三巻で取り扱われていますが、直接船町文庫資料を筆写した資料を見いだすことができません。

『豊橋市史』第七巻には交通関係の資料が収められており、前芝の加藤家文書はじめ水上交通関係の資料がみられますが、このなかにも船町文庫資料はありません。

豊橋市史編集委員会がどのように編纂資料を整理・分類していたのかはまったく知りませんので、これ以上のことはわかりませんが、船町文庫という名称以外の資料名が使われている可能性も考えられますし、私の見落としがあるかも知れません。
                 
関係する『豊橋市史』と『三州吉田船町史稿』を発行年代順に並べました。
 
・『豊橋市史』史料編五(昭和三十九年・1964年)
・『三州吉田船町史稿』(昭和四十六年・1971年)、
・『豊橋市史』第二巻、近世編(昭和五十年・1975年)
・『豊橋市史』第七巻、近世史料編下(昭和五十三年・1978年)
・『豊橋市史』第三巻、近代編(昭和五十八年・1983年)

上記五冊すべてに歌川学氏が関わりを持っていることから考えますと、『三州吉田船町史稿』でいうところの豊橋市史編纂資料とは、『豊橋市史』史料編五、所収の大口喜六氏筆写の資料を指すのかも知れません。この資料は、船町文庫資料から直接筆写した可能性は高いと思いますが、『三州吉田船町史稿』の《原稿》中の省略箇所と校合する必要があります。私は、『豊橋市史』史料編五の資料は知っておりましたが、これとは別の筆写資料が存在しているものと思っていました。もっとも、『豊橋市史』史料編五に収められていない資料を豊橋市が所蔵していることも考えられます。

また、『三州吉田船町史稿』の「校訂者序」に現存すると記された「一部の目録」についても所在を確かめることができませんでした。
 
6.旧愛知県史資料「渡船場諸雑記」について

船町文庫の資料が愛知県史の編纂資料として所蔵されていることは、戦前から知られていました。前述しましたように、船町文庫資料の一部を筆写した大口喜六氏は、「一部が愛知県庁に残れるはずである」(『心月記』)と書いています。この「一部」については、原本か筆写であるか明記されていませんが、原本とは考えにくいと思います。『三州吉田船町史稿』の校訂者である歌川学氏も、愛知県史編纂資料(以後、新編の愛知県史と区別して、《旧愛知県史資料》と記します)としてごく一部が筆写されたとしています。船町の御札降りを確認するために必要な資料である「渡船場諸雑記」が、《旧愛知県史資料》にあるかどうかが私にとっては大きな問題でした。

旧・『愛知県史』第二巻(昭和十三年・1938年)、「第五章交通、第一節東海道」、吉田橋の項の注には、「船町史稿」(626頁)とあり、「第五章、第四節海上交通」、吉田湊を取り扱った項の注には、「船町に関する事項は全て船町町有文書に據り、船町史稿を参照した」(700頁)とあります。この「船町史稿」については刊行される前のものですが、それが、刊本である『三州吉田船町史稿』の《原稿》であるのか、さらに元になる《別の原稿》が存在したのかは確認してみなければわかりません。

また、旧・『愛知県史』別巻(昭和十四年・1939年)は、史料編であり、「船町町有文書」(867頁)として、船町に関する資料が抄録されていますが、「渡船場諸雑記」ではありません。私はこれで、《旧愛知県史資料》には、「渡船場諸雑記」が含まれていないと思い込み、新編の愛知県史には、《旧愛知県史資料》は収めることはないだろうとあきらめていました。

このため、新・『愛知県史』資料編19(平成二十年・2008年)に、「416 慶応二年七月 吉田大橋流失につき東海道吉田宿船町渡船記録(抄)」(535頁)として、「渡船場諸雑記」が収められているのに気が付いたのは今年(平成二十一年)になってからでした。表紙に「慶応丙寅 渡船場 諸雑記」とあり、《旧愛知県史資料》からの抄出であることが記されていました。

さらに、新・『愛知県史』所収の「渡船場諸雑記」は、『三州吉田船町史稿』所収の「渡船場諸雑記」とは少し異なっており、原本から直接写したものと思われました。

そこで、「渡船場諸雑記」について、愛知県総務部法務文書課、県史編さん室に問い合わせたところ、次のことを教えていただきました。

1.「本書ハ豊橋市船町町有文庫所蔵史料より謄写」昭和9年6月とある。
2.簿冊を全部謄写したものと思われる。
3.御札降りの日付は、「慶応三年丁卯六月廿一日より」となっている。
4.御札降りの記事は、八月三日と八月四日の記事の間にある。
5.目録によれば、以下の船町関係資料(筆写と思われる)がある。
  番組中間帳(寛文元年)
  魚売買口銭書附(元禄9年)
  御救金之帳(元禄10年)
  木綿大豆作御了簡引(万延元年)
  惣勘定目安帳(慶応2年)
  御目録拝領記(慶応4年)

お聞きしたいことは他にもたくさんありましたが、県史編さん室は閲覧やレファレンスのための施設ではありませんので、これ以上お聞きするのは失礼かと思いやめにしました。とても丁寧に対応していただき、本当に感謝しております。

上記[5]の目録とは何であろうかということで、新・『愛知県史』資料編19を読み直してみました。「史料群解説」に、《旧愛知県史資料》の説明が次のようにありました。「なかには吉田宿船町に関する記録などのように、原本は戦災で失われたとみられるものがあり、消失した文書を補うことができる貴重な史料を含む。愛知県図書館刊行の『愛知県史史料目録』により概要を把握できる。現在、愛知県史編さん室が保管している」

豊橋市中央図書館が所蔵する、『愛知県史資料目録』(愛知県文化会館愛知図書館、昭和四十二年・1967年)には、しっかりと「渡船場諸雑記」が載っていました。「渡船場諸雑記」と上記[5]の資料の他にも船町に関係すると思われる資料が数点ありました。目録からスタートするのは基本でした。思い込みも恐ろしいことです。

これで、船町御札降り日付の誤写についての問題が解決したように思われます。しかし、船町御札降りと、以後の吉田宿及び周辺の御札降りやそれに伴う神事・賑わいなどとの関連を解明するという大きな問題が残されています。この点でいくつかの疑問や不明な点があることは確かです。
 

再考、三州吉田宿船町の御札降りと船町文庫
1.三河国吉田宿船町の御札降り
2.船町文庫(龍運寺)
3.佐藤閑翠翁と『三州吉田船町史稿』
4.「渡船場諸雑記」と船町の御札降り
6.旧愛知県史資料「渡船場諸雑記」につい
 

『三州吉田宿の御札降りと、ええじゃないか』(1)−(5)概要

【三河武士がゆく】